「99パーセントの宣言」朝倉 千秋

 それじゃあ、今週末もだめなのね? と彼女は言う。うん、ちょっと、と僕は答える。これでたしか三度目だ。流石に彼女も苛立っている。けれどもそれをなだめすかすように、僕は言う。無理すれば時間は作れるけど、今ちょうど第一志望の面接も迫ってるし、そういう状況で会ったら上の空で印象が悪くなるかもしれない。きちんとした状態で顔合わせがしたいんだ。ご両親に悪く思われたら、冴子さんにも迷惑になるだろうし……。ゆっくりと、なるべく誠実そうに響くように、ともすればそれは普段の僕の調子とはちぐはぐで、だけどそのことがより一層彼女の胸を打つように、言葉にする。そうすれば彼女は何も言えない。電話越しだから声の印象が十割だ。僕が風呂上がりの上半身裸のまま、消音にしたYouTubeを流したまま口にしているとは全く感じさせないように口にする。でも彼女だってそうだ。下着姿でベッドに寝転んで電話している可能性だってある。そういう人でないことは、よく分かっているけれど。彼女は僕をどういう人だと考えているのだろうか。結婚を望むくらいだから、それなりに信頼はしているのだろうけれど……。

 大学を出たらすぐさま結婚、だなんて可能性が自分に浮上するとは夢にも思っていなかった。そういうのってすぐ離婚しそうだよな、だなんて冗談交じりに言っていた。彼女と、冴子さんと付き合い始めたときには、チラリと考えないではなかった。そのとき彼女は既に三十五歳で、そういう女性と付き合うことは遊びだなんて割り切れないということくらい僕だって考えていたから。それでも二年前のそのとき、僕はまだまだ大学二年生の若造で、いや今でも若造だけれど、まだしばらくは悠々自適な大学生でいるのだからと物事を先送りにして考えていた。就職してしばらくしたら結婚も考えるようになるかな、となんとなくやりすごしていた。大きな年齢差というものを横に置いておきたくなるくらいには、僕は彼女に真剣に恋をしていた。

 彼女とはバイト先で知り合った。小中学生に向けた大手学習塾の教室のひとつが僕のバイト先だった。高校時代にサッカー部で先輩だった人からの紹介で、大学入学後程なくして働き始めた。小規模のフランチャイズ校舎だから割と自由な校風で、払いも悪くなかった。仲の良い大学の友人と二人で応募して二人とも採用され、バイト同士は親密で、社員との風通しも良かった。そこの社員として冴子さんはいた。一目見て、きれいな人だなと思った。歳は少し上だろうな、とも思った。三十代半ばだとはチラリとも思わなかった。その程度に冴子さんは容姿と年齢が釣り合っていなかったし、今もいない。

 風通しの良い職場だからか、飲み会なども多かった。そのお陰で職員同士の関係性はどんどん親密になっていった。夏休みにバーベキューをするような職場だったし、個人同士で仲良くなって飲んだり遊びに行ったりしていた。バイトというよりお金を貰って慣れ合っているような感じだったかもしれない。仕事内容もしっかりと勉強を教えるというより校舎運営を手伝いながら悪ガキの面倒を見るようなもので、あの子は本当に手がかかるとか、この前あの子にこんなことを言われただとか、笑いながら言い合っていた。

 冴子さんとの接点は、そう多かった訳ではない。バイトの人間はバイト同士での接点が多かったし、彼女は別に学生バイトの教育係という訳でもなく、事務仕事が主戦場だった。ときどき校舎運営についての細々した手続きとか、書類のやり取りなんかで会話をする程度のものだった。そんな些細な積み重ねの中で、書類を受け渡す彼女の指先や、オフィスチェアから振り返ったときに仄かに香るシャンプーの香り、それを纏う艶やかなショートボブのなびき方なんかに、少しずつ胸が高鳴るようになっていた。

 推しだわ、とその頃は言っていた。バイト先の社員さんが可愛いんだよね、という感じだった。あの人推し。一緒にバイトで入った山西に言うと、えらくウケた。あの人結構歳だからな? と山西は笑いながら言った。え、そうなん? うん、三十いくつだっけ、四か五。何でそんなの知ってんだよ。この前教室長が言ってた。へえ、でも可愛いじゃん。お前も好きだなあ。というようなやり取りで、彼女の年齢を知ったのだった。俺はK大の木下さん派。山西が言った。知らんがな。じゃあ俺も知らんがな。笑いあった。

 年齢を聞いたとき、たしか僕は動揺したりはしなかった。その頃は現実的にお付き合いや、その先の可能性を考えてなどいなかったから。冴子さんはバイト先の可愛い社員さんで、今日も可愛いなあと思っていれば十分だったのだから。見えないよなあ、あの歳でアレは反則だよなあ、それだけ。今思えばその頃まだ、彼女は僕とは違う世界の住人だったのかもしれない。僕は学生バイトで、彼女は教室運営側の社員。僕はまだまだ大学生のお子様で、彼女は成熟した女性。この感覚は子供世代と親世代のそれに近い。親戚同士で集まったとき、自然といとこ同士の子供組とお酒を飲んでいる大人組に分かれて行動したりしていた。学校の世界でも、子供である生徒側と教師や親たちの世界との間には一本の線が引かれていた。僕は線のこちら側にいて、冴子さんは向こう側にいる人間だった。その一線が掻き消えてしまったのは多分、あの忘年会のときだった。

 教室からほど近い居酒屋。社員さんと学生バイトを合わせた大所帯で小さな店はほとんど貸し切り状態だった。いくつかに分かれたテーブルの冴子さんの程近くを僕はさりげなく確保していた。というより、面白がった山西によってその配置が与えられていた。山西にとって僕の〝推し〟は格好のおもちゃだったのだ。そうは言っても普段ほとんど話すこともない社員さんと話す内容なんてほとんどなくて、結局僕は隣の山西とばかり話していたし、はす向かいの冴子さんも隣のベテラン社員とばかり会話をしていたような気がする。僕はときおり冴子さんの、カラカラと意味もなくドリンクの氷を回す仕草や、豆腐を上手く捕まえられずにぐずぐずにしてしまう箸さばきなんかを見て、それで満足していたのだった。

 飲み会の中盤、冴子さんがフラフラと席を離れたのもしっかりと見ていた。チラチラ見ていたのだから当然だった。彼女はしばらく戻って来ず、何となく気になりながらも気づかないふりで山西と喋っていたら、山西の方から僕を小突いた。

「様子見て来いよ」

「ええ、俺が?」

「チャンスじゃん、チャンス」

「いやそういうの良いから」

 ごちゃごちゃと言っていたが、心配じゃないのかよ、と詰められたせいで結局僕は様子を見に行くことになった。チャンスってなんだよ……、とそのときの僕はただ呆れていたのだった。

 冴子さんはトイレの二つの個室に挟まれた洗面台に手をついてうなだれていた。戻したのかな? と思ったけれど、どうやらそういう様子ではなかった。細い肩が静かに上下していた。ショートボブが軽く乱れて汗ばんだ首筋に貼り付いていた。なぜだか彼女は泣いているように見えた。大丈夫ですか、と顔を覗き込むと、お酒に酔って赤いというよりは青ざめていて、額にも汗が滲んでいた。うん、ごめんなさい、と頷いた彼女は涙を流してはいなかったけれど、涙を伴わない特殊な泣き方をしているようにも、僕には見えた。

 しばらくそのまま待っていると、彼女は身体を起こし、軽くふらついた。僕が支えようとする頃にはもう立て直している程度のふらつきだったけれど、足もとがおぼつかないのははっきりしていた。外の空気吸いますか? と聞くと、うん、ごめんなさい、と彼女は再びそう言った。

 彼女が倒れたら支えられるように注意しながら外へ向かった。外は寒いから、座席の近くを通るとき、冴子さんの上着と迷ってから自分のダッフルコートをさりげなく手に取った。勝手に女性の衣類を触ることに躊躇したようなところがあった。ちょっと、外の空気、と僕が言うと、山西はにやにやとしてこっちを見ていて、それどころじゃないんだよ、と僕は内心で悪態をついた。

 案の定外は寒く、冴子さんに自分のコートを手渡した。あ、ごめんなさい、と彼女は言った。彼女は謝ってばかりいた。居酒屋はビルの二階にあって、店の前は外階段になっていた。彼女は少し躊躇いながら、しかしふらつく足もとに耐えかねたように階段に腰を下ろした。僕は二、三秒迷った後、結局彼女の隣に腰を下ろした。コンクリートの地面で尻が冷えた。コートなしでは寒かったけれど、真冬の風はアルコールで火照った頬に心地よかった。肩は少し離れているのに冴子さんの体温を感じる気がしていた。救急車が走り去る音がした。音が消えて、冴子さんのため息が聞こえた。彼女は背中を丸め、両手で顔を覆っていた。

「飲み過ぎちゃいましたか?」

「うん……。嫌なことがあって。やけ酒なんて、ダサいよね」

「嫌なこと?」

 つい聞いてから、良くなかったかな、と思った。彼女は黙って、両手の間からまた溜息を漏らした。沈黙が流れ、寒さに肌が粟立った。先に戻っておこうかと腰を上げかけたところで、彼女は口を開いた。

「浮気されて……、彼氏と別れた」

「え?」

「八年も付き合ってたのに、今更ひどい」

「八年……」

 その長さは僕にはよく分からなかった。八年前、僕はまだ小学生だった。十二歳の頃の自分はたしかにそこにいたはずなのに、それはなんだか他人事のように感じる。八年前を思うとき、子供の自分を今の自分が遠くから振り返っている。彼の中に入り込んで、彼の目線で世界を見渡すことはもうできない。

 けれどもそれより、僕はどこか不思議な感覚に襲われていた。冴子さんと彼氏という言葉が上手く結びついていなかった。推しであった彼女に恋人がいたということに納得がいかなかった、という訳ではまったくなく、彼氏彼女という「僕らの側」にあるような単語が、冴子さんの側にも存在していることが不思議な気持ちにさせるのだった。

 つまり僕はそれまで、彼女を同じ人間として見られていなかったのかもしれない。推し、という言葉が象徴するように、その瞬間まで冴子さんは僕にとってアイドルと同じだった。けれども隣で、気づけば両手の隙間から涙を滴らせる彼女は、最早アイドルではなく一人の人間に思えるのだった。

 励まそうと思ったけれど有効な言葉はほとんど見つかりはしなかった。そのときになってようやく、僕はどれだけ冴子さんをきちんと見ていなかったかを知った。元気出してください、くらいのことを言った気がするけれど、それも大分無責任だったと思う。かといって立ち去ることもできず、僕はしばらく尻を冷やしながら遠くを見ていた。欠けた月には薄く雲がかかって、滲んでいた。その月は昔見た月に似ていた。いつだったのかよく覚えている。サッカー部の最後の大会が終わった日、勝ち進めずに部活にピリオドが打たれたあの日、同じ気持ちで月を見ていた。

 部活は真剣にやっていた。だから負けた悔しさや虚しさに苛まれていたのはたしかだった。でもそれだけではなかった。僕はそれまで部活を理由に受験のことを先送りにし続けていた。その口実が突然に消え、僕は、どうして良いのか分からなかった。部活に向けていた情熱を受験勉強に向けるのだ、と教師は言った。でもそんなことはできそうにもなかった。サッカーが好きだったからではなく、むしろサッカーなんて大して好きではなかったからなのかもしれなかった。迫りくる受験の重圧から目を背けるため、サッカーを利用していただけなのだ。だからいざ口実としての部活が消えてしまったら、僕は全く何をすべきか分からなくなってしまった。その事実に打ちのめされた。真剣に打ち込んできたと信じ切っていた自分が急に、無邪気に、幼く感じられた。

 そんなのは全て勘違いなのかもしれない。本当に部活には真剣に打ち込んでいたし、だからこそ放り出されたみたいな無力感が僕を襲ったのかもしれない。正直言って、自分自身でも何が正しいか分からない。その分からなさこそが、無力感の根源だったのかもしれない。

 帰ろっかな、と冴子さんが言った。そうですね、と言ってから、それが席にではなく家にということに気が付いた。冴子さんは席に戻って荷物をまとめ、今日はそろそろ、と帰る旨を伝えた。心配だから駅まで送ることにした。またあの無力感の中に戻るのかと考えたけれど、どうしてもそうせざるを得ない気がした。山西の視線はそのときは気にならなかった。

 駅までの道で何を話したかは覚えていない。何も話さなかったのかもしれない。冴子さんの足もとは先ほどよりも少し落ち着き、しかしやはり心もとない歩みであったから、僕の意識は常にその不安定さに引きつけられた。時期だけに繁華街は忘年会らしき人々で騒がしく、騒音の隙間を縫うようにして僕と彼女はゆっくり歩いた。駅に着くと彼女は僕に、わざわざありがとう、ごめんなさいね、と感謝と謝罪の意を述べて、足早に改札をくぐった。ICカードをタッチした後、彼女が振り返るのではないかとしばらく立ち尽くしてしまったときにはもう、僕は彼女に恋をしていたのかもしれない。

 あの後、山西に茶化されただろうか。それももう覚えていない。多分茶化されたんだと思う。けれども僕はあのとき、顔を覆って泣いていた冴子さんと、それを見つめる無力な自分が並んで座る後ろ姿を心の中でじっと見ていた。見えなかったはずの風景が、見たものよりも鮮明に思い出される。居酒屋の前の外階段、僕の貸したダッフルコートは冴子さんには少し大きく、肩が落ちて袖が地面を撫でていた。薄汚れた地面に腰を下ろし、遠くを見たり、指先を一本ずつ点検したりしている僕の後ろ姿を見ていると、やるせない。


 顔合わせをまた断った翌日、バイト終わりに呼び出された。教室から少し離れた駅のカフェ。職場には僕たちの仲は隠している。山西にも言っていない。知られると、僕の方は良かったとしても冴子さんの方はちょっとだけ具合が悪い。バイトの大学生に手を出した、なんて言われたら気の毒だ。だから僕らはよく少し離れた駅で待ち合わせをするのだけれど、わざわざ飲み屋ではなくカフェを指定したところに彼女からの無言の圧力を感じていた。

 僕の到着から二十分ほど遅れて冴子さんが来た。ネイビーのノースリーブのワンピースに薄いカーディガンを羽織っている。僕の正面に座った彼女は一通りとりとめのない話題を口にし、少しだけ黙ってからようやく決心したように、分かってると思うけど、と口を開く。

「単刀直入に言うね。私たちのこと、ちゃんと考えてくれてる?」

 結婚、とは口にしない。何となくその言葉は避けて回っているところがある。僕も冴子さんもそれは同じだ。二人の頭の中には同じ文字があるはずなのに、二人の間で口に出されることはまずない。

 彼女の質問はもちろん分かり切っていて、僕は少しだけ黙ってから、考えてるよ、と答える。でもそれでは足りないとも思う。その答えの先で僕が何を考えているのか。そちらの方を、彼女が欲していると知っている。

「考えてはいるけど、今はやっぱり会えないよ。就活でいっぱいいっぱいだし……。バタバタになる」

「就活が大変なのは私も分かってる。でもほら、ちょっとご飯食べようっていうくらいなんだし、あんまり渋られると、私も分からなくなる。疑ってる訳じゃないんだけど……」

 彼女は目を伏せる。僕はあの日の彼女のことを思い出す。八年間付き合った恋人に裏切られたあの日の彼女。彼女は多分恐れている。怯えている。今度は二年間付き合った僕に同じように捨てられるということに。邪推かもしれない。でも僕を前にしてあのときと同じ顔をする彼女に対して、僕の中でも不満が募る。理不尽な不満だと思う。でも理不尽だろうがなんだろうが、僕はやっぱり少しだけ傷つく。

 正直な話、僕にはまだ結婚なんていうことが現実として捉えられない。まだ就職もしていない。就職先も決まっていない。この先の人生が想像できていないのに、結婚なんて考えられる訳がない。そんなのが自分勝手で、彼女に対して失礼だという自覚はある。僕は彼女を愛しているし、彼女の年齢も考えるなら、もっと真剣に結婚について考えるべきだろうとは思っている。それでも、いざ両親に会うだとか、具体的なことが持ち出されると、どうしても尻込みしてしまう。

 でもそんなことを正直に打ち明けてしまう訳にはいかない。だから僕は少しだけ誤魔化す。就活さえ終わったら、もっと時間も気持ちも余裕ができるから。そしたらもっと積極的に動けるから、と。それは嘘ではない。本当にそうなるだろうと思っている。だけど少しだけ後ろめたさは心に残る。

 僕たちに話せることはもうあまりない。彼女はお酒を飲みたいと言う。二人でお酒を飲む。それから二人でベッドに入る。そういうことが僕たちにとって重要なのだと強く思う。もし今の状況が、あと一年や二年先にそっくりそのまま移し替えられたら、僕が学生ではなく、仕事をしていて、家庭を持つということを現実的に考えられたら、物事はまるっきり違う。でもそれは、今ここにある。今この時に考えるべき問題としてある。だから二人で耐えなければならない。時間が経って、状況が変わるのをじっと耐え忍ばなければならない。このままの感情を、このままの形でその時間まで持っていくことが、多分一番の解決策だ。二人は雪山で凍えるように、少しも体温を漏らさぬように、身を寄せ合ってじっとしているしかない。最適なタイミングで、重要な問題の蓋を開けることができるように。

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