草花の妖精

桐谷はる

草花の妖精

 25歳から37歳の半ばまで、私は妖精と話すことができた。

 見ることだけは今でもできる。

 草花の陰でそよぐ透明な羽根。ほっそりと華奢な、きれいな手足。人間と小鳥とカマキリの美しい部分だけ寄せ集めて、絵本に出てくる妖精の形にまとめたらこうなるだろうという姿をしている。水槽をただよう海月のように、ふわりふわりと優雅に動く。互いに顔を寄せ合って、何かささやきあいながらくすくす笑う。


 彼らの言葉を聴くことはできない。

 何か喋っている、それは聞こえる。以前は言葉として理解ができた。たまには会話をすることもできた。彼らは大抵好き勝手なことをしゃべるが、気が向けば私の知りたいことを教えてくれた。天変地異がどこで起きるか。明日熟れる林檎のどれが一番甘いか。新聞に写真が載る政治家や資産家のうち、明日突然に死ぬのは誰か。

 私は彼らの予言をもとに、知恵を絞って株を売り買いした。手っ取り早く株価そのものを教えてもらうのは、説明が難しくてうまくいかなかった。大学を出たての新入社員だった私は多くない給与から3万円を投じた。損をすることもあったが、確実にあたるときだけ賭けることを覚えた。

 じわじわと確実に残高は増えた。

 妖精と出会う前の私なら、雑誌に載っているのと同じ洋服を買ったり、海外旅行に行っておいしいものを食べたり、好きなことにお金を遣っただろう。しかし私はそうしなかった。いつも決まった健康的な食事を摂り、安価できちんとした服を着て、暇ができると妖精のことを考えた。

 妖精の姿を眺めていると、それだけで満たされてしまうのだ。

 お金を貯めていたのも、もっと広い場所で植物を育てて彼らとゆっくり過ごしたいというただそれだけの理由だった。少し古くて広いマンションがいい。裕福な老人がゆっくり余生を楽しんでいるような、静かで落ち着いた場所がいい。周りから見えないように囲われた日当たりの良いベランダに、私はたくさん草花を植える。そして、毎日ていねいに手入れをする。どうしてもというとき以外はどこにも出かけず、妖精とおだやかな日々を過ごす。

 それはとても幸せな生き方のように思えた。


 タナベノウチと名乗る老人から連絡が来たのは、マンション探しをはじめたもののうまくいかず、いらだっていた頃のことだ。

 まったく突然に電話が来た。会社の、自分の部署の番号からだった。何かと思って出てみると、知らない老人の声がした。ハリウッド映画の吹き替えみたいな声だ。すごく有能な老執事とか、そういう知的な役の声だ。

 彼は口早に最近私が当てた株や馬券を全て挙げ、「あなたのような方と仕事をするのがわたくしどもの仕事です」と言った。

 ――わたくしどもはあなたをお助けすることができる。あなたはわたくしどもに、あなたができることをしてください。これはあなたにとってとても良いお話です。

 助けてくれるとはなんですか、と私は聞いた。なんでもです、と老執事の声は言った。私は私の理想の生活を送るためのマンションのことを考え、そのベランダで飛び交う妖精のことを考え、彼の申し出を引き受けた。

 私は株を売り買いするのを止めた。

 親兄弟も含め、人付き合いを完全に絶った。タナベノウチはマンションをはじめ、ありとあらゆるものに的確に便宜をはかってくれた。毎週水曜日の午後6時に妖精の言葉をメールで伝える以外、私は何もする必要がなかった。

 妖精のもたらす予言は、有益なものもどうでもよさそうなものもあった。

 人の生き死にや災害の起こる日時、絶滅しかけた鳥の最後の一羽がいつどこで天敵に食われるのか。私にはよくわからない情報であっても、タナベノウチやその仲間にとっては価値があるものらしかった。

 それまで妖精が気まぐれに喋ることを拾い上げるだけだったが、タナベノウチからどうしてもと求められた場合に限り、私から彼らに話しかけることも始めた。

 自分でも驚いたのだが、何度かは会話ができた。正確には、会話にはなっていなかったがとにかく私の質問に反応し、答えを返してくれた。自分が何かとても特別なものになった気がして、私はとてもうれしかった。


 声を聞くことができなくなったのは、本当に急なことだった。

 水曜日の午後六時にメールの返信を出さずにいたら、一時間後にタナベノウチから電話が来た。相変わらず、とうに辞めた会社の電話番号を使っていた。

 ――できなくなりましたか。

 私が何か言う前に彼は言った。とても淡々とした言い方だった。

 ――皆さんね、急にできなくなるんです。あなただけではありません。もっと短い方もたくさんいらした。あなたはずいぶんわたくしどもの役に立ってくださった。長くこの仕事をしておりますが、これほど長くお勤めいただいた方はほとんどいらっしゃいません。みなさん大抵は三か月ともちません。

 私はこれからどうなるのですか、と聞いた。

 ――もちろん、あなたの人生を生きるのです。お疲れさまでございました。わたくしどもは実に良い買い物をさせていただいた。あなたのご多幸をお祈りいたします。

 その後、タナベノウチとの連絡に使っていた通信機器は電話もパソコンも壊れて動かなくなった。私の手元には広いベランダのあるマンションと、注意深く分散投資された多額の預金と、社会のどこにもつながりを持たない自分だけが残った。



 妖精は花咲く場所に出る。

 彼らの姿を見たいがために、アパートのベランダで草花を育てている。スミレ、マツバボタン、サクラソウ。赤ん坊にも手折れるような、頼りなく柔らかな花を咲かせるのが好きだ。「私が種から育てた花の傍」「私以外の人が見ていない場所」「風がなく穏やかな午後二時から三時の間」、この3つが揃えば必ず出る。ひとつでも欠ければ決して出ない。タナベノウチは折に触れ、私が何をどうしているのかを聞き出そうとしてきたが、私は決して言わなかった。

 25歳から37歳の半ばまで、私は妖精と話すことができた。

 何か喋っている、今もそれは聞こえる。しかし意味まではわからない。あの美しく豊かな時間を、言葉を交わす幸せをなぜ金に換えたのかと私は一生悔やむのだろう。しかしもう一度時間を戻せたとして、私はきっと同じことをする。

 互いに顔を寄せ合って、何かささやきあいながらくすくす笑う。

 草花の陰でそよぐ透明な羽根。ほっそりと華奢な、きれいな手足。人間と小鳥とカマキリの美しい部分だけ寄せ集めて、絵本に出てくる妖精の形にまとめたらこうなるだろうという姿をしている。

 声が聞こえなくなって十年経った。

 植物みたいに彼らと生きて、ひっそり枯れるみたいに消えることができたらそれでいいじゃないかと思っている。できれば死ぬのはこのベランダがいい。年老いた私の死体の上で、夢のようにうつくしい妖精たちがひらひらと飛び回ればいい、と思う。

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草花の妖精 桐谷はる @kiriyaharu

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