全編掲載「リクルート・オブ・ザ・ラブ 第一部『自己分析 まだ、ここにない出会い』」灰沢 清一

2019/6/1


某大手印刷企業の最終面接を迎えたタケダシュンイチは、自宅アパートの六畳一間で黙々と想定問答を熟読していた。本命だった広告系の選考には一次選考であっさりと落とされ、その後もよくて二次選考止まりだった彼の就活に、ようやく光明が見え始めたところだった。彼は印刷という仕事に一ミリの興味も持っていない。プリンターすら自室になく、ESを印刷するためにわざわざ大学のパソコンを使わなければならなかった。

「……多種多様な企業と関わり、熱意を持ったお客様の思いを実際に形にする作業に携わることができる点に魅力を感じました。私は当初御社のイメージは印刷しかありませんでした。ですが選考を通じて、御社は印刷だけでなく、様々な領域でビジネスを行うことができる会社であると知りました。私自身、所属していたフットサルサークルで様々な人と関わり、渉外や企画運営など数多くの仕事に挑戦してきました。御社での仕事を通じて様々な困難に挑戦し、自ら成長しながら社会に貢献していきたいです」

率直に言って、浅かった。だが、彼は壊れたテレビのようにこの文言を繰り返すことで就活生の大群を蹴散らし、ようやく最終選考という舞台に立つことができたのだ。就活における言説の正当性は、その主体であるはずの自分自身によってはまったく保証されない。本音を言ったら落とされるし、面接官がどれだけくだらないことを言おうが、仮面のような笑顔を保たなければならない。茶番だ。しかし、自らビジネスを興し、フリーランスで働こうとするだけの勇気は持ち合わせていない。だからこそタケダはなんとしてでも今日の選考を成功させなければならないのだ。

「はい! はい! はい! はい! はい! はい! はい! はい!」

質問されたらまず、「はい!」と元気よく返事。それが就活における生存戦略。五月に嫌々行った就活セミナーで、彼はその鉄則をさんざん脳に叩き込まれた。思考体系を就活に適合させよ。俺に自由意志は存在しない。社会に貢献せよ。成長せよ……! 鏡の前で声を張り上げるタケダの目にはクマができていた。他の就活生と同様に、タケダは非常に焦っていた。ゼミの同期はみなとっくのとうに第一志望への内定を決め、この世の花とばかりに池袋サンシャインシティで遊び呆けている。早く解放されたいという思いばかりが募り、ろくに眠ることができていなかった。就活を終わらせた学生が既に六十パーセントを超えたというネットニュースも余計に彼を苛立たせた。企業の採用解禁日は今日からのはずなのに、当たり前のように企業が前倒しで採用活動を始めていることのおかしさを冷静に指摘する余裕すら失われていたのだった。顔が曇る。これではいけないとタケダは息を大きく吸い込み、コロス! と叫んだ。周囲にコロス! と当たり散らすことで、彼はどうにか自らの精神の平衡を保っていた。石ころにつまずいたときにもコロス! 駐輪場の自転車を倒してしまったときにもコロス! カップめんを床にこぼしてしまったときにもコロス! 面接官にコロス! と言いさえしなければどうにかなるのだ。とにかくやるっきゃない。リクルートスーツを身にまとい、ため息混じりで家を出た。

ワイシャツの下に汗を滲ませながら、タケダは最寄り駅まで歩いていた十一時六分にJR総武線三鷹行きの電車に乗れば、十三時の面接……の前の真実の集合時間である(十五分前に集合することは「社会人としてのマナー」として最重要、何がなんでも守らなければならない作法であるようだと、複数の就活サイトをあたったタケダは結論していた)十二時四十五分には余裕で着く。何度やっても、面接前には激しい心音の高まりを感じてしまう。何度も感じたこの嫌な緊張は、これで終わりにしたい……。真っ黒のリクルートスーツを左手にかけ、徹夜で作り上げた想定問答や企業のパンフレット、メモ帳や筆記用具と腹ごしらえ用の菓子パンを詰め込みパンパンに膨らんだリクルートバッグを片手に歩を進めているのはタケダだけではなかった。前に一人、後ろに三人。男も女も目をぎらつかせ、肩をいからせながら歩いている。この五人の中で、一人だけが内定を勝ち取り、後は容赦なく落とされる。こいつらを踏み台にしてでも、俺は御社の内定を掴み取ってみせる……全速前進! そういきまいた瞬間、頭上から一枚の白い紙がひらりと舞い降りた。人事の目を過剰に警戒しているタケダは、普段のように紙切れを踏みにじり唾をペッペッペと吐きかけるような真似はせず、半身でそれを避けた。それは、駅前のパチンコ店で配られるような薄っぺらいチラシではなかった。右上の方に人の顔が見えたのを、彼は見逃さなかった。拾い上げようとしたとき、また頭の上に紙が降った。ビルの上に人影は見えない。些細ないたずらではなかった。コンビニの自動ドアから、排水溝から、車の窓から、そして就活生たちのリクルートバッグの中から、無数の紙が吹き出され始めていた。

危険です! 今すぐ離れてください! 離れろ! と怒声が聞こえる。周囲を切り裂くように吹きつける紙の群れを必死にかきわけると、二階のホームに停車する総武線の電車がいつもより浮き上がって見えていることに気づく。車掌も乗客も退避した無人の電車は、ぶつかり続ける紙の勢いに押されて少しずつ動き出した。線路を埋め尽くす紙の山を電車は少しずつ登っていく。地上の人々は、ひとりでに進みだした電車にスマートフォンを向けることしかできなかった。総武線の電車はタケダたちの側に傾いている。やがて白い山の高さがホームの外壁をはるかに上回った頃、ほんの少し、風が吹いた。本来ならば人々に涼しさをもたらしてくれたはずのその風は、危ういバランスで保たれていた三鷹行きの黄色い車体を地上に撃ち落とすのに、十分すぎるほどの強さだった。落ちるな! と後ろにいた長身の男が叫ぶ。だが、二両、三両と相次いで落下していく電車を前に、彼の言葉はまったくの無力だった。どうしてくれんだよ、面接間に合わなくなっちまったじゃねえか……タクシー使う金なんかねえのに……とうなだれる男を横目に、他の就活生たちは黙々とスマートフォンを取り出し、御社にお詫びの電話をかける。申し訳ありませんと虚空に謝罪し、虚空にお辞儀を繰り返す彼らを無視して、タケダは腰近くまで達した紙の地層の中から目当ての一枚を掘り起こした。それは、野島美波という一人の就活生によって書かれた、手書きのESであった。


◯自己PR


わたしたちの世界では、二十二歳になると人は誰もが「就活」するものだと、当たり前のように定められていました。わたしたちが一度も顔を見たことのない「就活アドバイザー」たちは、毎年モニターの向こうから、人はなぜ就活するのか、就活はなんの役に立つのか、成功させるためにはどうすればいいのか、などなどたくさんのことを、とろけるほどに優しい声で教えてくれました。まだわたしが幼い頃、真っ白い壁にステンドグラスがはめこまれたいつものキャンパスで「就活アドバイザー」のお話に耳を傾けながら、就活をすると人はどうなるのだろうとわくわくした気分で考えていたのを昨日のことのように覚えています。そして、それについて何度質問してもまともに取り合ってくれなかったことに対してまったく疑問を持たなかったのを、今となってはとてつもなく後悔しています。二十二年間ずっと向き合ってきた、青文字で「リクナビ」と正面上部に印字されたモニターは、わたしの机の下で用済みとなって、ボロボロになるまで破壊された状態で転がっています。

わたしたちのキャンパスには、合わせて十人の子どもがいました。八歳から二十二歳まで、年の離れた人たちが多かったのですが、家族のようになかよく過ごしていました。朝目覚めて体操をしてから、夜あたたかいベッドにくるまって眠るまで、毎日がてんやわんやです。わたしは今や教室の中で一番年上のお姉さん。ケントやヨウコのような小さい子たちの面倒はわたしがちゃんと見ないといけませんし、ヨシヒロやサトミのような思春期真っ盛りの子たちがいさかいなくここで生活していけるように、みんなをまとめていかなければなりません。くたくたになってベッドに横になると、いつも涼乃さんのことを思い出してしまいます。頼れるお姉さんのような存在で、みんなから慕われていました。わたしは涼乃さんの一個下でしたが、彼女の前ではいつも小さな子どもになっていました。涼乃さんに頭をくしゃくしゃに撫でられると、髪の毛が乱れることも気にせず惚けた表情になってしまいます。涼乃さんはそこで何も言わず嬉しそうに笑っていました。

涼乃さんは去年、「就活」を完了し、わたしたちの前からいなくなりました。最後に涼乃さんとお別れするための会を開いたときも、ずっと笑顔でいました。ケントがボロ泣きしてスカートにすがりついてきても、「そのうち戻ってくるから!」と、ちょっとした旅行でいなくなるくらいのテンションで明るく振る舞っていました。けれど、ケントを抱きしめる涼乃さんの両腕がぶるぶると震えているのを、わたしは見逃すことができなかったのです。会が終わり、ショートケーキやクッキー、りんごのパイがたくさん乗っていたお皿を二人で洗っていると、涼乃さんはぽつりと呟いたのでした。

「わたし、就活やっぱり怖いんだよね」

蛇口の水がちょろちょろと流れているのをいいことに、わたしは黙り込んで言うべき言葉を探していました。

「『アドバイザーさん』も変だよね。就活をしたらわたしたちはみんなのためになれるんだって、何度も何度も言う。けど、みんなって何? ハルヒサさんもメイさんも、就活してから全然こっちに顔見せてくれない。なんで? わたしたちは、『みんな』の中に入ってないの?」

「涼乃さんは」蛇口がキュッと締まり、水が止まりました。「戻ってきてくれますよね」

涼乃さんは、顔をゆっくりと横に振りました。そうなのか。わかってはいたけれど、受け入れたくはない事実でした。就活なんかやめてください! と言いたくてたまらなかった。そうすればわたしたちはずっとこの真っ白なキャンパスの中で幸せに暮らすことができるのに。涼乃さんは何も言わずにわたしを引き寄せ、いつものように、いやいつも以上の勢いで頭をくしゃくしゃに撫でてくれました。そして、力が抜けたようにその場に蹲って、声をあげて泣き始めました。初めて見た涙でした。エプロンに涙が染みることも気にせず、わたしは涼乃さんを抱きしめました。窓から斜めに差し込む夕方の日の光が、部屋の中の二人を白く浮き上がらせていました。ですが、その永遠であるはずの時間を奪い去るかのように、涼乃さんのポケットの中の電話は鳴ったのです。「リクナビ」の「就活アドバイザー」以外、誰からもかかってくることのない電話。

「もしもしミヤザキです。ミツイさん?」

「あっもしもし。お世話になっております」

「どうかな? そろそろ業界は絞れた? もう他の人たちはスタートダッシュ決めてるからね。今年は去年よりもみんな早めに動いているようなんだ。でも不安がらなくて大丈夫だよ。これから動けば、全然問題ないから! 三月一日はもう近いからね! とにかくダッシュに尽きるよ。ダッシュダッシュダッシュ! それでさ、ちょっと一回面談したいんだよね。面談。ミツイさん、今週空いてるよね?」

「いえ……一昨日話して方向性は見えたと思ってたのですが……」

「いやいやいや! とにかくダッシュなんだよ! 走るためには基礎体力作りが必要だからね! やっぱりミツイさん、まだ迷ってるでしょ! そうだよ! そうに違いないよ! ぼくはやっぱり、この仕事に誇りを持ってるんだよ! 社会を作るのは、やっぱり人なわけだからね! ミツイさん、インターン行ってないよね? まあインターンは誰もが行ってるわけじゃないけどね! それでもさ、行ってる人と行ってない人じゃさ、違うんだよ! なんていうか、面構えがさ! だから、やっぱりダッシュなんだよね!」

「はい、インターンのお話はうかがいました」

「そう、そうなんだよ! あっ、今ちゃんと返事するときに、『はい』って言ってから話し始めたね。偉いね! 偉い偉い! ミツイさんはやっぱり優秀だねえ! ほんとうに! これからのVUCA、『Volatility, Uncertainty, Complexity, Ambiguity』な社会を担う存在だと、ほんとうに思うねえ! そう、だからミツイさんには絶対に、『就活』を成功させてほしいなあって思うんだよね! ってことで、空いてる日あるよね? ぼくもミツイさんに会いたいんだよ! わかるだろ? ミツイさんだって、ぼくに会いたいと思ってるはずだよ! それにね、ミツイさんがすごくもったいないと思うのは、たまに雰囲気が暗く見えるときがあることなんだよね! いや、ぼくはそういうちょっとミステリアスなところとか、時折見せる影みたいなところっていうのはさ……なんていうかすごく、そそるんだよね! あ、そそるって言い方はダメだよね。ごめんね! とにかく、ミツイさんはもうちょっとおでこを見せたりして、明るい印象を出した方がいいと思うんだよ! ぼくがちょっとモニター上で見てるから、いろいろヘアスタイルとか変えてみてほしいんだけど……」

わたしは近くにあったフライパンを手に取り、床に思い切り投げつけました。バコンという音で、辛気臭い顔を浮かべていた涼乃さんは一瞬小さな動物のように体を縮こませました。

「涼乃さんっ、大変です! すごい大変なんで、早く電話切ってすぐ来てください! 早く来て!」

「えっ……! あ、そうです! すみません、今なんかすごい大変なことになってるみたいなんです! すみません、切ります!」

 ちょっと待ってよ、ダッシュだよ! という言葉をミヤザキが言い終わる前に、涼乃さんは慌てて電話を切りました。へこんで使い物にならなくなったフライパンを手に取って、「確かに、『すごい大変なこと』になっちゃったね」と呆れながらも、口元は笑っていました。そして二人で、さっきまでの涙なんてどこにもなかったかのように無理矢理笑顔を作って、いつものように手を取り合ってくすくすと笑い合ったのでした。

たぶん、みんな就活が終わったら人はどうなってしまうのか、知っているのです。わたしも、その日が訪れるまで、羊のようにのんきに幸せな世界に浸ったふりをし続けなければならないのです。わたしは自らの強みである「嘘を吐き続ける力」を活かして、涼乃さんがいなくなった一年間を耐え抜き、遂に自分自身が就活の舞台に立つ日を迎えたのでした。


2019/6/2 ~ 2019/6/30


六月一日、就活における「企業の採用活動解禁日」を機に、日本全土を手書きのESが侵食した。北海道から沖縄まで、富裕層から貧困層まで、右翼から左翼まで、あらゆる人種、ジェンダー、宗教、組織の人間に向けて、手書きのESの嵐は平等に降り注いだ。就活とはあらゆる人間に向けて平等に開かれているのだと、神が高らかに謳い上げているようにすら思えた。発生当初、メディアは困惑を持ってそれを報道した。各地で、大量発生した手書きのESによる事故が多発していた。廃屋に降り注いだ手書きのESは六十年にも及ぶ家の歴史をあっけなく終わらせたし、鳥のように暴れまわる手書きのESは航空機の運行を著しく困難にした。また、高速で吹きつける手書きのESは、かまいたちのように日本各地の空を自在に飛び交い、肌を晒して歩く人々の体に無数の切り傷をつけた。白で埋め尽くされた道路に多量の血痕が点々と付着し、血を吹き出し呻き声をあげながら自宅へ急ぐサラリーマンたちが写り込んだわずか三十秒の動画はSNS上で五十万回以上リツイートされ、世界中の人々が島国日本で起こった惨劇に心を痛めた。幸運にも就活生たちは全身を真っ黒のリクルートスーツに包んでいたので、一般人と比べて負傷率はわずかであった。「手書きのESで娘が怪我を……」、「手書きのESが国道十六号を塞いでいる……」と通報する人々の急増を受け、消防と救急は多発化する手書きのES関連事故に関するガイドラインの策定に追われることとなる。

発生から二週間経過しても、状況は一向に改善しなかった。むしろ、手書きのESの量は指数関数的に増大しつつあった。二〇一九年六月六日に放映されたTBS「ひるおび!」にて実施された実験結果によると、新宿に設置された定点カメラでの手書きのES飛散量は一万九千四百五十枚/毎秒であった。番組の途上、お笑いコンビ「ホンジャマカ」のツッコミ担当でもある番組のメインキャスターメグミトシアキも、これには絶句してしまった。あまりにも、想定外の事態だったからだ。そこで混乱したメグミは、何も考えずに愚かな発言をしてしまう。「すごい量ですね。しかしまああれですね、ぼくはまあ、この名前が気になってるんですよね。『野島美波』でしたっけ?」メグミがその言葉を発した瞬間、スタジオは凍りついた。その名前は、マスコミにおいては公然の秘密扱いになっていたからだ。手書きのESを各地で拾った人々は、そこに「野島美波」という人物の名が記されていたことを繰り返しネット上で強調していた。だから「野島美波」という名前は既に全国民に知れ渡ってしまっていた。だが、同姓同名の人物への中傷や風評被害を避けるために、マスコミ各社は「名前を言ってはいけないあの人」として「野島美波」を扱うよう取り決めを結んでいた。にも関わらず、メグミトシアキはそこでつい口を滑らせてしまったのだ。「おい、一旦放送止めろ!」という怒声の後、スタジオの映像が「しばらくお待ちください」という画面に切り替わる。その直前、コメンテーターのヤシロヒデキが、メグミを憤怒の表情で睨みつけた一瞬をカメラは完璧に収めてしまっていたのだった。

「6・6ひるおびショック」以後、メディアは開き直ったかのように「野島美波」の名を叫び、「野島美波とは誰か?」を検証する番組を繰り返し放映するようになった。当然、野島美波と同姓同名の人々に対する事実無根の中傷は目も当てられない速度で行われるようになったが、サカガミシノブやヒロミやアリヨシヒロイキやマツモトヒトシやマツコ・デラックスやイケガミアキラが連日「野島美波」について野放図な発言を繰り返すことで視聴率はうなぎ上りに上昇していった。特にサカガミシノブは昼間のニュースバラエティやゴールデン帯の自身がMCを務める動物バラエティで「野島美波」を徹底的にこき下ろした。「俺はこういう陰湿なやつはキライだね。就活ぐらいちゃんとやれって話だよ。『野島美波』ってやつは甘ちゃんだよ、甘ちゃん!」と言ってのけることで、彼はジャパニーズ・オチャノマ・スターとしての名声を確かなものとしたのだった。

その中で支持を集めたのはイケガミアキラが述べた次のような見解だった。曰く、この「犯行」は言うまでもなく一個人によって遂行されうる規模を既に逸脱しています。ばらまかれているものが手書きのESである以上、これが自然災害ではないことは確かです。しかし、これが仮になんらかの目的を持った人間による行為だったとしても、送られているのが「手書きのES」である以上、それは日本中に投棄されているのではなく、日本中に送りつけられているとみなしたほうが妥当だと、私は思いますねえ。それならば、送り手の意図は日本国家全体を相手取った「就活」に他ならないんじゃないか。もしもこれが犯罪ならば、リクナビやマイナビが行っているのもれっきとした犯罪行為であり、国家はそれを黙認しているということになるわけですよね。事実、あのイカれたリクナビやマイナビどもは「とにかくたくさん手書きのESを送りましょう!」、「三月からスタートダッシュを決めろ! ライバルに差をつける手書きのESの書き方講座」などとのたまって、羊のように震え怯える就活生に手書きのESの過剰な提出を煽り立てているわけなんですからねえ……! 

さすが池上さんだ! という称賛のコメントがネット上にはあふれた。そしてそれは「就活」に対する国民の根本的な疑問として噴出し、次第にインフラが破壊されていく日本を加速度的に野蛮な末法社会へと追いやっていった。誰もが壊れていた。窓から外を覗けば、手書きのESが何千兆枚も乱舞し、会社を、街を、人を、そして日本人固有の思いやり精神をメタメタに切り裂いている光景がちらり。今や外出時にはL2鋼の素材を使用した防刃ベストの着用が必須となってしまった。雨が降れば、どろどろになった手書きのESが鉄橋や高速道路、送電線にへばりつき、その撤去作業のために数十時間が費やされることとなる。ここにおいてようやく人々は、手書きのESに「あたたかみ」など一切存在せず、あるのは冷酷な悪意、それもこの世で一番とびきり無慈悲な殺意でしかなかったのだということに気づき始めていた。「世界の終わり」は現実のものとして迫ってきていたのである。


特に狂い始めていたのは、疲弊した20卒無い内定の学生たちであった。内々定の学生は既に社会へのコミットメントが約束づけられているので、事態を自分たちの問題として考えることを根本的に怠っていた。就活システムに取り込まれた学生は管理社会におかれた畜群のようにその伸びやかな思考力を喪失する。だからといって無い内定の人々が偉いというわけではなかった。何十社も続けて採用に落とされると、社会を知らないうら若き二十二歳たちのアイデンティティは根本から突き崩される。社会は俺たちを必要としていないんだという絶望を、どんなに就活を舐め腐っていた人間であろうと感じてしまうのだ。そして今回の手書きのESの暴走だ。内定を得る前に世界が終わってしまう。未曾有の混乱で精神を痛めつけられた無い内定の就活生たちの目は獣のようにギラギラと輝き始めていた。せめて内定を取ってから死んでやる、と血走った目でまくしたてていた。「あなたを動物に喩えるとなんですか?」と質問が飛べば、即座に「獣です。就活に対する怒りで私の心は猛獣の牙のように鋭く尖り、この苛烈な生存競争を生き抜くための覚悟、他人を蹴落として食い尽くして御社の内定を得るための圧倒的な欲望に支配されています」と答えたことだろう。今や20卒無い内定は反社会的勢力として扱われようとしている。手書きのESの嵐で荒廃した街に、リクルートスーツを着こなしワックスを塗りたくった七三分けで繰り出して、自らを落とした面接官に対する呪詛を吐き出しながら略奪暴行を敢行する狂気の世代。その最悪の例として歴史に名を残したのが、一九二〇年代アメリカ各地を移動しながら強盗を重ねた伝説的カップル「ボニー&クライド」にも匹敵すると称された就活生カップル、カンバラユイとムツオカトシアキであった。

「ユイ&トシアキ」の犯行の様子は、六月二十三日に強行された某IT系ベンチャー企業の最終面接を撮影した監視カメラの映像の中に残されていた。恋人のように腕を絡ませて本社オフィスを訪れたカンバラとムツオカを応対した男性社員は、「就活を舐めてるのかと思った」と証言している。だが、二人の服装は紛れもなく就活生スタイルそのものだった。模範的就活生と太鼓判を押してもいいくらいに、オーソドックスな愛され就活コーデを着こなしていたのである……カーキ色で縦長のリュックらしきものを背負っていたことを除いて。

午後二時。面接会場としてセッティングされた応接室のソファーには、当時メディアから新進気鋭のやり手と注目されていた三十五歳の社長と、脇を固める四十歳のノッポの社員、二十八歳のメガネの社員が座っていた。会社の規模拡大のために遂に始めた新卒採用。リクナビからいろいろと採用プロセスを教わって、知識ゼロの状態からここまでこぎつけることができた。これからのわが社を担う人材の内定が続々と決まっている。そして今回は……。メガネから手渡されたファイルの中から手書きのESを抜き出す。カンバラユイ。「新しいことに挑戦し続けたい」と明るい笑顔で話す姿が印象的だった。スポーツも学業もがんばる優秀な子で、辛いことがあっても根気強く仕事に取り組んでくれるだろう、と所見には記されている。当たり人材だった。よほどひどいことをしでかさない限り、彼女の内定はおそらく確定だろうと、社長は思っていた。次に面接予定のムツオカトシアキについても同様だ。二人にはリラックスしてもらって、今後の会社のことについてじっくりブレストでもしてみようか……。ノッポとメガネとともに面接の方針をブレストして一息ついていると、コンコン、とノックの音が響いた。カンバラさんだ。どうぞ、と声をかける。「失礼いたします!」という威勢のいい挨拶とともにドアを開けたカンバラユイは、ロシア産軍用アサルトライフルAKー47を掲げ、その照準を社長たちに定めていた。少し遅れて部屋に侵入したムツオカトシアキも、彼女とおそろいのAKを構えていた。ムツオカは外の通路の様子をうかがいながら素早くドアを閉め、「失礼いたします!」と上半身をちょうど三十度に傾けて美しくお辞儀した。その間もAKはずっと面接官たちの眉間に向けられていたのだった。

社長たちは思わず立ち上がった。新たにプロジェクトを立ち上げたイースポーツ事業でよく見た光景を、社長は思い出していた。もしかしてこいつら、俺たちの企業研究をちゃんとやった上でこんなドッキリを仕掛けようとしてんのか? そうだとしても、たちの悪い冗談だった。五人は、しばらくの間互いに見つめあっていた。就活の場において沈黙とは死を意味する。当意即妙なやりとりこそ就活の花。どうしてもわからないことがあれば「少し考える時間をください」と面接官に申し出る必要がある。それによって生まれる空白がどれほど恐ろしい負担を強いるものであったとしても、ひとはその沈黙の中で必死に求められる回答を探し出さなければならないのだ。社長は、その重圧に耐えきることができなかった。いつもの面接とは何かが変わってきていると感じていた。ぱくぱくと口を開き、途切れ途切れに言葉を発しようとするのに先んじてカンバラとムツオカが三人の元へ近づいた。ごくりと唾を飲む。カンバラがライフルを三人に向けている間に、ムツオカは素早く三人の足首と手首にロープを何重にも巻きつけ、彼らの目にタオル(そのタオルはリクナビが主催した合同説明会に出展していた某衣類製作会社が配ったものであると、後にカンバラは供述している)を巻き視界を塞いだ。こうして面接官の動きは完全に封じられたのである。数分後、受付の男性社員を加えた四名を応接室で監禁する準備を整えたムツオカとカンバラはようやくドア側のソファーに腰かける。そしてにこやかな表情で、ゆっくりと口を開いた。

「どうぞ、お座りください」

社長は二十八歳で会社を立ち上げて以降、ほぼ順風満帆に事業の拡大を続けていた。手掛けたプロジェクトはすべてヒットし、業績も右肩上がりで上昇していた。彼はまだ挫折を知らなかった。「失敗したことを聞くのが重要です。なぜなら、それにどう取り組んだかを聞くことで、学生がどういう価値観で物事に取り組んでいるかを把握することができるからです」というリクナビの「アドバイザー」の言葉を自分の血肉とすることはまだできていなかったのである。表参道の十階建てビルの五階に構えた開放感あふれるオフィス、いつでも自分に着いてきてくれた頼れる三人の仲間たち、そして、愛する妻。それが社長にとってのすべてであり、自分に成功者としてのステータスを与えてくれるものだった。だから、手足を縛られた状態でふかふかのソファーに寝かされた社長は、カンバラが発したこの質問に即座に回答することができなかったのである。

「あなたがこれまで生きてきて、一番の挫折だと感じる体験を教えてください」

そんなものない……と思わず叫んだ途端、AKー47が火を噴いた。部屋に格調を与えようと思って購入した五十万円の抽象絵画が、ベンジャミンの鉢が、オカムラの高級棚が、AKの乱れ撃ちによって蜂の巣となった。乱射は一分間にわたって続いた。社長たちは必死に身をよじり、ソファーから転がり落ちることでガラス張りの長机の下に身を潜めようとする。社長の足元でメガネが悲鳴をあげた。足を撃たれたのだ。ソファーを伝って流れる血はインドで購入したカーペットを紅く染めた。今だ、こうやって目をかけていた就活生もどきにやりたい放題やられていること、これが俺にとって初めての挫折なんだ。テーブルの角に頭をぶつけ、額から血を流しながら必死にカンバラとムツオカに呼びかける。銃声がやんだ。残弾を確認し、即座に弾倉を装填しコッキングレバーを引いたムツオカは、隙を作らず即座に次の質問を投げかけた。

「では、その挫折はどうやって克服しましたか?」

克服できるわけないだろうが、このタコ……! 誰がどう見ても、圧迫面接だった。あらゆる就活生を恐れさせる圧迫面接は、手書きのESが飛び交う末期的状態になろうとあらゆる企業で恒常的に行われている。核戦争が起こってもネズミと圧迫面接だけは生き残るとはよく言ったもの。台パン、理詰め、殴打、セクハラ、そして、銃撃。本邦初の、就活生による逆圧迫面接であった。カンバラとムツオカは、面接官と就活生の間に引かれた境界線といっても等しいガラス製テーブルをやすやすと踏み越える。せーの、という声とともに、テーブルは粉々に砕けた。メガネの呼吸は次第に不規則になっていく。

「ゆっくり考えていいですからね」

社長の心臓は、限界を越えて拍動している。体は新鮮な空気を求めて震えている。人生の中で、心臓が動く回数は人によって決められている。自分達の人生がいつ終わるかは決まってしまっている。だからこそ、俺たちはやりたいことをやって、限られた人生を精一杯生きていかなければならないんだ……。社長は自分の十八番であり、月イチで仲間の三人に伝えているこの話のことを思い出していた。猛烈に、自分の寿命が削られていくのを感じる。どうすれば……。頭をフル回転させた社長は唐突に打開策を思いつく。「面接では、相手の目を見て話すようにしましょう」目を見て面接官と話さないと、コミュニケーション能力が低いと思われてしまいます。それだ! と結論づけた社長は、暇潰しにスマホを覗いているカンバラとムツオカに自分たちの拘束を解くよう申し入れた。君たちの要求は聞く。だから目を見て話をしたい。金ならいくらでも出す、警察にも言わない! だから勘弁してくれ! 社長はミスを犯していた。圧迫面接への回答は冷静な対応。これに尽きる。決して、焦りを相手に見せてはならなかったのだ。体中から汗を吹き出し、恐怖で失禁している社長は必死に二人の方へにじりよった。絨毯にばらまかれたガラスの破片は社長の体を容赦なく切り裂いたが、彼はその痛みに耐えた。這いつくばって靴でもなんでも舐めてやろうと思った。それで会社を、自分を守れるならば……と短絡的な思考に陥ってしまっていた。それを見透かすかのように、ムツオカはAKを社長に向け、ため息をつきながらこう言った。

「欲しいのは、やりがいです!」

「や、やりがい……?」

「はい、欲しいのはやりがいです! なぜなら、仕事をするための一番の動機は、働くことを通じて社会に貢献することだと、私は考えているからです! やりがいさえあれば、後は何もいらないと考えています!」

 ムツオカは天井に向けて銃弾を放った。ほのかなオレンジ色の光を放っていた蛍光灯は粉々に砕け、社長は血とガラスにまみれた絨毯の上を転がり回った。

「ムツオカくん……冗談はやめてくれ! 頼むからちゃんと要求を言ってください!」

「いえ、要求はやりがいです! 社長、はやく私にやりがいをください! 私は中学校の頃から定期的に地域のゴミ拾いのボランティアに取り組んできました。私の町ではずっとゴミの不法投棄が問題になっており、私はそこにコミットして町の課題を解決しようと考えました。友人と協力して、毎週日曜日に河川敷のゴミ拾いを始めました。当初、私たちの活動に目を向けてくれる人は誰もいませんでした。心ない人から、ゴミをぶつけられたりもしました。それでも私たちは、毎週きちんと清掃活動に取り組み続けました。すると、徐々に活動に協力してくれる人が増えていきました。そして今ではメンバーが百人を越える大きなボランティアサークルへと成長しました。小さなゴミも見逃さずにせっせと拾い集める努力が、やっと実を結んだのだと感じています。御社でも、どんなに小さな仕事にもしっかりと取り組むことで……」

「わかりました! やりがいとかゴミとかいう話はやめてください! お願いだから……」

「あはは、社長めっちゃ怯えてるじゃん! ムツオカくん一次のときからずっとそれしか言ってなかったのにね。……社長申し訳ありません。もちろんやりがいなんていりません。欲しいのはとにかく、一生働かずに生きていけるだけのお金です。お金なんですよ」

二十分後、ガラクタだらけの室内に不釣り合いに鎮座するソファーの横にカンバラとムツオカは立っていた。二人が指定した複数の口座に百万円が送金されていた。二人が用意した口座は計五十。総額五千万円が会社からあっけなく吐き出されたのである。スマートフォンを含めた通信機器をすべて壊され、身ぐるみを剥がされたまま裸でうなだれる社長たちに向かって、カンバラとムツオカは「本日はありがとうございました!」と四十五度ぴったりにお辞儀する。メガネの返り血のついたカーキ色のガンケースにAKをしまい、スーツの皺を伸ばしてドアへと一直線に歩く。そこで再び振り返り、「失礼しました!」と今度は三十度の角度で一礼する。二人の顔は真剣そのもので、「面接」を終えたことによる心の緩みは一切見られない。両手で音を立てないよう静かにドアを閉めた二人は、一直線に非常用階段へと向かう。彼らはまだ走らない。面接後でも油断は許されない。たとえ満足いく「面接」が行えたとしても、少なくとも会社を後にするまでは就活生としての意識を保ち続けなければならないからだ。カンバラとムツオカはこみあげる笑いを抑え、「就活生」として文句の一つもつけようもない「面接」を最後まで実行しようとしている。非常階段で一階まで降りた二人は、湿った空気で淀む裏道まで至って始めて就活生であることをやめ、現場から逃走。社長たちが警察に通報したときには、現金五千万円は既に二人のリクルートバッグの中に収められていた。「面接」はそうして終わったのだった。

この映像がネット上で公開されたことをきっかけに、無い内定の就活生は一挙に二人の模倣犯と化し、競うように各地の企業を襲撃し始めた。内定か死か(リクルート・オア・デッド)、という二者択一はもはや日常となった。社会は無い内定の学生を頭のネジが飛んだドイカレポンチ殺人集団とみなし、無実の無い内定の学生がリンチされる事件が続発した。しかし、20卒無い内定の筆頭であるタケダシュンイチはそうした勢力からは一歩引いた位置に立っていた。例外状態と化しつつある社会で一人だけ良識を保っていた……わけではない。彼は、自分が就活生であることを完全に忘れてしまっていた。殴打される無い内定の学生の映像をぼんやりと見つめる彼の頭の中は、手書きのESの右上端にブルーの背景とともに写り込んだ、黒髪ショートで口元にかすかな笑みをたたえている野島美波のことでいっぱいになっていたのである。その写真を眺めることが日課となっていた。警戒レベル五に指定された東京飯田橋でなぜか強行された某大手印刷企業の最終面接も散々な結果となった。「君は自分をちゃんと表現していない。嘘ばかりだ」とふんぞり返った面接官に言われても、いつものコロス! を叫ぶことすらなくぼんやりとしていた。自分の面接は棚に上げて、野島美波の「就活」状況ばかりを気にしていたのである。そんな彼はまだ野島美波に対する感情の正体を自覚していなかった。この胸の高まりはなんだろう、彼女のことを考えるだけで心がドキドキしてしまう……。だがこの出会いは確かに、運命的なめぐりあいだった。就活において採用の可否を決める重要な要素である「縁」が両者の間に結ばれたかのような、一つの奇跡がひそかに起こっていたのである。


○学生時代取り組んだこと


三月一日、わたしは「就活」のために初めて自分が暮らしてきたキャンパスの外に出ました。運動のために普段から出入りしていた庭とはまったく違う風景が、キャンパスの外には広がっていました。まず目についたのは、ただ荒涼とした砂漠と「リクナビ」と大きく掲げられた看板でした。たくさんの銃弾を浴びたのか、看板には黒い穴が何個も空けられていました。看板は、全長十メートルを有に超える巨大な外壁の中腹に掲げられています。外壁のてっぺんにはサーチライトらしきものが等間隔で備えつけられていました。ライトは内側だけでなく、壁の外側にも向けられていました。その上に積み重ねられた監視塔から漂う白煙は、ゆらゆらと空に昇りやがて消えていきました。赤、黄、白の花々が咲き誇っていたわたしたちのキャンパスとは正反対の、無味乾燥な光景でした。「リクナビ」のロゴマークの毒々しい青色だけが、灰と黄土色にまみれた世界で嘘のようにきらめいていました。

キャンパスを後にしたわたしはすぐさま多脚歩行機械から伸びてきた可動式アームに捕らえられ、あっという間にコクピットの後ろに搭載されたコンテナに詰め込まれました。中には、わたしと同じ二十二歳の就活生たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれていました。就活生たちはみんな虚ろな表情を浮かべ、ぼそぼそと独り言を呟いてばかりいます。互いの肌と肌が密着し、前にいる男の人から滲み出た汗がスーツを濡らしました。身を小さくよじりながら縮こまっていると、壁の外側で巨大な爆発音が響き、コンテナが撹拌されるかのように激しく振動しました。どこかから、銃声と叫び声も聞こえました。揺れに耐えきれずに嘔吐する人が現れ、その吐瀉物のにおいでもらいゲロをする人も続出しました。ごめんなさいごめんなさいと涙を流し、押しつぶされそうになりながら必死で目の前の人のゲロをハンカチで拭き取ろうとしている女の人を見ていて、どうしようもなくいたたまれない気持ちになりました。せっかく仕立てたリクルートスーツは、黄色く粘った液体にまみれ、異臭を放っています。わたしは、スーツのポケットの中に隠したものが潰れてしまわないように、必死になって自分のスペースを確保しようともがいていたのでした。

到着すると、嘔吐物を洗い流す暇もなく順路に沿って歩くよう命じられました。何度も右左折を繰り返し奥へ進んでいると、さっきゲロを必死に処理しようとしていた女の人がわたしにそっと近づいてきました。

「あの、いっしょにいてもらえませんか……? わたし、耐えられなくて……」

彼女はシンドウマリカと名乗りました。わたしのキャンパスから数百メートル離れていないところに住んでいたようです。この後の「就活」の流れを詳しく知っているかどうか彼女に尋ねてみましたが、とりあえずこの後「合同説明会」略して「合説」というものがあって、そこで「企業選び」をしなければならない。けれど、その後何が起こるかはまったくわからないという認識で、わたし以上に「就活」についての知識を持っているわけではありませんでした。二十二年間延々聞かされた就活についての情報はほとんどが無価値でした。「アドバイザー」の面倒な話はもちろん、幼い頃からずっと聞いていた話はすべて無駄なものでしかなかったのです。

「わたしたち、どうなるんですかね」

「死ぬんだと思う」

「……気分悪くなること言わないでくださいよ」

「じゃあシンドウさんはどうなるって思ってるの?」

「……圧倒的に成長する、とか」

わたしは思わず噴き出してしまいました。

「なんで笑うんですか!」

「いやだって……、それ、どうせ『アドバイザー』に言われたんでしょ?」

「そうですよ! でも変なこと言ってひどい目に遭うよりマシでしょ! 死ぬより圧倒的に成長するって思った方がまだいいじゃないですか! ノジマさんはわたしに圧倒的に成長して死ねって言うんですか!」

「ごめん、そこまでは言ってない……」多分リクナビはそう言いたいはずだと言ったら、ただでさえ精神的に不安定なシンドウさんを余計に動揺させることになってしまうので、申し訳ない顔をして黙っていました。

「ノジマさん、怖くないんですか? 死ぬの。あの変な機械に連れてかれたときも、ノジマさんずっと落ち着いてましたよね」

わたしの右ポケットの中には、五粒の小さなカプセルが入っています。中身は、キャンパスに生えていたクサノオウという植物をすり潰して水を少量加えて作ったペーストです。クサノオウには強い毒性があり、食べると嘔吐や呼吸麻痺を引き起こします。死亡率は必ずしも高くありませんが、いざとなればわたしはそのカプセルを全部飲み込むつもりでいました。死ぬ覚悟は決めていました。ですが、どのように死ぬかくらいは自分で決定したかった。自分らしい「就活」、自分らしい「終活」。そのときのわたしは、きっと涼乃さんの幻影を追い続けていたに違いないのです。

「合説」会場には大勢の就活生が集まっていました。全国の就活生の総数は約四十万人。これから五ヵ月、遅くとも来年の秋までには、わたしたち四十万人の命は無益に散るのです。その欺瞞を象徴するかのように、会場は嘘のように真っ白く、床はピカピカに輝いていました。白というのは、あの懐かしいキャンパスのように嘘つきの色です。その白さを維持するために、どれだけの人が犠牲になっているか。きっと涼乃さんもその白さに塗り込まれてしまったのだと思います。「合説」の参加者はみんな、歯をガチガチと鳴らして震え上がっていました。処刑を待つ罪人のような面持ちでした。

「ノジマさん、これ早く埋めましょうよ! 埋めないとまずいですって!」

シンドウさんが持ってきたのは、企業ブース訪問特典として、某GAFA系企業で使えるギフト券二千円分をプレゼントすると謳う一枚のペラ紙でした。ブースを六ヶ所訪問すれば五百円、八社で千円、十社でなんと二千円。太っ腹! という感じです。見ると、就活生たちは企業ブース前にあるモニターの前に列をなして並び、一枚ずつプリントされる小さな丸いシールを死んだ目で受け取り、震える手でそれをシートにペタペタと貼っています。シールをコンプリートした人たちは、会場のあちこちで就活生の動向を監視するM2マシンガン搭載の軍用多脚戦車が時折赤いランプを発光させる様子をちらりちらりとうかがいながら、力が抜けたようにして床に座り込んでいました。

「わたしはいいよ」

「よくないですよ! 一応就活生ってことになってるんですよ! これだってわたしたちのデータとして記録されるんです。もし来社数ゼロで終わりでもしたら、やばいじゃないですか!」

「『意欲』が問われるって話? どうせこんな世界終わってんだからどっちでもよくない?」

「だめ! っていうかわたしがこわくて耐えられないんです! いるだけでいいからこっち来て!」

シンドウさんに強引に引っ張られて、わたしは某食料品メーカーのブースに連れ込まれました。もう説明会はスタートしていて、パイプ椅子に座った就活生がモニターから流れる御社の「ありがたいお言葉」をメモする……フリをしていました。この場にそぐわない青春恋愛漫画を描く人、メモ帳のページをボールペンで真っ黒に塗り潰す人、昔教科書で見たような散文詩を書く人……みんなが思い思いに、正気をなんとか保ちながら内職をしていたのでした。シンドウさんも、席につくやいなやシャーペンに芯を入れるフリをし始めていて、まったく話を聞く気はなさそうです。誰もが、涼乃さんから聞いていたような「就活でやるべきこと」の表面的な真似事を行っていました。「自分がこれからどのような人間になりたいかを知ること、それが大事なんだって。だから、『説明会』の場っていうのは自分のやりたいこととそこでできることが一致しているかどうかを見る場所なんだって」涼乃さんの顔がまた浮かんでしまいました。十年後の自分はどうなっていますか? そのときの答えは、「涼乃さんと『就活』のない天国でずっと楽しく遊び続ける」だったのです……。

「現在のわが軍とマイナビ軍の戦闘状況についてですが、マイナビ軍は北部C6地点に攻勢をかけ、わが軍の支配圏を完全に占拠しました。C3地点に対して当初から兵力を傾斜投入していたわが軍の隙をついた電撃戦に、図らずも大打撃を受けたという格好になります……」

「マイナビ」? 「マイナビ軍」ってなんだ? 企業案内を自動操縦ロボットから受け取ったわたしは、モニターからなんの前触れもなく流れた言葉に耳を疑いました。周りは映像から顔を背け、内職を続けています。わたしの目は、時代遅れのCGで表現された「戦闘分布図」に釘づけになっていました。もう少し説明を聞けば、何かわかるかもしれないと身構えました。

「今回の敗北により、北部地域のパワーバランスは大きく変化することが予想されています。特に、人的リソースの主要な生産基盤であったC6第一就活生生産プラントを失ったことは大きな打撃です。軍曹の判断によりプラントは即座に放棄され、跡形もなく爆破されました。ですが、三月一日を前にフライングで大量生産することが予定されていた、ベンチャー系企業型就活生の生産が非常に困難となってしまいました。今年度の『就活』は『早期決着』が見込まれており、兵力の早期補充はわが軍にとって喫緊の課題となっています……」

さっぱりでした。わけのわからないことだらけでした。「就活生生産プラント」なる言葉を聞いてわたしの頭は限界を迎えました。自分がいる場所が「合説」なのかどうか、今になって疑わしくなってしまいました。「就活」による「死」というものに対する「掘り下げ」が足りていなかったのか? と今更になって不安になってしまいました。わたしは十分近くシャーペンの芯を入れようとしては、机の上に芯を落として地団太を踏む人の真似をしているシンドウさんの腕を揺さぶりました。

「ねえ、モニター! シンドウさんモニター見て!」

「静かにしててくださいよ……さっきはあんな冷静だったのに……」

「無理! こんなの冷静になれない! いいから見て!」

シンドウさんはわたしをじろりと睨むと、両耳に指を突っ込んでいつの間にかつけていた耳栓を外しました。もっと多くの人に見てもらわないといけないと思い、わたしの右側に座っていた人にも声をかけようとしましたが、その必要はありませんでした。その男の就活生は、洗い立てのぱりっとしたワイシャツに光沢のあるシックな黒スーツをしつらえ、洒落た茶色の革靴を見せつけるかのように足を組み、モザイク処理がされた「プラント」の映像を凝視していたのです。目にかかるまで伸びた髪の毛を何度も掻き上げると、そこからほのかに清涼感のあるミントのにおいがしました。パイプ椅子の下には、なぜかリクルートバッグが四つも並んで置かれていました。わたしの方に顔を少し傾けると、彼は左の人差し指で小さなモニターを指差しました。その指先に吸い寄せられるようにして、わたしとシンドウさんは再び映像に集中したのでした。

「人的リソースの確保は今や戦争における最重要事項です。『人材』から『人財』へ。就活生は宝であり、貴重な軍事資産なのです。人と人とをつなぎ合わせてネットワークを作ることにより、わが軍は無限大ともいえる兵力を手にすることに成功しました。言うまでもなく、それは人の力が無限大だからです。現代の戦争における切り札はAIなどではありません。前向きで、公明正大で、リーダーシップのある優秀な就活生が求められているのです。そしてわたしたちは食を通じて、健康で健全な就活生の体を管理するだけではなく、その『心』をも満足させることができるようなビジネスに取り組んでいます……」

カタン、と音がしました。シンドウさんがシャーペンを落としたのでした。彼女はペンを拾うことすら忘れて、目を大きく見開いていました。

「何これ? どういうこと?」

「知らない、なんにもわからない……」

「でも、こんなの聞いてないですよね……。何かの間違いじゃあ……」

「間違いだよ。全部間違いに決まってる。決まってるよ……」

わたしたちはすがるような視線を隣の就活生に向けました。ですが、その人は右手で口元を隠しながらビデオの映像を見つめているばかりで、わたしたちに顔を向けることはついぞなかったのでした。

映像が終わると、「福利厚生」についての説明がありました。それが終わると、今度は「質疑応答」の時間でした。わからないことがあったらそこで疑問を解消しておくこと。ですがわたしたちは聞きたいことがありすぎて、どこから手をつければいいかわからなくなっていました。「まず大学名を名乗る」というマナーの存在すら、記憶の彼方に忘却してしまっていたのです。

「あ、あの……『わが軍』ってどこですか……?」

「リクナビ軍です。企業案内を見てください」

シンドウさんの質問はそれで終わりでした。答えたのは、モニターから流れる抑揚のない機械音声でした。

「他には?」

 思わず、勢いよく手を挙げていました。

「え、えっと、マイナビってなんですか? 就活生が人的リソースってどういうことですか? 生産プラントでいったい何を作ってるんですか? わたしたちですか? ふざけてるんですか? ていうかあなたたちは、いったい何が目的なんですか! なんなんですかほんとに。  『人財』ってなんなんですか。涼乃さんをどこにやったんですか! ちゃんと答えてください……」

蒼ざめたシンドウさんが制することがなかったら、わたしは延々と喋り続けていたことでしょう。モニターからは「質問のときは聞きたいことをわかりやすく話すようにしてください。就活の基本です」とあしらわれ、何も聞き出すことができませんでした。そうして説明会は終わり、わたしたちは小さな緑色の丸いシールを一枚ずつ受け取ったのでした。さっきの男の人は、いつの間にかいなくなっていました。

「シール、どうします……?」

「あげる」

「いやいいですよ! むしろわたしのあげるんで、貼ってください。……なんか、さっきの話聞いてもうどうにでもなれって思っちゃいました……」

 わたしも、短い間に疲れきっていました。迷路の中に突き落とされたような気分でした。就活生たちは相も変わらず企業ブースに押しかけています。スーツのポケットの中には、毒入りカプセルが五つ。これですべて終わりにする。そう考えると、ふっと胸のつかえが取れたような気分になりました。思い詰めた表情でシールが一枚貼られた紙を見つめるシンドウさんの姿が、涼乃さんと重なって見えていました。

「ねえ、シンドウさん。これなんだけど……」

そう言って涼乃さんにカプセルを手渡そうとしたわたしの腕は、いきなり伸びてきた誰かの手に捕まえられました。五つのカプセルはわたしの手からこぼれ、コツンと音を立てて床に落ちました。慌てて拾い上げようとすると、「ダメだ」と声がかかりました。声の主は、四つのリクルートバッグを肩にかけ、黒い球体のようなものを右手に持ったさっきの就活生でした。

「……なんですか」

「死ぬのだけはやめろ」わたしの考えは見抜かれていました。

「二人とも、就活がバカらしいって思ってるだろ」

「わたしたちだけじゃないと思いますよ」

「そうだよな」

彼は頷きました。たくさんの就活生たちが、彼と同じ球体を持って会場のあちこちを歩いていることにわたしは気づきました。

「だから、俺たちといっしょに、自分なりの『就活』をしないか」

「自分なりの『就活』って、そんなのできるわけ……」シンドウさんが言いました。わたしも、その通りだと思いました。ですが、なんとなくその言葉の響きに惹かれているようにも感じていました。

「できる。というか、やるしかないんだ」

「でも、どうやって……」

「こうやって」彼はどこからか拳銃を取り出し、天井に向けて三発ぶっ放しました。騒々しい会場がその一瞬だけしんと静まり、誰もがその姿に注目していました。出口を塞ぐようにその場に鎮座する多脚戦車も、そのカメラをこちらに向けていたのでした。

その直後、会場を真っ白い煙が包みました。目の前にいたシンドウさんの姿が一瞬で視界から消えました。突然の事態に呆けたように手を伸ばしていると、スーツの裾がぎゅっと掴まれ、右腕を誰かに絡め取られました。「ノジマさん? ノジマさんだよね?」という慌てきった声が右側から聞こえました。シンドウさんでした。よかった、と素直に呟きました。彼女の腕のあたたかい感触が、とてもありがたいものだと思えました。「うん。シンドウさん、ちゃんと掴まってね」そうしてわたしは彼女の掌を強く、二人が離れることのないように握りしめたのでした。そして左側からは、まだ名前も知らない、「合説」の場でいきなり発砲してみせたあの男の人の声が響いたのです。

「就活生のみなさん、落ち着いて聞いてくれ! 全員、緑のライトが左右に振られているところに急いで集まってほしい! 手をつないで互いに離れないように、なるべく多くの人といっしょに行動してくれ! そこからは俺たちが誘導する! こんな形で申し訳ないが、俺たちは一斉にこの『合説』から、脱出する!」

会場の四隅に、ほのかに緑のライトが灯されていました。際限なく吹き出される白い煙の中、わたしたちは走り出していました。あの機械のことが気がかりでした。もしあれがマシンガンを乱射し始めたら、わたしたちは逃げ場もないまま全員殺されてしまうのではないか……さっきまで死のうとしていたことも忘れて、わたしはそのことばかり考えていたのでした。

「あの変な機械は大丈夫なのか!」後ろから誰が叫びました。シンドウさんの声ではなく、男の人の野太い声だったように思います。

「問題ない!」また誰かが叫びました。確かに、いつまで経っても銃撃音は聞こえませんでした。後から聞いた話ですが、そのとき会場には通信を阻害するための妨害電波が流されていて、白い煙が爆弾のような球体から発生してからは、多脚機械の活動は既に停止していたそうです。ですが、わたしはそのとき戦車については何も尋ねませんでした。わたしが開いた口は、まったく別の問いを塞がれた視界のうちに投げかけていたのです。

「なんでさっきわたしに死ぬななんて言ったんですか!」

それは、あまりに場違いな質問でした。ファスナーも閉めずにリクルートバッグに無造作に突っ込んでいたシールつきのペラ紙がふわりと宙を舞い、後ろに流されていきました。コンプリートのためにはあと九社の訪問が必要だったあの紙は、二度と手の届かない深い谷底に落とされてしまったかのように、あっという間に煙の中にまぎれていきました。ペラ紙が何度も踏みつけられる乾いた音も次第に遠ざかっていき、その後はバッグの中にこっそり隠していたクッキーが、目印を作るかのように一枚ずつこぼれ落ちていきました。

「『やる気』を感じたから!」少し間が空いて、その人はがなるように叫びました。

「『やる気』なんてない!」

「いや、さっきあの会社の『説明会』聞いてたとき、君はすごい剣幕で突っかかってただろ! すごいなって思った! この場であんなことができる人が、絶対に俺たちには必要だ。だから君をみすみす死なせるわけにはいかない、って思ったんだよ!」

「意欲」を買われた。それはあまりにも皮肉な話だな、と感じました。あんなものはただ勢いで出てしまっただけの話で、多かれ少なかれみんな似たようなことを考えているはずなのに。「伝え方」と「時の運」が、幸か不幸かわたしの自殺を止めてしまった。

「『リクナビ』は巨大だ。やつらを潰すには、本気で挑まないといけない。『本気』の人間を俺は探していた。けど、みんな下を向いていた。そうだろうな、とは思っていた。でも、君は違った、『ぜひうちに来てほしい人だ』って、俺は思ったんだよ!」

息せききりながら、彼は叫んでいました。前を見ると、緑のライトがさっきよりも大きくなっていました。そして、一列に並ぶ就活生たちは、会場に空けられた空洞の中に吸い込まれていったのでした。

そうしてわたしたちは面接会場からの脱出を果たしました。ほとんど奇跡のような脱出でした。カミサワさん(それがわたしたちを「合説」から脱出させた人の名前でした)は入念に脱出計画を練り、多くの就活生をあの場から逃がそうと考えていたようです。生き残れたことに安堵する就活生たちがいる一方、わたしは相反する感情に揺さぶられていました。このまま生きて逃げていても意味がないという虚無感と、もしかしたら「リクナビ」に一泡ふかせられるのではないかという期待。確かにわたしはあのときカミサワさんとシンドウさんの手を離すことのないよう、がっちりと握りしめていた……。自分はほんとうに、死ぬつもりだったのでしょうか。自分のほんとうの思いが、突然よくわからなくなってしまったのでした。

わたしたちはカミサワさんのガイドを頼りに北上し、反就活戦線の拠点に向けて移動することになりました。わたしのキャンパスとは反対側の方角に向かうことになります。太陽が照りつける中、わたしたちは無言の行軍を続けていたのでした。右手に広がる壁の向こうでは、物々しい獣の唸り声のような音が聞こえています。約五十人の就活生は、事態をうまく飲み込むことができないまま行軍を続けていました。

「敵襲!」

十キロ近く進み、鉄骨や古びたタイヤが大量に転がる地帯に至ったところで、最後尾で双眼鏡を片手に周囲の監視を続けていた女の人が叫びました。

「まずいです、敵は猛烈な勢いでこちらに接近しています。おそらく、『やつら』です!」

「クソ、このタイミングでかよ……」カミサワさんは舌打ちをすると、リクルートバッグから取り出した地図に目を近づけ、ペン先を何度もバツ印がついた地点に叩きました。

「カミサワ、どうする……?」隣を歩く男の人がおずおずと尋ねると、

「とりあえずあと三十メートル先に洞窟がある。とりあえずそこに避難だ。バリケードの準備をみんな頼む!」

「ダメです、次の洞窟に間に合うか微妙です。敵、来ます!」

「気合いだ! みんな、また走るぞ!」

さっきの多脚機械が追いかけてきたのかと、始めは思っていました。ですが、追いかけてきたのが無感情で冷徹で、わたしたちの敵でしかない「リクナビ」が送り込んできたその機械だったとしたら、どんなによかったか。今でもわたしは、その光景を夢に見ます。その度にわたしは嫌な汗をかき、激しい吐き気に襲われます。神様にでも祈りたくなってしまうような、どうしようもない悪夢がそこには広がっていました。たくさんの「就活生」が、銃火器を片手に行進していました。頭を垂れながら、せかせかと進んでいます。臓物が腹から飛び出している者、片足を欠損している者、右の目玉が飛び出し、かろうじて眼筋でつながっている者。にもかかわらず、その人たちは生きていたのです。「失礼いたします!」、「わたしは学生時代……」、「わたしの長所は……」、「わたしが御社を志望する理由は……」と、軍隊同然に唱和するその人たちに、もはや人間らしい「意志」と呼べるものは失われていました。意志なき就活ゾンビ(リクルート・オブ・ザ・デッド)。その人たちは、一様に「リクナビ」の腕章を左腕に巻きつけ、氷のような笑みを顔に貼りつけ進軍していたのでした。ゾンビは容赦なくマシンガンをわたしたちに向けて発射しました。銃撃の反動に怯むことなく、生前をはるかに上回る速度でその人たちはこちらを追いかけてきます。そして、その群れの中では、ゾンビと化した涼乃さんが口から真っ赤な血を流しながら、リクルートバッグと真っ黒いマシンガンを肩に担いで蠢いていたのでした。

わたしは学生時代、反就活戦線に加入し、リクナビとマイナビによる戦争を終わらせるために、ゲリラ的局地戦闘行為を継続的に実行していました。


2019/7/1 ~ 2019/7/7


手書きのESの異常増殖が確認されたのは日本のみであった。そのことからは、日本のSHUKATSU文化の特異性を再度確認させる結果となった。しかし、このことが日本礼賛のための文化的思考プログラムとして機能することはついぞなかった。就活を理由に、日本政府が非常事態宣言を発令したためである。六月一日以降、野島美波の手書きのESは積雪量で換算すると十メートルにまで達していた。もはや社会インフラは完全に崩壊していた。散歩に出ただけで手書きのESに押しつぶされ圧死する世界では、まともに外出することすら不可能になる。政府は手書きのESを可能な限り焼却するよう個々人の自助努力を呼びかけたが、毎秒数千枚生産される手書きのESを焼き尽くすことなどできないのは誰にとっても明らかだった。火力、原子力発電所は安全に稼働させることが不可能になったため、操業停止に追い込まれざるを得なかった。人々の生活は孤立し、就活により社会は分断された。

唯一の情報源となったラジオは、連日「ユイ&トシアキ」の動向を放送していた。東京から南下し名古屋、大阪、広島と順々に犯行を重ねたこのカップルは、山口県で遂に発見されることとなった。奇しくもそこは「保守王国」。自民党の磐石の支持基盤の下、「アベ政権において不祥事などなかった」と言わんばかりに連続御社襲撃犯の大捕物が行われたのだった。日本三大名橋の錦帯橋をバックに行われた山口県警との銃撃戦の末、カンバラユイの体に覆い被さって銃弾をその身に受けたムツオカトシアキは出血多量で命を落とした。ムツオカの亡骸を抱きかかえ戦意を喪失したカンバラを五人がかりで確保することで、「就活」の価値を著しく棄損した一連の事件は幕を下ろしたのである。

タケダシュンイチは就活を放棄し、野島美波の手書きのESとラジオから流れる音声に囲まれた空間の中に引きこもっていた。好物の日清どん兵衛の容器が溜まりに溜まり、窓を閉めきった畳張りの部屋は醤油のにおいに満ちた。リクルートバッグは満タンのゴミ袋の下にうずまり、新品だったスーツには繁殖したカビが白い塊をつくっていた。だが、彼は生きる意欲を喪失しニートとして床の上に寝転がっていたわけではなかった。床のゴミをいちいち蹴飛ばしながら、額縁に入れて飾った野島美波の手書きのESの前をぐるぐる回っていた。野島美波のことを考えると、なぜか胸が痛む。いけふくろうの前で待ち合わせ、手をつないで池袋サンシャイン水族館を回ったり、二人で肩を寄せ合って「絶対空間リアル密室脱出ゲーム」を攻略したり、新文芸座のオールナイトを鑑賞して、眠い目をこすりながら映画の感想戦に花を咲かせたり……そういう妄想ばかりが胸に浮かんだ。自分より(おそらく)背が低く、はにかんだ笑顔が素敵な野島さん。それだけで世界をいとおしいと思えるような、会えないせつなさに胸を焦がすような、そのひとのためならば身を投げても構わないと断言できるようなこの感情は、いったいなんだ? 「自己分析」すらままならない感情の在り処。タケダは自分の思いすら言語化できずに頭を抱え、もがいていたのだった。

「速報です。先日御社連続襲撃事件で逮捕されたカンバラ容疑者は死亡したムツオカ容疑者と、『リクラブ』を通じて交際していたことがわかりました。警察はカンバラ容疑者を引き続き取り調べ、詳しい動機の解明を進めています」

「リクラブ」。聞き覚えのある言葉だった。インターネットサーバーは既にダウンしており、ネット検索に頼ることはもはやできなかった。だが、彼は就活について必要な情報をこまめに一冊のノートにまとめていたことを思い出した。ネットで見つけた有益な情報を、印刷して貼りつけていたのだ。折れ曲がったノートをゴミ山からようやく見つけ出し、目当ての記事をそこに発見した。第一志望だった某広告系企業の企業研究と、エントリーシートの書き方のコツをまとめたページの間に、彼は「人は何故リクラブをしてしまうのか、『何者』が考えてみた」というネット記事の要点をまとめていたのである。

「リクラブという単語を知らないかもしれない寂しい読者の為に一応解説しておくが、リクラブ(リクルート・ラブ)とは就職活動中の学生が、短期インターン等で出会った異性の同級生と恋に落ちて付き合い始めることである」

リクルート・ラブ。就活を通じてはじまる恋愛。わかりやすい定義である。だがそこには落とし穴がある。筆者はここでさりげなく、「短期インターン等で出会った異性の同級生」とさらなる定義を加えていた。つまり、ただ「就活」するだけではなく、「インターン」というものに参加すること。それが必須の条件だとされているのだ。タケダ自身は「インターン」を忌み嫌っていた。だが、彼の友人の多くは大学三年の八月以降、短くて一週間、長くて一カ月程度は参加していたようだ。そして友人はみな彼女持ちだった。だからタケダはこの記事を読んで「インターン」というイベントは合コンか街コンに近いものなのだろう、はしたない! と結論づけていた。そしてそれを傍証するように、筆者は次のように解説しているのだ。

「合コンのように何度も一定程度の男女比でマッチングを繰り返し(しかも、「何か」あっても翌週にはもう会わなくてすむので後腐れも無い)、一方で合コンより長く会話するわけで(むしろ合コンで話せないようなシャイな男女も、インターンに限っては話す話題を固定され積極的に話すことを前提とする)必然、距離が縮まりやすい訳だ」

「リクラブ」は合コンのような環境で成立するという仮説を立て、タケダは次の要点に移る。この「リクラブ」にはある重要なメリットがあるのだと筆者は言う。

「まったく同じ境遇、同じ悩みを抱えている同志が、最も物理的にも精神的にも近い距離にいてくれるのだから、これほど心強いことはあるまい。どちらかがくじけそうになっても励まし合い、だらけそうになったら相手に負けていられないと気張ることができるだろう。人間、何にせよ独りで戦うのは負けが込むし、心がすさんでいくものだ」

「就活というのは物理的な条件下・精神的な条件下、両側面から恋愛に向いた場である」。タケダはこの文章に何度もアンダーラインを引いていた。リクラブでワンチャンかわいい女の子を狙っちゃおうといきまいていたからではない。「就活=恋愛」という真理を、この記事の筆者は見事に言語化している。彼はそこに注目したのである。

「就活」において必要なのは、「どうしても御社でなければならない、御社でなければ絶対にダメなのだ」という熱い思いをしっかりと人事に伝えていくことである。イルミネーションが輝く池袋サンシャインシティで情熱的な愛の告白を行った男は、「でもわたしじゃなくてもあなたのやりたいことはできるんじゃないですか? ミズムラさんと話してるときあなたすごく楽しそうでしたよね? わたしそれすっごい嫌だったんだよ。今もそう。わたしじゃないといけない理由っていうのが、あなたの言葉からはどうしても見えてこないんですよね。わたしとミズムラさんは『同業他者』にあたると思うんですけど、結局わたしじゃなきゃいけない理由ってなんなんですか? ねえ、どうなの!」という問いかけに完璧に答えてみせなければならない。うまくいけば内定=カップル成立、ダメならお祈り=ごめんなさいだ。友達以上恋人未満のドキドキの関係をつかず離れず継続中の二人は、絶えず自らの恋心を好きな人に言語化する必要に迫られている。それでもなお、彼ら/彼女たちは恵まれていると言ってよい。「やりたいこと」が決まっている就活生も同じだ。その仕事にかける思いを精いっぱい言語化する機会は山ほどある。たとえ拙い口調だったとしても、「御社」に対する「強い気持ち 強い愛」は山よりも高く、海よりも深いのだと人事を納得させることは容易なのだ。誰を愛するか? という問いに答えを与えることができるならば、ひとはその愛のためにすべてを捧げることができる。

タケダは自分の人生を振り返ってみる。思えば、自分は世間に追い立てられるようにして、無理矢理誰かを好きなのだと思い込んでいたような気がする。「みんな好きあっているから」、「みんないちゃついているから」そうでない自分は駄目なヤツだ、ろくでなしのゴミムシだと後ろ指を指されるような気がして、月九の恋愛ドラマがまだ世間に影響力を保っていた頃、ソフトボールをやっていた同級生のショートカットの女の子と付き合った。だがまったく気が合わず、すぐに別れた。次は高校生のとき、後輩のショートカットのマネージャーと付き合った。彼はサッカー部に入っていたが、ふとした一言をきっかけに同級生に煽られて自分から告白することになったのだった。それまでは練習中くらいしか話す機会がなかった。好きな食べ物は何か、音楽は何を聴くのか、漫画は読むか、テレビは、趣味は。そんなことすら知らずに付き合ってしまった。タケダなりにその子のことを知ろうと努力した。だが会話はかみ合わず、部活後に二人で歩く道を支配するのはいつも沈黙だった。恋人の逢瀬とは思えない気まずさだった。二人とも、耐えられなくなった。はやし立てる周囲の存在も彼女にとっては辛いものだった。「わたしマネージャー辞めます」と涙ながらに彼女が訴えてきたとき、タケダは自分の軽はずみな行動を恥じた。その子の存在をステータスのように捉えてしまっていた。それでほどなく二人は別れて、元のマネージャーと部員という関係に戻った。彼女がバスケ部の同級生と付き合うようになって初めて、二人は親しげに会話することができるようになったのだった。新卒学生の三十パーセントは、三年以内に自分が新卒カードを切った会社を退職するのだという。タケダの一枚目のカードはわずか三カ月間で切られ、二枚目はそれよりも短い二カ月で切られてしまったのだった。

就活も同じだ。誰もが仕事で自己実現を果たしたいわけではない。ほんとうに行きたかった会社には全部落とされた。カンバラユイは「大事なのはお金だ」と言っていたが、その通りだ。みんな、とりあえずやらなきゃいけないから就活をやっているだけだ。愛せよ、恋せよ、と世界は言う。それといっしょで、俺たちは社会に貢献せよ、会社を愛せよとケツを叩かれているだけなんだ。未来なんてない。真っ暗だ。実際、もう「就活」なんてやってる場合じゃない。外ではビュウビュウ手書きのESが飛びまくってる。母さんや父さんとも連絡が取れなくなった。友達もみんな行方がわからない。俺はひとりぼっちだ。ほんとうに世界は滅ぶんだろう、ああまただ、結局ネガティブなことばっか考えちまう。「ご縁がなかった」って言われ続けることがどんなに辛いことかわかんないんだろうか。どっちにしろ「就活」なんて糞食らえだ。俺の悩みをわかってくれる人は、もうこの世界にはいない。いるとしたら、向こうで頑張ってる野島さんだけなのだから……。そうぼやいた瞬間、彼の中にある「気づき」が生じた。「まったく同じ境遇、同じ悩みを抱えている同志が、最も物理的にも精神的にも近い距離にいてくれるのだから、これほど心強いことはあるまい」。そうだったのだ。戦っているのは自分だけではない。誰もが「縁」を「他社」と結ぶことを求めている。選ばれなかった人間は永遠に救われない。「ぜひうちでいっしょに働きましょう!」と声をかけられ握手を求められない限り、すべての二十二歳の学生たちは、「なぜ私ではないのか」、「私ではなくなぜあいつが選ばれたのか」と世界を呪い続けなければならない。そこにはひと欠片の慈悲も残されていない。しかし、いや、だからこそ、ひとは「就活」の悪夢の中で、「他者」との「縁」を懸命に求めていくのだ。「私は選ばれない」。その絶望を通じて、まったく遠くにいた誰かと「ご縁」を結ぶこと。「リクラブ」はそこから生まれる。「ユイ&トシアキ」がなぜあのような犯罪に手を染めたのか。何かを成し遂げることもないまま小市民としてその生涯を終えるはずだった男と女は、いかにしてありとあらゆる御社に牙を向くに至ったのか。タケダにはそれが痛いほどわかる。俺もあいつらも、そう変わるところはない。追い詰められていたんだ。祈られ続けて、心が折れそうになっていたんだ。だからこそ、二人は惹かれ合う。選ばれなかった者たちの団結によるすべてを賭けた反乱。それはきっと端から見れば、内々定の学生から見れば、人事部長から見れば、安倍晋三から見ればどうしようもない甘えなのかもしれない。逃げなのかもしれない。だがそんな戯言は「リクナビ」にでも食わせておけばいいんだ! この「リクナビ」畜生め! タケダは部屋の隅に積まれた手書きのESのうち一枚をひったくり、目を限界まで開いて大声で読み上げる。整った文字を、インクの染みのにおいを、紙のしっとりとした質感を、全力でその身に受け止めようとする。手書きのESは、野島美波の声を、想いを、願いを乗せて、タケダの精神に入り込んでいく。俺は今、野島さんと「最も物理的にも精神的にも近い距離」にいる。そのことがとても嬉しいし、悲しい。野島さんの苦しみは、俺の苦しみだ。彼女を選びたい。救いたい。愛したい……。そしてタケダは遂に気づくのだ。俺は野島美波を、就活生として愛しているという至極単純な事実に。エーリッヒ・フロムすら言い落とした愛の基本文法。就活するために他社を愛するのではない。俺は、他者を愛するために就活しているのだ。そう呟いたとき、彼は自分の体がふっと軽くなったのを感じた。目に映るものすべてが愛おしいと、素直に思えた。「恋は盲目」とはよく言うが、その言葉は今のタケダには無縁なものだった。愛というレンズは、世界を清らかで透明なものとして映し出す。彼はそのレンズを通して部屋を見回した。汚すぎる。就活生とは思えない惨状だった。鏡に映る姿も相変わらずひどい。ヒゲは野放図に生え、頭はボサボサになってしまっている。直感的に、まずいと思った。まだ「就活」は終わっていない。いや、終わらせてはならないのだ。彼はゴミ袋を片手に、窓を全開にする。外から大量の手書きのESがなだれ込んでくる。だが、タケダにとってそれは野島美波に愛撫されているようなものだ。喜びが胸に込み上げてくる。彼女の手が彼の体にそっと伸びていくのを感じる。そして彼女は彼の耳元でそっとこんな言葉を囁くのだ。「あなたはぜひともわたしに寄り添っていてほしい『人材』、いや『人財』です」……と。タケダは高らかに歓声をあげながら、大量のごみ袋を外に投げ捨てていった。偶然にも、その日は七夕であった。


◯あなたが感じた最大の挫折


「今この世界は、『リクナビ』と『マイナビ』によって分割統治されている。二つの組織は互いに敵対していて、勢力を広げるためにもう何年もの間戦争を行っている。俺たちはそのために利用されているんだ」

道中でカミサワさんが教えてくれたこの世界の秘密は、わたしたちにとって驚くべきものでした。吹きつける風は熱気を含んでいて、スーツ姿で歩くわたしたちの体力を容赦なく削り取っていました。

「マイナビっていうのは、リクナビと似た組織なんですか?」

カミサワさんたちがくれた携帯用保存食をかじりながら、シンドウさんが当然の疑問を口にしました。粘性の高いその食べ物はココアのほの苦い味がしました。

「おそらくそうだ。正直、全貌は俺たちにもわかっていない。だけど、似たような組織なんじゃないかと思う。これはリーダーから聞いた話なんだけど、その昔はリクナビもマイナビも小さな組織だったらしい。けど、『就活』の拡大に乗じてやつらもその規模を一挙に拡大した。その一環で起こったのが、『生活の就活化』だ」

「生活の就活化」とは、わたしたちのあらゆる生活が客観データとして恒常的に記録、定量化され、それが当人の取り組みを評価するためのログとして活用される現象を指す、とカミサワさんは言います。たとえばボランティアのような行為は、非常に就活指数の高い取り組みであり、ポイント稼ぎのためにはこれを周回プレイすることが重要なのだそうです。それはボランティア精神と労働の親和性の高さにより生じるものです。ボランティアにおける自発性は、正しく使えば周囲の環境や世界をよりよく改善できる尊い行為とつながります。ですが、その精神は容易に搾取構造と結びつくのです。賃労働の場において、自らがどれだけ奉仕的行為を行ってきたかを誇らしげに語ること。それは完全に矛盾した行いです。ですが、それをさもすごいことであるかのようにドヤ顔で主張することで、就活指数はものすごい勢いで上昇するのです。わたしたちの生活は就活指数というものさしによりデータ化される。それを受けてわたしたちは生活の改善を行い、自らの行動をより就活に近づけていく必要に迫られる。そうした循環プロセスこそが「生活の就活化」である。わたしたちのキャンパスでは、そうした自らの格づけが絶えず行われていたのです。わたしの就活指数は六十でした。満点が百のうちの、六十です。どうすればもっと低い点数が取れるのか、気になってしまいました。

「これはマイナビ軍とリクナビ軍が戦闘している最中の写真だ」

その写真には、「マイナビ」のものとされるロゴマークが写り込んでいました。リクナビの青色とは異なり、マイナビのロゴは水色でした。こうしてみると、確かによく似ています。ですが、やつらは不倶戴天の敵。写真の中では、大量の無人兵器による終わりのない戦いが繰り広げられていました。粉々になったマイナビの自動歩行機械の上に立つリクナビの多脚戦車は、日の光を反射して銀色に輝いています。次なる獲物を求めてその眼をぎょろぎょろと周囲に向けて動かしている様子は、なんとも言えず不気味でした。

「えっちょっと待ってください。この変な物体、なんですか?」

それは、水色の雪だるまに、白い大福のような手と足がくっついた、人とも動物ともみなすことのできない奇妙な物体でした。顔と思われる部分には猫のようなヒゲが左右合わせて六本生えています。口は半円状、鼻は真っ赤でした。そして、その物体は雪だるまの下の雪玉にあたる部分についた半円状の袋の中から、意気揚々と何かを取り出そうとしていたのでした。

「ああ、それか……」カミサワさんは困ったように頭を掻きました。「これについてははっきり言って詳細不明だ。生物兵器なんじゃないかとも言われているが、なんともいえない。自律した意思を持った兵器なのか、それとも意思をもたないロボットなのかすら、わからない」

「でもなんかすごい楽しそうにしてますよね。こいつ人格あるんじゃないですか?」

「どう見てもイカれてる」写真を見ていた別の就活生が言いました。

「まあそうなんだよな……けど、意思を持ったロボットなんてのはいくらなんでも作れるとは思えない。現在の技術からすればオーバーテクノロジーだ。そんなものが実現するとしたら、少なくともあと百年、二十二世紀になるまで待たないとできないはずだ……」

水筒の生ぬるい水を一口飲んで、カミサワさんはそう言いました。意思を持つロボットは、確かに今のわたしたちの世界には現れていないのかもしれません。ですが、意志なき人間、意志なき就活ゾンビの開発に「リクナビ」は既に成功していました。そしてそのゾンビは、体を深くかがめないと満足に通ることも難しい薄暗い洞窟の中に大量のリクルートバッグを積み重ね急造で作ったバリケードを今にも突き崩さんとする勢いで、わたしたちに迫ろうとしていたのです。

「とにかく生き残ることだけ考えろ! 応戦する必要はない!」

「もし応戦しなきゃいけなくなったら!」

「そのときは……そのときだ!」

「絶対にダメです!」ゾンビの中には、涼乃さんが混ざっているのです。絶対に殺すわけにはいきませんでした。一メートルほどの高さしかない洞窟の中で、ゾンビたちは直立姿勢をとることができずにあちらこちらへよろめいています。闇雲に乱射されるマシンガンによって、人の身を守る用途に適していないリクルートバッグは少しずつ傷ついていきました。バッグに空いた小さな穴から、わたしはゾンビ……いや、元就活生たちの様子をうかがいました。涼乃さんは、凍りついたような笑みを浮かべながら銃弾をあちこちにぶっ放しています。涼乃さんの左胸には、丸い穴が空いていました。普通の人間ならば、間違いなく即死しているはずでした。ですが、スーツを赤い血で染めた涼乃さんは、それでもなお動きを止めることもなく蠢いているのです。わたしは涼乃さんと過ごした、懐かしい日々のことをできるだけ思い出そうとしていました。ビーフシチューを作るために野菜を包丁でざくざく切っているときに左の小指を軽く切ってしまい、「慌ててやるもんじゃないね」と苦笑いしながら小指を軽く舐め、バンソウコウを巻いていた涼乃さん。キャンパスの原っぱを子どもたちといっしょに駆け回り、気づいたときには誰よりも泥だらけになって戻ってきた涼乃さん、何度も何度もみんなの様子を確かめに寝室を回り、子どもたちの寝顔を微笑みながら見つめて「みんな、ほんとの家族みたいだな。わたし、ここでみんなと過ごせてよかった」と話していた涼乃さん……ですが、目の前にいたそれも同じ涼乃さんであるはずなのに、そのゾンビは、わたしの知っている涼乃さんからはほど遠い存在となっていました。でも、涼乃さんはゾンビではない。人間だ。人間なんだ。だから、わたしの言葉をまたあのときのようにやさしい顔で聞いてくれるし、わたしたちは何事もなかったかのように、元の楽しい生活に戻ることができるはずなんだ……。気づけばわたしはバリケードに近づいていました。そして、両手を口元に当て、涼乃さんに向かって言葉を発していたのです。

「おい、ノジマさんやめろ……何やってんだ!」

「決まってるじゃないですか、話し合うんです!」わたしを引き剥がそうと掴みかかる就活生たちを、腕を闇雲に回して振りほどきました。相手がゾンビだろうが誰だろうが、関係ありませんでした。きっと、わたしの想いだけは届くだろうと、藁をも掴むような気持ちでいました。そうしてわたしは涼乃さんとともに「グルディス」を始めたのです。

「聞いてください! わたし思うんです。みなさんはゾンビじゃない、人間です! 人間なんです! 血が流れたら痛みを感じるし、悲しいことが起きたら涙を流す、ちゃんとした人間なんですよ!」

誰も、わたしの言葉に反応してくれませんでした。ゾンビたちは、ただただうなり声をあげて乱射を続けていました。バリケードにゾンビたちが群がり、リクルートバッグの山が崩れるのも時間の問題でした。就活生が協力してわたしたちの側からバッグを押し返していましたが、それにも限界があります。なにしろ、相手はゾンビなのです。体力が尽きることなどやつらにはあり得ないことでした。

「ノジマさん、もう限界だ! やめろ!」

ですが、わたしはまだ諦めていませんでした。今はゾンビでも、確実に就活生たちを目覚めさせる手段はあると、信じきっていました。わたしだけが口を開き、やたらめったら何かわけのわからないことを喋り倒している。多数の沈黙と一人の多弁によって「グルディス」が終わってしまうなんてことはあり得ないと、どこかで確信していたのです。

「涼乃さん! わたしです。ミナミ。ノジマミナミです! 覚えてますよね。そうです。覚えてないわけないですよね。あなたのことを一番よく知ってるのは、わたしなんですから! みんな心配してるんですよ。涼乃さんが帰ってくることを。『就活』で涼乃さんがいなくなってからずっと、涼乃さんが戻ってこないかな。またお菓子いっしょに作りたいなって、思ってるんです! だから、いっしょに生きて帰りましょう。聞こえてますよね。ほんとの涼乃さんなら、わたしの言葉を無視するなんてあり得ないんです! いつだって涼乃さんは、わたしの言葉を聞いていてくれたんです! だから、今度はわたしが涼乃さんの言葉をちゃんと聞かなきゃいけない番なんですよ! お願い! 涼乃さん何か喋ってください。うんでもすんでもなんでもいいんです。たった一言、一言だけでいいの! 涼乃さん!」

わたしの言葉に反応した涼乃さんは、バリケードに向かって無慈悲に、容赦なくマシンガンを連射しました。「伏せろ!」カミサワさんがわたしの体を掴み、地面に叩きつけるように突き飛ばしました。弾けたリクルートバッグが宙を舞い、わたしたちの体の上にどさどさと落ちていきました。それが、涼乃さんの「返答」でした。返事がないどころか、話の腰を折るほどの勢いで妨害を受けてしまった。不毛でした。やはり人間じゃないのか。わたしの言葉にろくな返事もできない意志なき就活ゾンビに、涼乃さんはなってしまったのか。認めたくない現実が迫ってきていました。それは、わたしの一縷の望みを簡単に打ち砕いてみせる、悪夢のような現実だったのです。

「この度は、弊社の採用にご参加いただき、誠にありがとうございました!」わたしの体に覆いかぶさったまま、カミサワさんがそう叫びました。すると、「この度は……」、「この度は……」、「この度は……」とカミサワさんの後を追いかけるように他の就活生たちが歌い始めました。するとゾンビたちは、その文句に耳をすませるようにじっと動きを止めたのです。「厳正なる選考の結果」、「厳正なる……」、「選考の……」、「結果……」ゾンビたちは、苦しんでいました。「お祈りメール」の輪唱でした。わたしの言葉には一切耳を傾けなかったゾンビたちは、「お祈り」の無慈悲な宣告にはむしろ嬉々として反応しているように、わたしには思えました。一体のゾンビが、体を激しく震わせ始めました。持っていた小銃とリクルートバッグがすとんと地面の上に落ちました。そして、十秒にもわたって地を裂くような叫び声を発したゾンビは膝から崩れ落ち、そのままうつぶせになって動かなくなってしまったのです。それをきっかけに、わたしたちのバリケードを押しつぶさんと進軍していたゾンビたちは、一人、また一人と力を失っていきました。涼乃さんが危ない。涼乃さんは金切り声をあげながら、頭を振ってもがいています。口から、茶色い液体が吐き出されました。「貴殿の採用は……」と主旋律のカミサワさんが歌い始めた瞬間、わたしは、「やめて!」と絶叫しました。ハウリングしたわたしの声は洞窟内でこだまのように響きました。「祈るな! 絶対に祈るな!」ぼろぼろと、涙が流れました。無力だった。わたしの心からの言葉は、メールの定型文にすら敵わなかった。わたしがほんとうに願っていた言葉なのに……。そこでふっと浮かんだ「ほんとう」という言葉は、断末魔をあげながら倒れていくゾンビたちの鳴き声によって、ぐちゃぐちゃに乱され、頭の奥底に沈み込んでいきました。そこでわたしはシンドウさんに肩を抱かれ、反抗する間もなくバリケードの外に連れ出されてしまったのです。ゾンビたちは洞窟内で折り重なるようにして倒れています。涼乃さんの姿は、どこにも見当たりませんでした。彼女が「生きていること」を「期待する」ことしかできませんでした。わたしにはもう、人を「祈る」権利はありませんでした。それに、わたしの言葉はどこにも届かないのです。一番届けたかった人にすら、わたしの言葉は届かなかったのです。それが、わたしが感じた最大の挫折でした。


2019/7/8 ~ 2019/8/1


 タケダは野島美波の手書きのESを探す旅に出ることを決意した。サークルの合宿で使った大きなキャリーバッグを引っ張り出し、その中にクリアファイルを何枚も詰めた。某印刷企業の面接に向かうために防刃ベストを買っていたことがここで功を奏したのだった。だが彼は防刃ベストにある工夫を加えた。ベストの上に彼は何枚もの手書きのESを重ね、それをノリで貼りつけていった。全体が覆われたら、少しだけ位置をずらしてまた同じように貼りつけた。その作業を三十回近く繰り返し、タケダの防刃ベストは野島美波の手書きのESのぶ厚い層でコーティングされたのである。そこには二つの意味があった。一つは加速する手書きのESの嵐から自分の身を守ること。そしてもう一つは、野島美波の存在を常に肌で感じたいという欲望だった。それが彼なりの愛の表現手段だったのである。自分の家に戻るとしたら、それはかなり先の話になることだろう。そのときには、このアパートは跡形もなく崩れて影も形もなくなっているかもしれない。だがそれも仕方ない話だとタケダは思った。野島美波と出会うまでは、俺はもうここに戻らない。家にあったありったけの食糧やラジオ、その他旅を続けていくための生活必需品をキャリーバッグに詰めて、最後に今まで使っていた就活ノートをぎちぎちになったバッグに押し込んだ。こうしてタケダは長い長い旅の最初の一歩を踏み出したのである。

野島美波にぞっこんになっていたのはタケダだけではなかった。野島美波を神聖視する集団が、人づてのネットワークを介して徐々に拡大していた。未来の見えない暗黒の時代には、張りぼてのような神が人々にもてはやされるようになる。そしてこの時代の神とは、「就活生」にすぎないはずの一人の女性、野島美波であった。彼らが作った組織は極端な形で構成されている。野島美波が頂点で、あとは全員地の底。要するに唯一神の前での絶対的平等が謳われていたのだった。『東洋経済』の取材を受けるような上場一部の大企業の社長も、業績の芳しくない中小企業の課長も、ベンチャー企業でボロ雑巾のような扱いを受けている平社員も、大手の内定を次々と獲得しそのやり方を有料記事として販売することを目論む就活ガチ勢も、ぼんやり就活してとりあえず内定をゲットする普通の学生も、発狂した20卒無い内定も、そもそも就活をしていないごく一部の学生も、今や誰もが平等にむなしい一つの命でしかない。貢献すべき社会すら、そこには存在していないのだ。彼らは集団として何かを運営したり、まとめあげたり、挑戦したりしているわけではない。この集団に籍を置くための条件は一つ。野島美波を信じて「お祈り」することだ。一意専心、一意祈祷。祈れば何かボーナスがもらえるわけではない。ただ祈る。とにかく祈る。えげつない勢いで祈る。それだけだった。もちろん、何時にこれをしなければならないというような宗教的行事もないし、「金融系の企業は『金』という『穢れ』を常に扱う職業だからそこの選考に応募してはいけない。まず前提として、就活生はお賃金のことを考えてはいけない。企業の説明会において給与について尋ねることは失礼になるとされている。これは数多ある経典=就活ガイド本には当然のように書かれていることだ。なぜ失礼なのかというと、神聖な就活という場において『天下の回りもの』である『金』には多くの人の『汚れ』=『穢れ』がまとわりついているからだ」というような戒律もない。それに、野島美波について何を祈るかは個人の裁量に任されていた。彼女が世界を救うように祈る人間もいれば、彼女の「就活」が失敗することを祈る人間もいる。死ぬ前に彼女とお友達になりたいと祈る人間もいれば、彼女という有名人のステータスを利用して生き延びたいと祈る人間もいる。どんな人間の入信も許す寛容さにより、信者は爆発的な勢いで増大していった。だが、タケダのように「聖書」と同等の価値を持つはずの手書きのESの解読にすべてを捧げようとする人間は、この集団の中にはどこにも存在していなかったのである。

その頃、自民党中枢本部は「緊急事態条項」の憲法への導入を本格的に検討し始めていた。まさにその絶好の好機だった。国会も閉鎖されている今、憲法を自民党草案に沿ってこっそり書き換えても誰も気づきやしないだろう。とはいえ、今ある現状の脅威に対応しなければ、憲法も糞もない。ここはやはり、日本の核の傘である米国に軍事協力をお願いするのが妥当である。首相官邸地下四階にひそかに作られた地下シェルターに招集された第四次アベ第一次改造内閣は、沖縄に駐留する在日米軍に事態の解決を要請した。

しかし米国側はそれに難色を示した。異常事態でこそあれ、今起こっている事態は他国からの侵略行為ではない、ということがその根拠であった。自分らでなんとかしろと丸投げする意図が透けて見えた。アメリカファーストの姿勢がここでも現れたか……と閣僚たちは地団駄を踏んだ。そこで臨時閣議では、「就活」が果たして日本国に対する攻撃としてみなされるのかどうか、日米安全保障条約の強引な拡大解釈が図られることとなった。第五条には、「日本国の施政の下にある領域」での「武力攻撃」について、日本と米国が「共通の危険に対処するように行動することを宣言する」と書かれている。つまり、「就活」が「武力攻撃」であり、そしてそれが「共通の危険」であるということを示せばいい。「就活」が「武力攻撃」であることは自明だ。これに反対する閣僚はいなかった。だが、問題はそれが「共通の危険」であると証明することだ。ある閣僚の「日本とアメリカの就活の構造の差異からして、それが『共通』であるとはみなされないおそれがある」という発言は特に注目されることとなった。確かにアメリカには手書きのESなど存在しない。だから議論の中心はアメリカにおいて手書き文化はどれくらい残っているのかという話に収斂していった。ヘミングウェイの原稿とか、ストリートアートとか、ホワイトハウスの大統領署名とか、ありとあらゆるものが持ち出されたが、結局はどれも「就活」ではないという一言によって取り下げられてしまった。

ああでもないこうでもないを繰り返し、唾を飛ばして堂々巡りの議論を重ねた閣僚たちが疲弊しきった頃、鉄製の扉が重い音を立ててゆっくりと開かれた。飛び出すように駆けてきた政府高官は足元がおぼつかないまま、転ぶか転ばないかのギリギリを保ちながら両足を交互に動かしていき、一枚の文書を巨大な机に叩きつけて「これはマジでヤバいですよ! 日本がいよいよ終わります!」と絶叫した。高官の勢いに一瞬たじろいだ閣僚たちは、我に返ると争うようにしてその文書に飛びかかった。たくさんの閣僚が奪うように回し読みしたせいで、文書は折れ曲がりしわくちゃになった。右隅も破れてしまった。机に土足で登りハイハイ姿で這い寄っているのはスガ官房長官だ。就任以来最大の国難が迫っている状況で、小粋な官邸マナーを放棄して文書を手にしようとする官房長官のことを責めることなど誰にもできない。「令和おじさん」である自分が頑張らないで、誰がこの令和を守り抜くって言うんだ……! 「セコウ! 次俺の番!」ざっと目を通した官房長官は「はあ⁉」と一言漏らすやいなや前につんのめって倒れこんだ。それはまさに「モリカケスキャンダル」を越える最大のスキャンダル、「かわいい」と言われてきた官房長官の顔を真っ青にさせてしまうほどの、S級クラスの危険文書だったのである。


『就活生情報、説明なく提供、リクナビ、「辞退予測」三十八社に』


就職情報サイト「リクナビ」を運営するリクルートキャリア(東京・千代田)が、就活学生の「内定辞退率」を本人の十分な同意なしに予測し、三十八社に有償で提供していたことがわかった。個人情報保護法は、個人情報の外部提供に本人の同意取得を義務付けており、違反の恐れもある。個人情報保護委員会が事実関係の確認を始め、リクナビは七月末でデータ販売を休止した。

 リクナビは年八十万人の就活生が利用する。内定辞退率の予測データは本人に不利な影響も及ぼしかねない。重要な個人情報が不適切な形で企業間で共有されていたのは、日本では極めて異例だ。

 日本経済新聞社の取材にリクナビは「規約の表現が不明瞭との指摘を真摯に受け止める」と説明不足を認めていた。リクナビは一日午後十時ごろ「わかりやすい表現や説明方法を検討する」などのコメントを公表した。

 米フェイスブックなどIT(情報技術)大手が個人データを使う広告などで急成長しデータの不適切な扱いが問題になった。日本企業もデータ活用を進めており、利用ルール整備が求められる。

 リクナビは二〇一八年から、就活生がどの企業情報を閲覧したかなどを人工知能(AI)で分析。「選考や内定の辞退確率」を予測し、大手メーカーなどに販売した。

 個人名ごとの予測データは個人情報保護法で規制する「個人情報」にあたり、外部提供には本人同意が必要だ。リクナビは規約で「サイトから取得した行動履歴を分析し利用」「採用活動補助のため企業へ提供」とし利用者の同意を得ていた。

 内定辞退は企業を悩ませる問題で、予防につながるデータは貴重だ。同意手続きが適切なら法的な問題はなかったが、専門家から「具体的な利用法が示されず有効な同意でない」(イタクラヨウイチロウ弁護士)との見方が出た。個人情報保護委員会は「どう使われるか本人にわかるようにしないと不十分」とし、七月にリクナビに聞き取りを行った。

 予測データの利用実態について、リクナビは「『採用判断に使わない』と企業と確約した」と説明し、提供先企業の一社も「事後分析用だった」と話している。ただデータは、内定者の決定前から提供されていた。

 個人がネットを利用すると、サイトの閲覧履歴の「クッキー情報」やネット上の住所にあたるIPアドレスなどのデジタルデータも企業に収集される。これらは氏名を含まないため現行法の規制対象外だ。リクナビはデータを氏名とセットにして問題視されたが、今後はデジタルデータのルール整備も重要になる。

日本では政府が二〇年の個人情報保護法改正を目指している。膨大なデータをビジネスに生かす「データエコノミー」の拡大を成長につなげるには、プライバシーの保護と両立できる仕組みが求められる。(バンマサハル)


官房長官は、薄れゆく意識の中で考えていた。リクナビは就活生に対して「個性的」であることを求めていた。「個性的」とは、データによって計量化されえない存在のことを指す。自らの生涯を御社に物語ることで、分析不可能な存在へと変化していくこと。「就活」とは人間の計量化への対抗戦略である。しかし、「リクナビ」はそこに大きな欺瞞があることを知っていた。「特別な存在」になるためにインターネット上で、「株式会社◯◯ 面接 聞かれること」、「◯◯出版 評判」、「手書きのES 書き方」などと検索を重ねる就活生たちの行動履歴は、それ自体がデータとして計量可能なものとなる。「わたし」とはクリックとドラッグとキーボード打鍵の集積によって表現されるあわれな雑草にすぎないのだ。「リクナビ」は要は、個性神話なんか一つも信用してないってことになる。あるのは金のにおいだけだ。「就活」の欺瞞を「リクナビ」に向けてやかましく言うのは無益である。なぜなら「リクナビ」こそがその無意味さを最も自覚している存在であるからだ。個性豊かな就活生たちは、企業に売りつけられる絶好の金づるでしかない。これほどやめられない商売もないだろう。現代の死の商人。それが「リクナビ」なのだ。今ややつらはローカルに存在する狂気の「就活帝国」である……というせせこましい議論を誰かがしていたことだろう……平常時ならば。問題は今が非常時であること。それも「就活」のせいで日本が無茶苦茶なことになってしまっているってことだ。こんな状況で「リクナビ」の所業があらわになってしまったら、すべてが終わってしまう。ただでさえ、就活斡旋サイトの運営会社の前にはたくさんのデモ隊が押しかけていて、手書きのESが降りやまない中反就活を訴えるシュプレヒコールが響いている状況なのだ。もはや警察はパンク寸前だ。刑務所はデモを行う輩と御社を襲撃する輩で埋め尽くされている。「ユイ&トシアキ」の悪事を飽きるくらいメディアで放送させたことは逆効果だったようだ。それに、手書きのESに向かって祈る変な集団のことも気になる。どうすれば……わずかな時間のうちに頭をフル回転させた官房長官は急に起き上がり、「こんなときに何しでかしてくれてんだあの糞リクナビ野郎は!」と激しい剣幕で怒鳴った。官房長官を介抱しようと水を汲んできた高官は驚きのあまり飛び上がり、コップを落としてしまう。「官房長官!」、「官房長官!」、「官房長官!」涙目の高官の胸を肘で小突いて閣僚たちは一斉に騒ぎ始める。官房長官が憤怒の形相を浮かべるのは初めてのことだったのだ。顔には青筋が走り、ぴくぴくと震えている。もはや破裂寸前だ。そのままドカンか……と閣僚たちが顔をしかめたとき、官房長官の沸騰しきった頭の中には走馬灯が流れていた。官房長官は秋田県雄勝町で生を受けた。農家の長男として日々農作業に従事する官房長官は、雄大な自然に囲まれた地方農村での生活にそれなりの充実感を憶えていた。だが成長するにつれ、農家の後継ぎという与えられた未来ではなく、まったく新しい未来を掴みたいと考えるようになっていた。高校卒業後、官房長官は東京出立を決意する。だが、集団就職で上京した官房長官を待っていたのは、ふるさと秋田と変わらない苦難の日々だった。官房長官は段ボール工場に就職した。助けてくれる人は誰もいなかった。昼間は肉体労働に励み、家に帰ると泥のように眠る。そうして無意味に、日々は過ぎていった。ある日の午後、工場長の怒号が飛び交う中、数十キロもの資材を運搬し終えて全身から流れ出る汗をズボンに挟んだ手ぬぐいを拭き取ったとき、官房長官は自分が秋田にいた頃と何も変わっていないという事実に思い当たり、愕然とする。「オラ! 早くしろ!」と頭をはたかれるまで、官房長官は何百枚もの段ボール原紙の前で突っ立っていた。このままじゃいけない。官房長官は大学への進学を決断する。容易な道ではなかった。それに、はっきりした将来の夢が決まっているわけでもなかった。それでも、「何かを変えたい」という思いだけは確かだった。努力の末官房長官は大学に進学し、民間企業への就職を果たす。だが、企業での労働には違和感しか残らなかった。残業を終えた官房長官は居酒屋で終電ギリギリまで粘って焼酎をちびちび飲み、終電五分前に店を出て生暖かい空気が充満した電車の中に滑り込んだ。暗闇の下で町は沈黙している。窓の向こう側で次々と流れ去っていく家々の中では、恋人たちが、家族が、そして、自分と同じように何かを成し遂げることを求める若者たちが、真昼の喧騒を忘れてひとときの心地よい眠りに身を任せている。官房長官の目から一筋の涙が流れた。そこで初めて、世の中を動かしていくことができる政治の道に進むことを志したのだった。横浜市会議員、衆議院議員というキャリアを経て、官房長官は遂に官房長官になった。思えば、長い人生だった。秋田の小さな村から、一歩ずつ一歩ずつ歩んできた。いろいろな人の顔が浮かんでは消えていく……って、俺は死ぬのか? 官房長官の記憶は出生時まで一気に巻き戻り、再び再生された。そこには、「リクナビ」がいた。農家としての技能講習を「リクナビ」で受けた。集団就職は「リクナビ」が斡旋した。応募フォームに何度も表示される「満席」の文字に怒りを隠せなかった。大学入試のための手続きもすべて「リクナビ」で行った。大量の手書きのESを書いては破り捨てた。そして、右も左もわからぬまま政治家になるために官房長官が訪れた場所も、法政大学の学生課ではなく「リクナビ」本社に変わっていた。脳裏で流れる映像のあらゆるところに「リクナビ」が侵入している。横浜市議会にも、衆議院にも。その後、官房長官は二〇一二年に共産党書記局長になった。天皇制廃絶と憲法九条の堅守をさかんに叫び、自民党の政策を真っ向から全否定した。マスコミからは黙殺され、毎日ネトウヨとレスバトルを交わしていた。かわいらしい「おじさん」ではなく、こわい「おじさん」として扱われていたのだった。二〇一九年、書記局長は駅前での街頭演説で右翼と乱闘騒ぎを起こす。「令和」などという元号は即座に廃止せねばならないと絶叫した矢先、激高した右翼が街宣車に侵入。鉄パイプで後頭部を殴られ、書記局長は頭から転落した。道路は真っ赤な血で染め上げられ、あちこちから悲鳴が上がった。あらゆる視線が書記局長に注がれている。書記局長はもぞもぞと体を這わせ、ガードレールに腕を引っかけて自分の上体を無理矢理起こした。頭から血がぼたぼたと垂れ、目の焦点ははっきり定まっていない。死にかけのまま、街宣車の上で呆然と立ち尽くす秘書にマイクを要求した。書記局長を殴打した男は、数人の共産党シンパに体を押さえつけられ、呻いている。街中に「リクナビ」の看板が飾られていた。就活だけではない。食事も、掃除も、遊びも、すべてが「リクナビ」の思うがまま。狂気の「就活帝国」は書記局長の走馬灯の中で完全な形をとって成立する。綱領に「リクナビ」の廃絶を書き足さないといけないと思うと同時に、書記局長は自分の記憶の正当性を疑い始めていた。俺には、もう一つの未来があったんじゃないか? 書記局長は自分の記憶にいるはずのない「リクナビ」の記憶改変操作の影響を丹念に取り除いていく。騙し絵のように、隠されていた記憶が掘り起こされ、蘇っていく。その果てで見たもの。それは……「俺は、『令和』を肯定する!」聴衆に向かってそう宣言した書記局長はアスファルトに顔面を押しつけられている襲撃犯に手を差し伸べる。シンパどもは驚愕の表情で書記局長を見た。だが、もう一方の手を横に振ると、彼らは一目散にその場を去っていった。「なんだよ、俺が憎いんだろ! 聖人気取ってんじゃねえよ!」書記局長は言った。「いいや、俺は実は共産党員じゃないんだ。ほんとうの俺は、第四次アベ第一次改造内閣の官房長官、自民党のスガヨシヒデなんだよ……! 俺がさ、あの『令和』の元号を発表したんだ。だから、俺は今すぐ、『令和』に帰んないといけない……『リクナビ』をどうにかしないと、日本は終わってしまうんだよ……」襲撃犯は己の愚かさを恥じ、むせび泣いた。そして二人はがっちりと堅い握手を交わしたのである。歴史的和解だった。ファンファーレが鳴り響き、人々は共産党の街宣車の周りで夜まで踊り明かすだろう……長い長い時間遡行を経てようやく「官房長官」としてのアイデンティティを回復した官房長官は、あちこちを無意味に走り回る第四次アベ第一次改造内閣の閣僚たちを横目に見て、自分のいるべき場所に戻ることができたことをひそかに喜び、微笑んだ。その笑いの意味は、他の閣僚たちには少しもわからなかったし、官房長官の口から説明されることもなかった。官房長官が自分の頭をテーブルに思いっきり打ちつけ、そのまま動かなくなってしまったからである。「官房長官!」、「官房長官!」、「官房長官!」額から流れた血は桐のテーブルを垂れ、高官がこぼした水と混じってドアへと流れていく。誰もが、その様子をまじまじと見守った。穏やかな「川の流れのように」粛々と歩んできた戦後日本は、今、最大の危機を迎えている……。ちなみにアベシンゾウは就活をしたことがないので会議中ずっと口をつぐんでいた。

吹きすさぶ手書きのESを全身に受け止めながら、何十人もの集団が三重の円を作っている。街灯も点いていない真っ暗闇の中でも、彼らの目ははっきりと冴えている。かつて威光を放っていた巨大ビル群は、悪魔のように這い進む手書きのESにより窓ガラスをすべて割られてしまっている。中には、根本からポッキリと折れてしまったビルも確認できる。社会を動かしていると自負するエリートサラリーマンの仕事姿ももはや過去の栄光。深い夜を彩ったビルの輝きはすっかり失せてしまった。ここは丸の内。あらゆる就活生がかつて夢見た偉大なる航路(グランドライン)。そこに行けばお前の人生の安定が約束される。だがもはや虚構上の心理的満足すらここでは得ることができない。丸の内にゃんにゃんОLも今は自室に引きこもり、誰かが事態の収拾をつけてくれることを震えながら祈っているのだ。元東京駅丸の内口前の全車線をジャックした集団も、野島美波に向かって「お祈り」を捧げていたのだった。両の掌を合わせ、膝をついてひたすらに祈り続ける人々の言葉は、少しずつ、空に溶けていく。ひらひらと落ちてくる手書きのESを、人は野島美波からの恩寵であるかのように捉え、むせび泣いた。その祈りの輪は次第に広がり、元東京駅の半径百メートルが会ったこともない就活生への祈りを続ける人々で埋め尽くされた。

まるで、こいつらはゾンビだ。野島美波の手書きのESを拾い集めるタケダシュンイチは、その光景を冷え切った目で見つめていた。祈っちゃダメなんだよ。「お祈り」は俺たちと野島さんを永遠に引き裂いてしまう。そうなると彼女は、俺の前から姿を消してしまうんだ。ふざけるな。こいつらは就活のいろはがわかってない。祈るな。抗え! タケダは人生で初めて「将来やりたいこと」を見つけていた。それは、野島美波と健全なお付き合いをして結婚し、二人で幸せな家庭を築くことである。愛社精神など微塵も発揮できそうになかったタケダも、野島美波に対する愛は存分にぶちまけることができた。一目惚れというのは、それはそれは恐ろしいものなのだ。野島美波に出会うこと。彼はそれだけを求めて生きていた。彼女の手書きのESを読み、そのあまりに悲惨な人生に衝撃を受けてしまった。自分の望むように生きることすらできず、ただひたすら意志なき就活ゾンビとの戦いに明け暮れる生涯。こんなことがあってはならない! 彼女にはもっと幸せになるための可能性が開かれているはずなのだ! 同時に、自分がぬるま湯に浸かっていた事実を痛感した。俺が就活に失敗したとしても、決して死にはしない。だが、彼女は死ぬのだ。俺は甘ちゃんだったし、自分のことしか考えられていなかった。彼の「自己分析」は恐ろしいほどの勢いで進行し、自問自答を通じてその「掘り下げ」は太く、強靭なものになっていった。彼女の世界を救いたいという大それた想いを、彼は真剣な眼差しで口にすることができた。おどおどした感じもなくなり、誰が見ても立派な「就活生」として完成していた。もはや企業の採用活動どころか、人間の生死すら危うくなってきた状況になって、タケダはようやく自分なりの「就活」を始動させたのである。


○志望動機


涼乃さんを救うことができなかった。わたしは、しばらく誰とも喋れなくなっていました。自分の周りにぼんやりとした膜がかかっていて、何か話しかけられてもその音が遠くでしか聞こえてこないような、そういう状態でいました。代わるがわる、いろんな人がわたしに声をかけてくれていることはわかっていました。拠点に向かうまでシンドウさんはずっとわたしにつきっきりで看病をしてくれました。目に涙を浮かべながら何かをわたしに伝える彼女の表情はくるくると万華鏡のように移り変わっていきました。代わり映えのしないはずの、荒れ果てた大地が延々と広がる光景もぐちゃぐちゃに掻き回されていて、聞こえないはずのゾンビの唸り声にたじろぎながら振り向いてしまうと、そこにはわたしの心臓を撃ち抜こうとマシンガンを構える涼乃さんが、さっきの「お祈り」で溶けかけた体を強引に動かしながら迫ってきていたのでした。それからのことは、よく覚えていません。けれど、シンドウさんは半狂乱になってもがくわたしに嫌な顔一つ見せず、唇を噛み締めながら自分のスーツを被せてくれたそうです。後で彼女の頬にひっかき傷を見つけたときには、自分がいよいよどうしようもなくなってしまったことを感じ、申し訳なさで胸がいっぱいになってしまいました。だから「ううん、大丈夫。だって、わたしもノジマさんのために何かしてあげないとって、思ったから……」と傷をさすりながら微笑むシンドウさんのことを、知らぬ間に涼乃さんと重ね合わせてしまう自分のことが、ものすごく卑怯に思えてしまったのでした。

拠点に辿り着くと、カミサワさんはすぐにわたしのために個室を用意してくれました。薄い毛布が敷かれた木製のベッドが中央にあって、壁一面を埋める書棚には、「就活ゾンビの生態に関する調査報告」、「リクナビの組織、またその背後の思想についての潜入調査報告」、「『二十二歳問題』における諸見解まとめ」と背に記されたファイルが並べられていました。ですが、そのときにそれを開くことは一度もありませんでした。「ゾンビ」という言葉すら目にしたくなく、無地のカーテンを窓から外して棚を覆いました。ですが、横になって休んでいても思い浮かぶのはゾンビとなった涼乃さんの青白い顔です。ただただ、悔しいという思いでいっぱいでした。あれがリクナビの、そして「アドバイザー」たちのやり口だった。甘い言葉でわたしたちを誘惑し、一生奴隷のように従軍させる。きっと、涼乃さんは何度も銃弾をその体に受け続けたのだろうと思います。鉛の弾丸は涼乃さんの華奢な体をゆっくりと蝕んでいく。でも、ゾンビは死なない。腐食した体をひきずって、誰かわからない敵に向かって特攻を仕掛けることしかできない。そうして最後には、ゴミのように捨てられる……。耐えられませんでした。自分が生き延びてしまったことにも、これから教室に残された人たちがこのことを知らないことにも、そしてわたしたちは結局ここから脱出を果たすことができないということにも、耐えられなかった。すべてが、耐えられなかった。あたたかい食事も、まったく喉を通りませんでした。それどころか、料理の乗ったお皿をひっくり返して、何度も泣き叫んでしまいました。何日も何日も情緒不安定なまま、多くの人に迷惑をかけてしまいました。

そうして泣いて泣いて、涙も枯れ果てるほどに泣いて、ふっと魂の抜け落ちたようにベッドの下にうずくまりうつむいていた頃、ドアをトントンとノックする音が聞こえました。少し経って、扉が開きました。カミサワさんでした。

「落ち着いた?」

わたしはあのときの涼乃さんのように、首を横に振りました。

「だよな……。まあ、ゆっくり休んでくれ。時間はいくらかかってもいいから」

「なんでですか……?」

「……」

「なんで、わたしたちこんなことになっちゃったんですか!」

扉の向こうでは、騒がしい声と、何かを運び出す物音が聞こえています。他の就活生は、もうここでの生活に慣れてしまっているようです。シンドウさんの声が聞こえました。「合説」に運ばれていたときとは違う、明るい声でした。ほっと胸を撫でおろすと同時に、自分が相当足を引っ張ってしまっているようにも感じられました。わたしだけが、ずっと遅れていました。

「……正直言って」

カミサワさんは苦々しい表情を作りました。

「俺にもわからない」

「わからない……」

「そう。はっきり言って俺たちにはろくな未来はない、と思ってる。たぶん、俺たちの『就活』ってのは、『リクナビ』の軍隊に組み込まれるためのプロセスでしかなかったんだよ」

「そんなわかり切ったことを言わないでください!」

投げつけた枕を、カミサワさんはかわしもせずまともに受け止めました。そうして、わたしに再び手渡します。枕に顔をうずめると、こびりついた自分の涙や鼻水の湿り気が頬にまとわりつきました。

「……ごめん。でも、やっぱりやるしかないんだよ。『就活』で得られる未来はきっと他にもあるはずなんだ。俺は昔、サッカー選手になりたかった。ほんとうにそうなれると信じて、ずっと頑張っていた。けど、先輩がみんな消えていって、それは夢物語でしかないことを悟った。最悪だよな。リクナビはいつも、『やりたいことをやれ』って俺たちを煽り立ててきたのに……」

顔を枕にうずめたまま、カミサワさんの話をずっと聞いていました。

「ノジマさんも、きっとそういう夢があったはずだと思う。いや、この世界の二十二歳の人間は、誰もが幼いとき、何か壮大な夢を持って生きていたはずなんだよ。だから、どうにかしてそれを実現すべきなんだ」

わたしの頭の中には、涼乃さんといっしょに料理を作り、それをみんなでいっしょに食べていたときの、夢のような楽しい情景が広がっていました。

「俺たちは抗わないといけない。死んだ仲間のためにも、それだけは絶対守り続けないといけないことだから……」

風邪には気をつけてとだけ言い残し、カミサワさんはわたしの部屋を去りました。

わたしのやりたいこと。ほんとうにやりたかったこと。ほんとうは、涼乃さんといっしょにいたかった。あのとき本気で涼乃さんを引き止めて、みんなといっしょに逃げ続ければよかった。そうやって就活から逃げて逃げて逃げて、幸せな時間をもっともっと過ごしていたかった。またお菓子を作って、クリームを味見して互いに笑い合ったときのように、あの美しい時間に身を浸していたかった。それだけがわたしの望みだった。でも、涼乃さんはもういない。だったら、涼乃さんを取り戻すしかない。きっと、涼乃さんの魂はもうこの世から失われていて、今あるのは抜け殻となった肉体でしかないのだろう。それでもいい。涼乃さんをちゃんと、天国に送り届けてあげたい。安らかに、眠らせてあげたい。わたしたちは意志なき就活ゾンビ(リクルート・オブ・ザ・デッド)などではない。ちゃんと、意志を持つ人間として生きているのだと高らかに宣言したい。それで初めて、きっと、わたし自身が前に進むことができる。

わたしは今、みなさんに助けを求めるためにこの文章を書いています。別の世界からよくわからない文章が届いて、きっと驚いているに違いないと思います。礼を逸していたら申し訳ありません。わたしたちはこういう形で文章を書くことしかできないのです。

もしかしたら、これは「就活」ではないのかもしれない。別の概念があるのかもしれない。それでもわたしは宣言します。わたしはわたしなりの「就活」を成功させる。だからこそわたしは、みなさんのうちの誰かがこの文章を手に取ってくれることを願って、たくさんの手書きのESを書き送っています。どうか、わたしたちを、そして、涼乃さんを救ってください。わたしがみなさんの世界を志望する理由は、この世界を暗く覆い尽くしている就活という悪夢から脱出するための知恵を、お借りしたいからです。そして、涼乃さんを、またこれから二十二歳になろうとするすべての人たちを救ってみせる。就活戦線は、今も拡大し続けています。


2020/7/7


二〇二〇年、東京オリンピックは中止に追い込まれた。日本は手書きのESに飲み込まれ、事実上沈没状態となった。日本国民は難民と化し、国連主導で各国に送致されることとなった。野島美波への「お祈り」を続けることを理由に、国外退去を拒んだ集団も大勢いた。彼らは最終的に、泣きながら紙の底へと沈み込んでいった。結局、野島美波の言葉を、まともに読み解こうとした人間は現れなかったのだった……一人を除いて。

一面の白の中で、タケダシュンイチは常人を超えたスピードで手書きのESを生成し続けていた。野島美波を探す旅の中で、彼は手書きのESが虚空から出現する瞬間を遂に捉えた。そして、野島美波の残した無限にも等しい文章を読みふけった結果、彼女は別の世界から手書きのESを書きつけているのだという結論に至ったのだった。平行世界上の、就活生同士のランデブー。

三月以降あらゆる人間によって用いられる就活ミームは、巨大な情報ジャンクとして世界に沈殿し続けていた。空間内部で何重にも積み重なり、無限に送信され続ける就活の言葉の群れは、言霊のように空間にある種のねじれを生み出していく。どの学生も同じような言葉しか発さないという強い同質性があるゆえに、就活ミームは空間位相上に不均等を引き起こす。オタマジャクシが群れを成して一塊になって水中を浮かんでいるのと同じように、就活の紋切型は互いに惹かれ合い、密集するのだ。言葉は重みとなって空間にひずみをもたらす。そしてその重力がある閾値を超えた瞬間、我々は「まだ、ここにない出会い(リクルート・オブ・ザ・ラブ)」を実現することが可能となる。別の世界線への跳躍は、そうして果たされるのだ。「手書きのESの言語的位相の偏りによって発生する空間的ねじれを通じた世界線移動」。野島美波は知らないうちに、二十二世紀になってようやく我々が開発、実用化に成功した技術を先取りしていたのだった。

タケダが次に取るべき行動は明白だった。向こうの世界から手書きのESを送ることができる以上、こちらからも手書きのESを通してアクセスすることが可能に違いない。だから彼もまた、日本からの脱出を拒んだ。野島美波が逃げられない状態にいるのに、自分だけ逃げていては彼女に会う資格がないのだ。タケダはラブレターのように情熱的な言葉を、手書きのESに何度も何度も書き綴った。一日目は二十枚生産した。一週間後には一日四十枚生産できるようになった。そして半年後には、一日千枚以上の手書きのESを軽く書きこなすことができるようになった。こうした執筆枚数の爆発的な増加も、手書きのESの連続生産に伴う副次的な事象である。よく似た言葉を複数回連続して使用し続けることで空間の磁場が変質。結果、手書きのES執筆者を取り巻く空間の時間進行が通常の数百万分の一にまで減速する。現実世界での一分は、就活生にとっては百年に相当するのだ。野島美波がトランス状態で手書きのESを書きまくったこと。それが、日本社会を破滅させた原因であった。そして、野島美波を愛するタケダもその領域まで達しようとしていた。

タケダは野島美波への愛をもはや個人的な感情とは捉えていない。それは野島美波の存在する世界そのものを包み込む真実の愛だと考えている。野島美波を救うこと。野島美波が生きる世界を救うこと。二つの命題は等号で結ばれている。そうして個人の運命と世界のあり方を直接接続してみせる思考方法は就活特有のものだとみなしていい。だからこの愛は、「就活生」にしか決して実現できないものなのだ。愛の光は意志なき就活ゾンビを照らし出し、涼乃の肉体をあたたかく浄化するだろう。その光は世界を遍く包み込み、リクナビとマイナビの不毛な戦争を終わらせる奇跡の力を生むだろう。そして四十万人の就活生たちは、自分が命を賭けて守りたいと思うものを遂に見出すことだろう。愛の光は生者の証。タケダの手書きのボールペン字は、暴動により焼き尽くされ、廃墟と化したリクナビ本社に細い裂け目を産む。裂け目は徐々に広がり、やがて空間全体へと波及していく。だがタケダはその手を止めない。書いて、書いて、書きまくっている。歪みが広がる。待っていてくれ、野島さん。俺はしがない就活生に過ぎないし、世界なんてものを救えるのかどうかさっぱりわからない。けれど、この愛は、この愛だけは俺がようやく見つけることのできたほんとうのものなんだ。だから、俺は「就活」する。三十兆枚以上の手書きのESを書き終えたとき、タケダは確かに、野島美波の細い声を耳にしたように感じた。


平行世界をまたがった第一次選考が、今まさに、開始されようとしていた。




第一部完。第二部『本選考 いつか一緒に働いて』に続く。





作中、以下の文章を引用した。なお、一部人名の表記を漢字から片仮名に改めている。

・「人は何故リクラブをしてしまうのか、「何者」が考えてみた」

https://gaishishukatsu.com/archives/108150


・「就活生情報、説明なく提供、リクナビ、「辞退予測」38社に(データの世紀)」

(二〇一九年八月二日 日本経済新聞朝刊)


作中、以下のページを参照した。

・「プロフィール/PROFILE 「すが義偉物語」」

http://www.sugayoshihide.gr.jp/profile3.html


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