「コミュニケーションスラムネオトーキョー」クロベ トウヤ

 家を出て数分もしない内、背負ったリュックが震えた。スマホの通知音らしい。着信か仕事のメールか、とり出そうとリュックを下ろそうとした瞬間、ゆっくり道を歩いていたはずの足がツルっと滑った。ビニール片かバナナでも踏んだのかと下を見ると、床がガラス板のようにテカテカと輝いていた。

 変だと気が付きはしたもの、靴の裏は止まってくれなくて、前へ前へとスライディングしていく。おれはバランスを崩して尻もちをつく。地面に接した尻も、とっさについた手のひらも、妙な感触だった。冷たくないスケートリンクの上にいるみたい。立ち上がろうと力を入れれば、またツルっと動いてさらに体勢を崩す。足を地につけ、なんとかバランスをとろうと力を入れるのに、もう一度滑って背中から地面に落ちる。アスファルトに背中をべったりつけて、両足が空に向かってつき上げられている。しゃちほこの逆向きといったポーズになっているはずだった。

 なんでこんなに滑っているんだと疑問に思う。見れば表面はツルツルの摩擦係数の低い真っ直ぐな地面である。おれの知らない内に、町内の地面を何か別の素材に置き換える工事でもしていたのか? どうせならツルツルよりフカフカの素材の方がいいに決まってるのに。町長のセンスが悪すぎると不満に思う。でも、素材が変わっているにしては、見た目がアスファルトっぽすぎる。よく考えれば一晩の内に道路工事が終わるはずもないから、きっとアスファルトなんだろう。

 辺りを見回すけれど、風景は紛れもなく家の近所。見慣れた家やアパートが立ち並んでいるし、街路樹のポプラもそのまま。よく見知っている姿となんの差も見いだせない。曲がり角の向こうを行く人は、平然として歩いている。おれは混乱しながら地面を撫でつける。いつもであればザラザラしているのに、磨き抜かれた鏡のような手触りだった。

 なんとか立ち上がろうと手をつき力を入れると、さらに滑って身体がスライドする。自分の意思とは関係なく身体の重心が移動して、最後、空に向かって落っこちはじめた。

 え、なんで? と呟いた言葉は誰にも拾われることはない。突然自分の周りだけが重力が真逆になったように空を落ち続ける。ポケットに入れていた家の鍵がざらりと落ちた。キーホルダーごと空に浮いて、慌てて手を伸ばしたけれど、指先が滑ってキャッチすることはできない。鍵は重力に従って落ちていくのに、自分の身体は浮いていく一方。ぐんぐん地面は遠ざかって行って、地表にあるすべてのものが豆粒ほどの大きさになる。落っこちているのかのぼっているのか、自分でもわからない。ただチューブ状の滑り台の中にいるような動きで、どこか高い所に向かって滑っている。

 死にたくない。仕事だって道半ばだ。心残りが多すぎる。青い空虚の中に身が浸されている間、目を閉じると走馬燈が目に浮かんだ。コピー用紙にシャーペンを走らせる光景が次々と浮かんでは弾けて消える。おれの一番の執念は、まさしくそれだということがわかってしまった。だって、まだ夢が叶っていない。ギャグマンガを上梓して、皆を笑顔にしたいという夢は、道半ばどころかまだスタートラインにも立っていない。


 描き続けて早六年、高校卒業後デビューしたマンガ稼業はおおむね成功の道をたどっていた。念願のマンガ家になれたのは幸運で、けれどマンガ家になった後でやりたいこと――ギャグマンガを描くという自分の念願自体は叶っていなかった。おれは子どものころからギャグマンガが大好きで、様々な場面で励まされてきた。受験に落ちたとき、友達と喧嘩をしたとき、家族との仲がこじれたとき。あらゆる失敗をしてしまったとき、おれは過剰に落ちこんでしまう性格で、救ってくれたのはいつでもギャグマンガだった。死にたいような失敗も、自分の欠点で人を傷つけてしまったときも、軽く笑い飛ばしてくれるような洒脱と滑稽は心を安らげてくれる。ひとしきり笑えば、自分の頑なさがバカバカしくなって、素直に謝れるようになったし、失敗をとり戻そうという気になれた。だから、おれはギャグマンガに育てられたようなものだった。

 おれがここまでやってこれたのも、ひとえにギャグマンガのおかげ。ならば立派に成長した姿を、育ての親たるギャグマンガに見せてやらなければならない。故郷には錦を飾るものだし、孫の顔を見たいのが親心というものだろう。そういうわけで、おれはなんとしてもギャグマンガに恩返しをしなければならない。ギャグマンガこそが、ライフワークともいうべきおれの宿命だった。

 それなのに、おれはギャグマンガを描くなと編集から言いつけられていた。禁止されていたといった方が正しい表現かもしれない。編集会議宛にプロットを提出すると、会議の前に担当編集がすぐにつき返してくる。

「水崎先生。今回はギャグマンガではなく、ストーリーの重厚な歴史マンガでいきましょうとお伝えしたはずですが」

 担当編集はあくまでビジネス的に満点の、感じのいい微笑みを崩さずに諭す口調で言う。おれは諦めきれずに、

「いやでも、ストーリーも組んだし、歴史が題材だし。その上でギャグがあったら、カレーとハンバーグ両方食べられるファミレスというか一石二鳥というか一挙両得というか。いつもぼくのマンガはなんだか鬱屈としていて暗いから、たまには朗らかでもいいんじゃないですかね」

 と抵抗を試みるが、にべもなく否。新しくプロットの締め切りを言い渡されるだけで、きちんと検討してくれる気配もない。

 編集がおれを嫌っていて意地悪で言っているのではないかと勘繰ってしまうほどのとりつく島のなさだけど、編集の言として、

「締め切りも守るしメールの返信も早いし、水崎先生はとてもありがたい作家さんですね」

 と褒められるから、嫌がらせではないらしい。なぜこうもギャグマンガを描かせてもらえないのか。早くギャグマンガに恩を返して貢献したいのに、焦れるばかりで実行には移せていない。六年間で膨らんだ目下の悩みだった。

 おれとしては絶対にギャグが描きたい。だからこそ、デビューするとき少年誌を選んだわけだし。絵柄的には青年誌の方が向いているとデビュー前の持ちこみで言われることもあった。けれど、少年マンガがよかった。おれが小学校中学校のときに慣れ親しんだ、おれを育ててくれたような、子どもの心に響くヤツ。

 でも、デビューのきっかけである読み切りを連載化した一作目『ワールドロック』はシリアスなバトルマンガだった。評判のよかった二作目『宙のガーゴイル』はSF心理サスペンス。三年半の長期連載になった三作目『三ツ辻さんは不機嫌!』はセカイ系ラブファンタジーラノベのコミカライズだった。そのため、いまだ今日までオリジナルのギャグマンガを読者の前に並べることはできていない。

 別に原作付きのコミカライズをやること自体に不満はなかった。ただ、少しでもオリジナルのギャグや凝った言い回しを使ってみると、即座に編集から赤が入る。コミカライズは原作に忠実じゃなくちゃいけないのか、と、他のコミカライズをやったことがあるマンガ家に聞いてみても、全員がそう言われているわけじゃない。ただ、おれだけが原作に忠実になれと仕向けられていることがわかった。

 先月、ラノベのシナリオ分を描ききることができ、円満連載終了を迎えた。編集と原作プロジェクトのメンバーとの打ち上げのときも、「水崎先生は若いのに画力があって、その上話の流れをくむのがうまくて、おかげで打ち切りに遭うこともなかった」と、世辞かもしれないが褒められた。次回こそはオリジナルのギャグマンガを、と次作の準備期間に入って、そこからはギャグ調の物語で怒涛のボツを食らい続けた。ボツが珍しいわけでもないし、困っているわけでもない。ただ、おれはギャグをやらせてもらうことができない。浮き彫りになる事実だった。

 結局、先だって編集会議を通ったプロットは、明治維新のころ、江戸期に村本陣の大地主の子が郵便屋をやるようになり、そこで政府の秘密を知って、陰謀を阻止しようと頑張る冒険譚となった。明治政府をはじめ、元侍も国学者も華族も寺院も出てくる大河ドラマになりそうだから、取材が必要。ということで、準備猶予期間を長めにもらうことができた。図書館で資料を集めたり、舞台地に取材に行ったり、充実した日々を過ごしている。編集に第一回のネームを送ったところでふと二週間ほどスケジュールに余裕があることに気が付いて、念願だったギャグマンガを描いてみようと決めた。

 おれは一応ツイッターをしていて、主に告知を中心に使っていた。ファンレターよりも手軽だからか、ファンから温かい声援やメッセージをいただくことも多い場で、おれは結構気に入っていた。ときたまにイラストを投稿すると、ありがたいことにかなり反応をもらえる。だから、短い読み切りのギャグマンガを投稿したら、もっと喜んでもらえるだろう、ついでに編集の目に留まったら、連載でもギャグシーンをやらせてもらえるんじゃないかという功名心もなかったわけじゃない。三日間ぶっ続けでマンガを描いて投稿。一仕事終えたおれは、気分転換でもしようと散歩に出た。滑ったのはその矢先のことだった。


 どれくらいの間滑り落ちて(滑りのぼって?)いただろうか。死ぬんだろう、という絶望感で胸が苦しい。そもそも高いところが得意ではない。だというのに、視界は開けぐんぐんと高度を上げていく。高層ビルの上へ投げ出されるように身が躍り出たところで、漏らすのではないかという不安も相まって耐えきれなくなった。もうこれ以上何も見たくない。固く目を閉ざすが、身体が風を切る感触は止まるところを知らない。

 いつ死んでしまうんだろう、と瞑った目蓋の裏で考える。急に内臓が揺れる感触が止まって、ジェットコースターが停止したときのような反動、やがて静けさに包まれた。あれ、と目を怖々開く。と、おれはいつの間にか地面に転がっていた。さっきまでいたところと変わらない、家の近所の道に。

 地面? 空にのぼってのぼってたどり着いた先が地面? 怪訝に思う。どこかで上下が反転してしまったのだろうか、だが生憎そういった記憶も感触もない。透明なチューブ状の滑り台を滑っていくように、真っ直ぐ上空に浮いていったはず。なのに。辺りを見回すと滑りはじめる前と変わらない光景が広がっていた。

 唯一違っているとしたら、ひとけのなさだった。明るい時間だというのに人ひとりいない。大通りに出てみても車の一台も通っていない。気配すらなくって、歩けど歩けど誰とも出くわさない。自分の住んでいた街によく似た廃墟のような街だった。

 ジオラマの街に入ってしまったような不安。上を向いても、いつも通りの空があるばかり。下を見ても、なんの変哲もないアスファルトがあるだけ。さっきとは違ってちゃんと歩くこともできる。手で表面を触ってみると、正真正銘ざらざらとした触り心地のアスファルトだった。

 なんだろう、と思いスマホをとり出す。滑って人のいない街に行ってしまう、なんて今はやりの異世界転生みたいだ。

 グーグルウィンドウで「滑る 人のいない街」と検索しても、それらしい情報は出てこない。ふと画面の通知欄にツイッターの通知が表示されていて、ツイッターで何か情報収集ができるのではないかと開く。と、大量の未読通知がアクティビティ欄に表示されていた。

 すぐにさっきギャグマンガを上げたばっかりだった、と思い出す。今ちょっと困った状況に置かれてはいるものの、自分の渾身のできのギャグマンガが褒められているのは見ておきたい。だって、頑張って描いたんだから、コメントをもらったら誰だって嬉しいだろう。なんてメッセージがきているのかな、と浮き立った気持ちでメンション欄を見ると、一番上に表示されているのは、


鴨居コータ(@ko_ta_ka_moimoi)

水崎先生ギャグセンないですねw! 新連載はちょ~楽しみにしてますから! 原稿ガンバです応援しています!


 という、見慣れたアイコンの短いメッセージだった。それは同時期にデビューした鴨居コータというギャグマンガ家のアカウントで、懇意にしているだけに、いつもの毒舌だろうと受け流す。まったく鴨居先生は毒舌と悪口の区別がついていないよな、とちょっと呆れた気分で。「失礼ですね(笑)でも応援ありがとうございます、コータ先生も連載頑張ってください」と返信をして済ます。なんだったんだ、と腹立ち紛れにその下に表示されたファンからのメッセージをタップすると、

「つまらなさ過ぎて逆に面白かったです」

 というメンション。失礼なクソリプだとムッとしながら、一覧に戻ってスクロールすると、

「本当にギャグ向いていないんですね! 『ワールドロック』も『宙のガーゴイル』も『三ツ辻さんは不機嫌!』も好きだったので、ぜひ今までの路線で頑張ってください」

「ミズッチ絵はうまいし一生原作あるマンガやっててほしい」

「意味がわからん、不安になる」

「滑ってるミズッチも好き……いや好きじゃないな……」

「どんな気持ちで描いたんだろう……」

「ツイッターやめた方がいい、ミズッチの過去の名作が全部無に帰した。逆広告ってかネガキャンですらある」

「『ワールドロック』初期のビミョーなダダ滑りギャグ再びでミズッチ変わってなくてなんか安心した(古参ヅラ)」

「ギャグマンガなのにギャグがクソつまらんw死んでほしいw」

「『宙のガーゴイル』描くほどの才能があるのにこれはちょっと……」

「編集仕事してほしい。集栄出版はマジでクソ、お問い合わせしようかな……」

「嘘だろミズッチ……」

「『ワールドロック』のあれって素なんだ……滑り芸ではないんだ……」

「滑り具合に絶望した」

「アカ消せ」

 というところまで目で確認して、おれはスマホを地面に投げ捨てた。おれの方が絶望しているよ! お前がアカ消せ! と勝手に涙が滲んでくる。しゃがみこむと、地面の上でスマホが短く震えた。

 再び手にとって確認すると、編集からのメールだった。


水崎潤一先生

お世話になっております、集栄出版の森です。

以前より、基本的にツイッターの運用は先生にお任せし、ご自由にお使いくださいとお伝えしていたところ大変申し訳ないのですが、先ほどアップされたマンガ『未来からきた男(8P)』は、次連載と雰囲気が大幅に異なっています。来月から新連載がはじまる大切な時期です。ぜひ公式アカウントでは新連載の広報・広告に努めていただきたいと弊社編集部では考えています。先生にこういったことを申し上げるのは心苦しいのですが、当該ツイートを削除していただくことは可能でしょうか。お手数おかけしますがご検討のほどよろしくお願いします。

集栄出版 森容子


 開けば追い打ち。つまらないから消してほしいということが至極婉曲的に表現されていた。

 もしかして、クソリプを送ってくる人に悪意があるのではなく、おれのマンガがつまらないのだろうか? と不安になってくる。いや、そんなことはない。だって、デビューしてから円満連載終了しかしていないし、フォロアーだって四〇〇〇人いる。この間は『三ツ辻さん』のメインヒロインのイラストを描いたら一万いいねがついたし。と、自分の心がくじけないように一生懸命内心で言い訳する。けれど、いくら自分を鼓舞しても、「クソつまらんw死んでほしいw」というメッセージが脳裏に焼きついて離れない。おれのギャグってつまらないの? 滑ってるの? とはじめての気付き。泣きたいような気分で、当該ツイートに削除した。

 おれは絶望の淵に立っているような気分でいっぱいだった。当然だ。おれがそうしてもらってきたように、ギャグマンガで子どもを笑顔にしたい、ギャグマンガに恩返ししたい、という昔からの夢が打ち砕かれたんだから。とりあえず家に帰ろう、と立っているところから三〇〇メートルも離れていないアパートまで戻る。扉の前に立って、空に滑り落ちている途中に鍵を落っことしたことに思い至る。あ、鍵、ない。ドアノブを回しても、鍵は開いていない。窓が開いているということもなく、家には入れない。重たいため息が出た。

 どうしよう。人もいないし、家に入れない。となったら、食事もできないし寝床もない。鍵屋のホームページを検索して電話をかけてみるが、通信中のプツプツという音が鳴るばかりで、相手が出ることはなかった。他の人間にかけても同様で、通信が成立することはなかった。どうすればいいんだ。とりあえず本当におれしかいないのか。ということを確かめるため、街へと出てみようと決めた。

 アパートは三軒茶屋と池尻大橋の間の住宅街に位置していた。近くの大きい駅は渋谷。一・五キロメートルほどだから、自転車で行けばすぐだろう。アパートの前に停めていた自分のママチャリのダイヤルチェーンは自分の設定していたパスワードですんなりと開いた。多分、元いた世界と、なんらかの共通性はあるのだろう。

 自転車を走らせて、大通りに出る。車通りはない。バスすら通らないのだから、電車も動いていなさそうだ。誰もいない街なんてチープなマンガの舞台設定みたいだ。おれが描くんだったら、もっと凝った世界設定にするだろう。

 そもそも、地面がツルツルになって空に滑り落ちるってなんだろう。浮遊感はあったから、絶対に上空ではあるようだけど……とそこまで考えて、はっとした。滑る? 浮く? もしかして、おれのマンガが滑ったから、滑ってしまったのか? マンガが世間から浮いたから、体まで浮いたのか?

 おれはヤケクソな気分で車道をひた走る。自転車の椅子から腰を浮かして、思い切りペダルを回した。周囲の景色は後ろに向かって流れていく。そうか、ギャグが滑ってるから浮いたのか。無性に悲しくて、視界がぼやける。でも、この街には誰もいないから、事故を気にすることなく安心して走ることができる。


 渋谷の駅前につくと、土曜日の昼下がりに相応しからぬひとけのなさだった。ハチ公前に待ち合わせをする人の姿は見えない。緑の電車にも、スクランブル交差点にも。交番の建物はあるけれど人はいない。お店の電気はついているようだったけれど、管理するための店員や警備員は皆無。すべてのものは元のままあるのに、すべてのものが動いていない。まるでおかしな街だった。

 どこかに行けないかと思い、広場に自転車を停め、自動改札を潜り抜けホームに向かう。が、電光掲示板に次の電車の予定はなく、乗客もいない。おれはベンチに腰かけてぼんやりする。この様子だったら、どこかのニトリのベッドコーナーにでも忍びこんで寝ることはできる気がするし、食料もコンビニから拝借はできそう。生命維持に問題はないだろうけれど、人が誰もいない街にいることに何か意味があるのだろうか。多分出版社に赴いても社員はいないだろうし、マンガが出版されたところで読者がいない。話し相手も昔の友達もいない、この先出会う人間もいないこの世界に生きている意味があるのだろうか。頭が重たくて、視界がぼんやりとした黒色の靄で覆われる。こんなところでぼんやりしている間はないと頭ではわかっているけれど、一向に立ち上がる気力が起こらなかった。

 どのくらい経っただろうか。ホームの屋根の隙間から見える空が、オレンジ色に染まっていたから、数時間は途方に暮れていたようだ。ふと、遠くからカツカツという足音と、何かを引き摺る音がして我に返った。顔を上げると、音は大きくなっていく。音の鳴る方にじっと目を凝らすと、小さい影がどんどん大きくなり、人型になった。

 どうやら人間が線路の上を歩いているらしい。おれは立ち上がって、ホームのギリギリまで駆け寄る。ザリザリという音は、人間が手に持った鉄パイプが地面に摺れる音らしい。なんで鉄パイプ持っているんだろう、とか、危ない人なんじゃないか、とか、そういった不安も一瞬頭をよぎったけれど、それ以上に誰もいない世界に自分以外の人間がいることが嬉しくて、逃げようとか引こうとかは思い浮かばなかった。

「あの」

 と声をかけると、地面を見て黙々と歩いていた男が顔を上げる。男はどうやらおれよりも年下のようで、丸顔に大きな瞳、低い鼻梁、あどけない顔立ちだった。おれに気が付くと、

「あ! 人だ! こんなところにもいたんだ」

 と朗らかな表情で笑った。おれは感動で手が震えるのを必死で押さえ、思わずホームに飛び降りる。

「君、ここがどこだか知ってる? ぼく、今日の昼に突然滑って転んだ後に空中に浮いて、気が付いたらここにいたんだけど」

 男の両肩を揺さぶる。男はおれよりも小柄で、ジャージのズボンに、犬のイラストが描かれたTシャツを着ている。男は落ち着いて、とおれに向かってひとつ咳ばらいをする。そうして、もったいぶった間を作ると、

「コミュニケーションスラムネオトーキョーだよ」

 と言った。コミュニケーションスラム? ネオ? トーキョー? と復唱をすると、男はうんと頷く。

「コミュニケーションスラムネオトーキョーはコミュニケーションが貧しく社会から浮いている人が住む場所、つまりコミュニケーションスラムだよ。ネオトーキョーというのは東京上空三〇〇メートル地点にある架空の街だからネオトーキョーだよ。僕はここにきて二か月くらいで、暇すぎてずっと街と疎らに存在している人の調査をしてたから、多分確かだと思う」

 まあ、コミュニケーションスラムネオトーキョーって呼んでるのは僕だけなんだけど、と男は笑っていった。

「せっかくこの僕が名前をつけたのに、広めようと頑張ってるのに誰も呼んでくれないんだ。悲しい! ってかさ、そろそろ日も暮れるし、ちょうど話し相手欲しかったんだよね。一緒に泊まらない?」

 と、おれに誘いかけた。おれは人恋しさから一も二もなく頷く。男は身のこなし軽く山手線のホームに這い上がる。おれが登ろうとホームの端に手をかけてジャンプをしてみるけれど、意外とホームは高くてよじ登れない。必死でぴょんぴょんやっているのをしばらく眺めてから、男は

「あ、登れないんだ。ホームの端に梯子あるよ」

 と、指さした。もっと早く言ってくれ、と恨めしい気持ちはあるものの、文句を言えるわけでもない。おれは黙って梯子を上り、先へ先へと足どり軽く進んでいく男の後を追いかけた。男が歩くたびに、鉄パイプが地面にこすれる音がする。何に使うんだろう、もしかして殴り殺されるのかな、と不安が湧いてくるけれど、上機嫌そうな男に口を挟みがたくて、おれは黙って男の足の進むまま、いずこかへと歩いて行った。


 男は渋谷の駅前に降り立つと、信号をまるきり無視して109の前へと向かう。ガラス扉の中、女物の服を着たマネキンを物珍しそうに覗きこんでいる。何をしているんだろう、と怪訝に思いながら彼を見ていると、男は急に鉄パイプを両手で握り直す。綺麗な打球ホームで振りかぶると、なんのためらいもなく109のガラス扉に向かって鉄パイプを撃ちこんだ。

 ガシャンガシャンと耳障りな音がして、ガラスが粉々に砕ける。アッハッハッハ! と高らかに笑いながら、もう一振り。おれはぎょっとして思わず後ずさる。いつでも逃げられるように背後を確認しながら、

「な、何してるの?」

 と尋ねると、男は振り返る。満面の笑みを浮かべ、

「え? いや面白くない? ガラス、フフ、109の、いつもならあんなに、アハハ、人がいるのに殴り放題っていうか壊し放題って、フフフ、愉快じゃない?」

 キミもやる? と首をかしげて、べこっとへこんだ鉄パイプをこちらに差し出す。棒にまとわりついていた細かいガラス片がパラパラ床に落ちていた。

 え? とおれは思わず声に出す。

「あ、いや嫌ならいいんだけど、いや~楽しいしオモロじゃん」

 男はおれが受けとらないのを見ると、もう一度両手で握り直す。片足を身体に引き寄せて力を溜めると、大きく踏みこみながらもう一発撃ちこんだ。野球でもやっていたのか、小柄な身体にアンバランスなほど長い鉄パイプも難なく御している。ためらうことなく表扉を割り尽くすと、男は鉄パイプを肩から下ろし、靴裏でガラスを踏みつけながらこちらに戻ってくる。パキパキキュイキュイとガラス同士がこすれる甲高い音がして、寒気がするようだった。

「火ぃつけようかな、ついでだし」

「な、なんでそんなことを?」

「え? だって、109が燃えてたらウケるじゃん」

 男はへらへらとした態度でポケットをまさぐると、ライターをとり出す。

「あ、でも火をつけるものも油もないな」

 コンビニで新聞とライターオイルでも持ってこようかな、と男は辺りをぐるり見回してコンビニを探す。おれはその男が愉快そうにしている理由がわからなくて、

「これ、壊れたままで行くの? 大丈夫?」

 と尋ねる。男はきょとんとした顔でおれをじろじろ眺めると、その後でケラケラと火がついたように笑い転げる。

「えーだって明日には元通りになるよ、これ。だから言ってんじゃんここは架空の土地だって」

 と、言った。架空の土地? と復唱すると、男はそう、と頷く。

「架空の街だから、日付が新しくなると、街は僕らが住んでた街と同じ姿になる。まあ、元住んでた街の様子を見たわけじゃないから、予想で確証はないけど。でも、とにかく十二時を回ると、元、というか僕らが住んでた街と同じ姿に戻るんだ。コンビニの新聞も毎日新しいし、ニュースも最新。同期してるっていうのかな。クラウドからダウンロードされるみたいに、新しくなる。仕組みもわからないし、なんでこんなものが存在してるのかもわからないけど、とにかくそういうものなんだって」

 と、ライターを着火し、109の壊れたショーウィンドの中のマネキンの服に火をつける。化学繊維だったらしく、布は溶けるように燃えて、マネキンの表面を火で覆うとやがて消えた。そこに残ったのはドロドロの燃えカス。ゆっくりと崩れて落ちて、金属製のマネキンの骨組みが剥き出しになっていた。


 渋谷は東急のビルの上階、シティホテルの一室に忍びこむ。受付で管理されている鍵を勝手に持ってツインを開けると、男はここに泊まろうか、と平気な顔で言った。おれは盗人猛々しいとでもいうのに相応しい堂々とした振る舞いに面食らいつつも、他にする方が思いつくわけでもなく、男に従って部屋に入った。男は靴を脱いでベッドのひとつに飛び乗ると、ぐちゃぐちゃにシーツを蹴り乱す。

「君。ここにきたのいつだっけ」

 とスマホをベッドのサイドボードの充電器につなぎながら男は言う。さっき出会い頭で言ったんだけど、という言葉を飲みこんで、

「今日の午後だよ」

 と返した。男はふ~ん、と大した興味もなさそうに相槌を打って、おれの方を向く。

「名前は?」

「水崎潤一」

「いい名前じゃん。僕はコン。今って書いてコンて読む。名前知ったからってなんだっていう話ではあるんだけど」

 そんなことはないだろう、と思うがまた飲みこむ。無邪気にケラケラ笑いながら打ちこわしを敢行するコンは、おれの目からすればひたすらに異様で、何かを言って殴られりでもしたらたまったもんじゃない。明日になったら別れて別の人間を探そうと内心で決意する。でも、コミュニケーションスラムとコンが言ったことが気がかりで、コンよりもひどい人間がいることも想定しなければならないということはうっすらうかがえる。

「水崎くんっていくつ?」

「二十四」

「僕のひとつ年上だ」

 おれはえっ、と思わず漏らす。

「高校生かと思った」

「よく言われる」

「ゴメンね、失礼だったね」

「いや別に気にしなくていいよ。この街は社会性を求められないっていうかそもそも人少なすぎて社会も形成されないから、あんまり気を使ったりすると損だよ。好き勝手やった方が楽しいと思うけど」

 とコンはもぞもぞと起き上がる。言葉の通り、ここにくる途中でコンビニからかっぱらってきたコンビニ弁当を、カバンからとり出すと、ベッドの上で広げて食べはじめた。

「あの……コンさんの知っているこの世界こと、教えてもらえませんか」

「いいけど」

「けど?」

「まあ、別に僕が見た限りだから、真実かどうとかの保証はないよ」

 とコンは割り箸でから揚げを口に運ぶ。おれはためらって結局コンビニから何かを盗むことはできなかった。食事のことは明日になってから考えようと思う。と言っても、高級なシティホテルを占拠しているんだから、常識人面できたもんじゃないと思うけれど。

「ここはコミュニケーションスラムネオトーキョーってのは言ったっけ。命名したのは僕だけど。なんでそんな名前をつけたのかっていうと、会う人間会う人間全員異様なくらいギャグが滑ってるんだよね。人によっては会話がかみ合わないくらい滑ってる。すべての言葉にボケてくる人とか、けらけら笑い続けていて会話にならない人とか。逆にちっとも笑わなくてしゃべらない人とか。まあ、よくわからないけど、あんまり社会! 普通! って人はいない」

 コンはベッドシーツの上に一度きんぴらを落とし、指先でつまんで口に入れる。コンの異様さもやっぱり滑っているという理解でいいんだろうか。確かに笑いのツボが、おれ、というかおれが今までいた世界とは違っているみたいだし。もしもこのコミュニケーションスラムで出会わなければ関わり合いたいとはけっして思わないタイプの人間であることは確実。この人間がどうやって暮らして生きてきたのか想像も及ばなくて、まるで架空の街のNPCであるとおもえてしまうほどだった。

 コンはっていうかさ、とおれの顔を割り箸の先で差す。

「水崎くん、意外と普通だよね。コミュニケーションスラムで出会った人間ではピカイチまとも。なんで? そんなに滑り倒してたってもしかしてゲイニンだったとか?」

「……マンガ家だったんだよ」

「すごい! あとでサイン頂戴! 元の街に戻ったら転売するから!」

 おれはその潔いくらいの人の心のなさに苦笑いをして、話を続ける。

「ギャグマンガをツイッターに投稿したら滑ったんだよ。それ以外はあんまり変わったところがないと自分で思ってるんだけど」

「ああ、多分インプレッションが多かったんだね。だから、一滑りに対して大量の人間が滑り判定したからここにきたんだ。カワイソ」

 割り箸をタクトのように振り回してコンは笑う。おれが「コンさんはどうしてここに?」と尋ねると、口に詰めこんだ白米を飲みこむと、再び言葉を継いだ。

「僕はねえ、政治運動をしてたんだよ。なんの政治活動って言われると説明が難しいんだよね。ってのも、やりすぎちゃってコミュニティを追い出されるから、定期的に根城が変わるんだよ。最初はサヨクっていうの? 反政権運動とか、そういうところでやってたんだよ。でも、なんか面白いかなって思って要人の車とか家とか燃やしたら『活動の本義と外れる』って言われてめちゃめちゃ鬼詰めされて怒られて追い出された。その後はウヨク? のコミュニティに入って、左派に対しての示威活動してたんだよね。でもこっちもなんかそれぞれに正義みたいな、国を守りたい? とかっていう人がいるから、誰彼構わず脅したり、敵対左派の人の家の窓とか割ってたら追い出された。あの人たちってウヨクもサヨクも暴れて面白い! とかそういう気分で活動やってないんだね。新興宗教とかに出入りしてもおんなじだった。というか、変なリロンを押しつけられるから、気持ちよく遊べなくてあんまり快適じゃなかった。僕的にはなんでもよくて面白ければいいじゃん? くらいの気分だったから怒られてえービックリ! って感じだった」

 おれは目の前の幼い顔立ちの男を別の生物を見るような気分で眺めた。身体がぞわぞわして、思わず身を引く。コンは頓着もなさそうにケラケラ笑う。

「ここは理想の街だねえ。いくらぶっ壊しても怒られないし。でも、やっぱり、なんか人がいないからちょっと物足りない。つまらないっていうか、驚いたり怒ったりする人がいないと、ボケでやってるのにツッコミがいないみたいな寂しさがあるよ」

 おれが腰を浮かして出入口に視線を遣ると、コンは「安心して、人怪我させるのはウケないからやんないよ」と笑った。コンは食べ終えたコンビニの殻をビニール袋につっこんで、床に投げ捨てた。

「で、何か知りたいことはある? 知ってる範囲なら教えられるけど」

「……通信ってどうなってるんですか?」

「電話は全部ダメだけど、それ以外は比較的使える。外の情報を受けとるのはできるみたいでサイトとかニュースは見れるよ。ツイッターとかラインとかも受送信できる。テレビもつく。でも、この状況を伝えたところで信じてもらえないし、滑ってるギャグだと思われるのが関の山。下界から助けが呼べるわけでもないから、あんまり役に立たないけどね」

 コンはいろいろやってみて諦めた、と言った。

「コンさんは普段何して生きてるの?」

「僕はね、人がいないと面白くないから人を探して歩いてる。で、見つけたらちょっとしゃべって、情報持ってないか調べてるんだよね。あとは……街の状況を調べてて、亀裂を探してるんだよね」

「キレツ?」

「上野に行ったときにいたおじさんに聞いたんだ。昔、元の世界に戻った人がいるって。おじさんはもう何十年も住んでるらしいんだけど、一度行動をともにしてた人が、突然『見える!』って絶叫して、地面をこぶしで叩きはじめたんだって。最初おじさんは気が狂ったのかと思って放っておいたらしいんだけど、地面が割れて、光に包まれると跡形もなく消えた。で、すぐに亀裂はふさがって元通りになった。以来消えた人に会うことはなかった。多分、元の世界に帰ったんじゃないかって」

「……地面の下に戻れたところで、上空三〇〇メートル放り出されたら死んじゃうんじゃないの?」

 おれが尋ね返すと、コンは鼻で短く笑った。

「元の世界で、空から人が降ってきたってニュース見たことある? ないよね。ってことは、多分ここにきたときみたいにフシギナチカラが働くんじゃない? あんまり合理的に考えることにも意味はなさそう。だから、鉄パイプ持ってぶっ壊せる地面を探してるの。亀裂が見つけられれば、帰れそうだから」

 鉄パイプは何かを叩いて愉悦を得るためじゃないんだ、と苦笑いをする。その割には、目的外の用途で使っていることが多そうだけど。他には、と尋ねると、コンは首を振って、

「あんまり具体的なことはわからない。とにかく向こうでギャグが滑って社会から浮いた人が、足を滑らせると宙に浮遊してくる世界がここ、ということだけが確か。水崎くんも他の人に会うときは気を付けてね。変な人、多いし」

 お前が言うか、と半分呆れつつも、想像よりは親切な人間らしい。コンはお風呂入って寝よう、と言うや立ち上がって、シャワールームへと消える。おれは一体なんなんだろう、と疑問に思いながら窓の外を眺める。窓の外は渋谷の駅前で、ぴかぴかとネオンはいつも通りに光っている。ただ人通りと車通りはない。もぬけの殻と呼ぶに相応しい、空っぽの街がそこに輝いていた。

 いったいここはなんで、いったいどうすれば元の世界に帰れるのだろうか。と思いながら靴を脱ぎ、ベッドに上がって寝そべる。一日であまりにもいろいろなことがあったためか、肩が重たかった。ぼんやりとした睡魔。そういえば徹夜でマンガを描いていた、ということも思い出す。目を閉じるとすぐにうとうととする。コンが風呂から上がってくるのを見る間もなく、おれは静かに夢の中へと潜っていった。

 朝、ガチャンと大きな音で目を覚ました。ガバリと身を起こして慌てて音の発生源を見ると、コンが窓ガラスに二打目を食らわせるべく鉄パイプを振りかざしてるところだった。

「あ、起きた。アハハ、目覚まし代わりに、どうだった? ウフフ、もう、フフ、九時だよ」

 コンは昨日と変わらない表情で朗らかに笑う。おれは呆れ返らんばかりの気分で、この男といたんじゃ身が持たない、と思った。心臓はバクバクと高鳴っていて、生きてはいるらしい、と知れた。ハアとため息を吐くと、コンは悪びれることもなく、

「また滑っちゃったな」

 と言う。おれはこの男と建物を出たところで別れようと決意して、シャワーを浴びるために風呂場に向かった。

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