ままならぬ世界よ、滅んでくれてありがとう。

やなぎ怜

ままならぬ世界よ、滅んでくれてありがとう。

 世界が滅びることになった。あるいは、人類だけが滅びるのか。紙村かみむらは詳しいことを知らない。知らなくても別に困らなかった。


 そうやって紙村はテキトーに生きてきた。いつだって雑に自分の人生の駒を進めてきた。


 それで別に困ったことはない。家族だって友人だって、あとたまに恋人だっていたので、紙村は自分の人生が空疎などと思ったことはなかった。


 けれども周囲の人間はどうもそうではないらしい、ということにも紙村は気づいていた。


 世界が滅びることになって唐突に立ち現れたそれらを紙村は「本性」と表現すべきか悩んだ。短絡的に答えを出さない程度には、紙村は思慮深さを持っていたので、ためらいが生まれたのだ。


 そうやって紙村は初めて己の人生というものを振り返った。これ以上の道は続いていないので、振り返るしかなかった。


 そして初めて自分の人生は「つまらない」と評せるものだと気づいた。


 紙村は己が特別な人間だと思ったことはない。ひとかどの大人物になれる器と信じ込んだこともない。


 けれども己のその、人生の終点を迎えるにあたって、それが「価値のある死」であって欲しいという、そういう欲求を抱くに至った。


 その願いが身のほど知らずなものなのか、あるいはだれしもが抱く陳腐な願いなのかまでは、紙村にはわからなかった。


 なにせ紙村は今までテキトーに生きてきたので、他人の心などわかりはしない。だから己の中に生まれた欲求がどれだけ普遍的なものなのか、わからなかった。


 聞くべき相手もいない。まだ生きている身近な友達は、紙村の真面目な悩みに答えてくれるかどうか怪しい。いや、一笑に付すだろう。紙村は、そういう人間としか付き合ってこなかったからだ。


 世界が滅びることが決まって、友達のひとりは遊ぶ金欲しさに強盗を働いて嬉々として自慢していた。紙村の友達は、そういうやつばかりだった。


 そんな風に己の犯した罪を自慢げに語っていた彼ももういない。一週間前に母親に殺されて、その殺した母親は首を吊って死んでいたからだ。滅びを前にした世界ではあまりにもありふれた出来事であったので、ネットニュースにも載りはしなかった。


 そういうことがあって、自然と紙村が所属していたグループは雲散霧消した。もうだれも学校にはきていない。グループの中で未だに律儀に登校しているのは紙村だけだった。


 他の友達――だったひとたち――が、今なにをしているのか、そもそも生きているのかさえ紙村は知らない。


 グループチャットに送信したテキストはだれにも読まれず今もただそこにある。


 不思議とさみしさはなく、なんとなく腑に落ちる感覚だけがあった。


 人並みに「友情」に夢を見ていたはずなのに、いざそれが幻影のようなものだったと突きつけられても、案外とショックは受けていない。


「家族」に対してもそうだった。紙村の三つ上の姉は「彼氏と死ぬんだ」と言って家を出て行った。母親は疲れ切った顔をして止めもしなかった。


 そのうちに気づいたら父親も母親も家には帰ってこなくなっていて、紙村は「こりゃ死んでるな」などと薄っすら考える。


 もともと、仲のいい家族じゃなかった、という事実に紙村は気づいたわけであるが、こちらもあまりショックを受けなかった。


 自分以外、ひとの気配のない一戸建てから高校へと通う日々も、そのうち終わるのだろう。


 紙村はそうやって己の人生を振り返り、あるいは俯瞰して、ふと「価値のある死」を迎えたいという欲求を抱くに至ったのであった。


 豪勢な理由はない。ただどこかに、だれかに、己が生きていた爪痕を残してやりたい。ふとそう思っただけの話だ。


 そうしてどうなるのかまでは考えていなかった。人類すべてが死に絶えるのならば、爪痕を残しても意味がないことくらいは気づいている。けれども一度抱いた欲求は簡単には消せない。


 だから紙村は小筆こふでを選んだ。



 小筆はきっとだれしもの記憶にいるような、クラスに必ず一人はいるような、地味で目立たなくて友達が少なくて、ときたま正反対の性格の人間にイジられるような、そういうクラスメイトだ。


 休み時間は所在なさげに本を読むか、机に突っ伏して寝ている――あるいはそのフリをしている――人間だ。


 紙村の人生の背景をにぎやかしもできないほどに地味で大人しい、そんな人間。


 だから、ちょうどいいと思った。


 小筆からすればチャラチャラとしているだろう自覚のある紙村は、彼ならば願いを持ちかけても拒絶できないだろうという確信があった。つまり、小筆は御しやすい人間だと思ったわけだ。


 小筆は学校に居場所なんてないような顔をしているのに、なぜか世界が滅びることが決まっても律儀に登校している。


 もう教室に入ってくる人間は両の手で悠々足りるなかで、小筆は相変わらず学校へ来て、己の席に座って、所在なさげな顔をしている。


「小筆、海行こうぜ」


 紙村は昔からの友人に呼び掛けるような気安さで、小筆を呼んだ。


 小筆は始め、己が呼ばれているとは気づきもしなかったらしく、不思議そうに眼鏡の奥の瞳を丸くさせていた。


「海?」


 オウム返しにそう問うた小筆に、紙村は「ああ、海行こうぜ」と繰り返す。


 小筆はなにか言いたげな顔をしたものの、最終的に開いていた文庫本をゆっくりと閉じて、学校指定の紺色の鞄の中に仕舞った。


 小筆と紙村。悪目立ちしそうな取り合わせだったが、だれも気にはしない。教室の片隅で紙村にはよくわからないトークをしている女子たちも、ふたりの会話に気を払っている様子はなかった。


「……わかった」


 小筆はそう言って文庫本を仕舞い込んだ、重たそうな通学鞄を手にして立ち上がる。


 紙村が教室を出ると、小筆もそれについて行く。顔をうつむきがちにして。


 紙村は小筆がなにを考えているのかさっぱりわからなかったが、それは小筆も同じだろうことはわかった。


 それでも紙村に着いてくるのだから、やはり彼が予想した通り小筆は御しやすい人間なのだろうと思う。


「小筆ってさあ、車運転できる?」


 紙村は今年で一七歳になったので、クラスメイトの小筆は一六か一七だ。バイクならともかくも、乗用車を運転する資格は取得できない。だから紙村の問いは戯れのようなものだった。


 昇降口で学校指定の革靴を取り出しながら、やはりうつむきがちに小筆は答える。


「……できるけど」

「え?! マジ?!」


 紙村は純粋に驚いて、もたもたと靴を履く小筆を見下ろした。


 小筆はそんな紙村の視線にいつものあの所在なさげな、居心地の悪そうな顔をしながら言う。


「免許はもちろん、持ってないけど」

「でもできるんだ?」

「私有地でしか運転したことないよ」

「……小筆って実は金持ちの家とか」

「ううん。父親の実家が牧場やってて……それの手伝いで運転とかしてたから……普通の道は走ったことないけど……」


 紙村がまず抱いた感想は、「小筆、意外としゃべるな」だった。


 普段しゃべり慣れていないせいなのか、ところどころ言葉詰まったが、まったく聞き取れないということはない。


 それと、紙村が想像していたよりも小筆の声は低かった。なんとなく、もっとハイトーン寄りの声かと思っていた。


 しかし小筆は背も低いし肉付きも悪いが、紙村と同じ男子高校生なのだ。もう声変りはしているし、首には喉仏がある。弱々しい声であったことは、予想通りだったが。


「小筆んち車ある?」

「たぶん……。母さんが使ってないなら」

「じゃ、それで海行こーぜ!」

「……本気なんだ」


 小筆の声には呆れの色はなく、先ほどの紙村同様、純粋な驚きに支配されているようだった。


 紙村はなんとなく小筆の顔を見た。小筆はうつむきがちであったが、両の目はしっかりと紙村を捉えている。


 けれどもそれも紙村が見返せば、さっとそらされてしまったのだが。


「本気本気。一緒に思い出作ろうぜ?」


 あからさまに軽薄な言葉を、小筆がどう受け取ったのかまでは紙村にはさすがにわからなかった。


 でもそれでもよかった。紙村の目的は小筆を海に連れ出すことであったからだ。それが叶うという結果に繋がるのであれば、過程のさなかに抱かれる感情など、どうでもよかった。


 小筆はややあってからふーっと軽く息を吐く。視線は相変わらず合わなかった。


「家まで結構かかるけど……」

「どんくらい?」

「乗り継ぎしないと……」

「オッケー。小筆が運転する車に乗れるならどれくらいかかってもいいよ」

「……そう」


 小筆は紙村の目的を問い質そうとはしなかった。逡巡している様子はあったが、結局彼は紙村には逆らわない。


 なんだかんだで、学校にきている以上、小筆は人肌が恋しいのかもしれないなと紙村は思った。



 *



 海を見てひとこと、小筆は「怖い」と言った。


 冬の海辺は寒風がきつく、海面から冷気が潮のにおいと共に風に乗って顔にぶつかってくるようだった。


 曇り空を映すように、黒々とした海は、たしかにいかにも恐ろしげかもしれない。けれども海を見て怖がるなんて、子供みたいだと紙村は思った。


「小筆って海とか行かなさそー」

「……そうだね。夏休みとかいつも山だった」


 紙村はそういう意味で言ったのではなかったが、小筆は気づいているのかいないのか、華麗にいなしてしまう。


 ふと紙村は小筆の手が己のコートの裾を引っ張っていることに気づいた。厚手のコートなので、すぐには気づかなかったのだ。


 人差し指と親指でつまむように紙村のコートを引っ張る小筆の姿は、幼子のようだ。海を見て「怖い」と言ったのは本心らしい。


「そんな怖い?」


 紙村はコートをつかむ小筆の手を見て言う。


 小筆はそこでようやく己が紙村のコートを引っ張っていたことに気づいたらしく、気まずそうな顔をして「ごめん」と言った。


「別にいいけど」

「ごめん……気持ち悪いよね……」

「そこまで言ってないけど……」


 消波ブロックに波があたり、しぶきが跳ねる音が響き渡る。種類はわからない海鳥の鳴き声が響き渡る様は、かつての日常を思わせた。けれどもその日常を思い出すのはもう難しくなってしまっている。


 小筆の手が紙村のコートから離れる。


「別に……怖いならつかんでてもいいけど」

「……え?」

「怖いんでしょ?」

「ま、まあ……」


 紙村はなんで自分がこんなことを言ったのか、わからないでいた。


 小筆は一度離した手を再び紙村のコートへと伸ばし、また控え目につまむように引っ張る。その姿は親に対しても素直になれない子供のようだった。


「……紙村くんは……」

「うん?」

「なんで、海に?」

「あー……うん」


「海で、死のうと思って」


 小筆の眼鏡の奥に隠れていた瞳が、見開かれたように感じた。


 紙村は、なんとなく気まずい思いをする。先ほどまで、気まずく思っていたのは小筆だろうに、今では紙村までもがそう思っている。


「……小筆ってオレの下の名前、知ってるっけ?」

「……海生みお

「知ってるんだ」

「……うん」

「海で出会って生まれたからってさ、笑っちゃうくらい単純だよね。しかも女みてえな響きだし。だからオレ、オレの名前あんま好きじゃないんだわ」

「……そっか」

「……でも、海はなんか嫌いになれないというか……たぶん、好きなんだよね」

「……だから海で死ぬの?」

「うん……」


 小筆がくいと紙村のコートを引っ張る。それに釣られるようにして紙村は小筆を見た。小筆は相変わらずうつむきがちだったので、背の低い彼のつむじが紙村には見えている。


「僕……車で紙村くんをここまで連れてきた」

「うん。ありがとね」

「無免許運転までして」

「うん」


 紙村はてっきり小筆は「死ぬのはよくない」だとか「利用したのか」だとかいう風に怒るのだと思った。


 けれども、違った。


「僕……紙村くんの願いを叶えたんだ。だから……」


「だから、僕の願いも叶えて」


 小筆の目はあからさまになにもない中空を見つめていた。こういうときでさえ、彼は視線を合わせないのだ。合わせられないのだ。


 小筆の頬も鼻先も、寒さのせいか赤くなっている。そこに、気恥ずかしさによる熱が加わっていたとしても、紙村には見極められない。……見極められなかったからと言って、別に困ることはないのだが。


「『願い』って?」

「僕を殺して」

「え?」

「……紙村くんに……殺して欲しい」


 紙村は剣呑なセリフを己が先に発したことも忘れて、ぽかんと呆気に取られた。


 小筆はうつむいたまま、言葉を続ける。


「……ダメ?」

「いやあ……」

「どうせ死ぬなら、僕を殺してからでもいいだろ」

「それとこれとは違うっていうか……」

「僕は、紙村くんになら――」


 小筆の言葉尻は彼のくしゃみによってかき消えた。


 紙村はチャンスだと思って、小筆の腕を取る。


「……一度車に戻らない? あんまりにも寒いし」

「……うん」


 てっきり抵抗するかと思いきや、小筆は紙村の言葉に素直に促される。


「調子が狂うなあ」と紙村はひとり心の中でごちる。御しやすそうだからと小筆を選んだのに、今では彼に振り回されている。形勢逆転だ。


 戻った車内はここにくるまでにつけていたヒーターの温度の名残があり、寒風吹きつける外よりかはだいぶマシだった。


 運転席には小筆、助手席には紙村。きたときと同じ位置取りだったが、紙村は「このまま車で海に突っ込んだりして」と物騒な妄想をする。


 しかし小筆はエンジンをかけたりしなかったので、じきに紙村のその妄想はしぼんでいった。


「……小筆はさ、なんで死にたいの?」

「……この状況でそれ、聞くの?」

「まあ……」

「別に紙村くんを止めるためとかじゃなくて……もっと私的な理由というか」

「私的な理由って?」


 小筆は相変わらずうつむいていた。ふと見ればその耳は赤くなっている。先ほどまでの冷たい風を受けていたせいか、羞恥のためかまでは紙村にはわからなかった。


「……男の人に殺されたいだけだよ」

「え? ……そーいうセーヘキってこと?」

「まあ、そうなような、そうでもないような……」

「どういうこと?」

「僕……男の人が好きだから。……でも、そういう風には振る舞えないから……」


 紙村は「あ」と声を出しそうになった。得心がいったという声を出しそうになった。けれどもそれをどうにかこうにか我慢する。小筆にとっては、かなりデリケートな話題であることはたしかであったからだ。


「じゃ、だれでもいーんじゃん?」

「だれでもというわけじゃ……僕にだって好みはあるから……」

「そっか……まあ、そうか。……え? オレが好みなの? 小筆って」

「うん、まあ……うん、そう」


 だれでもいいなら自分じゃなくてもいいだろうと思った紙村だったが、それはすぐに小筆本人によって否定される。そしてそれが導く答えはひとつしかなかったわけで。


「……紙村くん」

「……はい」

「僕の首、絞めてみてよ」

「怖いこと言うな~……。……思ったんだけどさ、男が好きならさ……」


「キスとかセックスとかじゃダメなの? 殺してもらうのがいいの?」


 小筆は逡巡した目で「それは……」と言う。


 また小筆が目を伏せたのを見て、紙村は彼の顎を乱暴につかんで自分の方へと向かせる。


「……いいかもしんない」

「え?」

「それでいいじゃん。キスとかセックスとか……オレとする?」

「え? ……ええ?」


 紙村の今までの恋人はみんな女子だ。男とどうこうなるとかなんて、嫌悪感を覚えるより前に、そもそも考えたことがなかった。


 けれどもこんな状況になって――世界が滅ぶことになって思うのだ。そういう経験をしてみるのもまあ悪くないんじゃないか、と。


 なによりもそうすれば紙村の目的は果たせられる。つまり、だれかに爪痕を残したいという欲求は、満たされる。


 それはもしかしたらことさら小筆には残酷な仕打ちかもしれない。けれども紙村にはどうだってよかった。


 どうせ――世界は滅ぶのだから。


「……紙村、くん」

「うん」

「……よろしく、おねがいします」


 顔を真っ赤にした小筆のその言葉の最後の方は、紙村の唇に呑まれた。


 呑み込んだ言葉は密かに紙村の胸を打ってじわじわと彼を侵食して行くのだが、それに気づくのはもう少し先の話。

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