「Angel」矢馬 潤

 セットカウント二対二。最終第五セット十対九でむかえたマッチポイント。フォアに入ってくる相手のドライブに合わせてラケットをコンパクトに振り抜くと、きれいなカウンターとなって、まだ体勢が整わない相手のフォア側を貫いた。勝利の瞬間、この試合一番の声が出た。だいたい、私の試合はフルセットが多すぎる。この試合は、いままでのなかでも最高の、一進一退、どのセットも勝負の綾ではどちらに転んだかわからない熱戦だった。最後のポイントを決められたときの相手の、天を見上げた笑顔が相手にとっても良い試合であったことを表していた。お互いの健闘をたたえて握手を交わし、勝利者は本部に、その報告に向かう。その三歩目、右の股関節に激痛が走る。前日の練習から違和感はあったが、朝には治っていたからそのときまで忘れていた。これがただの痛みではないことは、瞬時に悟った。だんだんと上がらなくなる右足を気にしながら勝利を報告する。自分の持ち場に帰るころには右足がほとんど上がらなくなり、上体の反動を使って無理やり、からだを前に運ぶ。持ち場に着くと倒れるように横になる。患部が脈打っていた。手で押さえると、ギギギと、関節が軋むような感触がした。全身に伝うのが運動の汗なのか痛みの脂汗なのか、考えている余裕もなかった。換気のために開いている扉から入ってくる陽の光が、まぶたの裏をオレンジ色に照らした。暖かかった。不思議と心地よかったのを憶えている。

 その後、一度公式戦には出たものの、そこには絞り滓のような意気しか残っていなかった。だからこれが実質的には、中学・高校の五年間続けてきた卓球部での最後の試合になった。


 大学、大学院と六年目にもなるとさすがに一コマ九十分の講義にも慣れてくる。ときに短く感じることすらある。だから、親指で右足の付け根のあたりをぐりぐり押してしまうのは、もう貧乏揺すりのような癖なのだろう。

 この癖が始まったのは、高二の春。もう八年も前のことになる。

 試合の翌日、学校から帰宅して制服のまま向かった整形外科でレントゲンを撮り、受けた診断は予想外のものだった。

 臼蓋形成不全。生まれつき、大腿骨を包む骨盤の骨が短いのだという。そこにかかる力を支える面積が他人(ルビ・ひと)よりも小さいため股関節に負担がかかりやすく、今回はそれが要因で炎症を起こしたのだろう、ということだった。今回の炎症は右だけだが、左にも同様の症状が見られた。それ自体が悪性というものではなく今すぐ手術が必要ということもないが、放っておくと将来的に変形性股関節症に移行して歩行が困難となるので、日頃から股関節のストレッチと筋トレをしてください。

 スポーツは大丈夫なんですか? 黙っていることに耐えられず咄嗟に発した質問に先生は、激しい運動でなければ気にすることはないでしょう、部活も、週二程度なら平気です、でもクールダウンはしっかりとしてください、じゃあ今日のところは痛みを鎮める湿布を出しておきますね、とカルテにささっとボールペンを走らせた。

 顧問の先生に事情を説明して、部活は休んだ。三週間は体育の授業も見学していた。その復帰、最初の授業がマット運動のテスト。小学生のころに体操を習っていたおかげで、いつもならなんでもない側転、大きく開脚することにからだがおびえたのか、縦回転が不完全になり、着地の際にマットの端、足を着いて捻ってしまう。人生初の捻挫。大きな怪我をしたことがないのが、密かな自慢だった。また二週間、満足に歩けなくなった。

 その影響と股関節の不安で、四泊五日の夏合宿は欠席した。その後の夏の大会には出場したものの不完全燃焼で終わり、まもなく、フェードアウトするように退部した。怪我の影響で満足に練習ができなくなりそうだし、受験に本腰入れるのにもちょうどいいし。周りにはこう説明した。嘘ではなかったが、本心でもなかった。

 ここの卓球部は決して強くはなく、練習も週三程度の、自称・進学校の中高一貫男子校としてはまあ普通の運動部だった。もちろん、毎日のように自主練をして、都大会に出場するくらいのひともいたが、私は部活に学生生活を捧げようとは思っていなかった。とはいえ四年以上も続けてきたのだから、なんだかんだ引退まで在籍しているんだろうな、と思っていた。

 だから診断を受けたときに本当にショックだったのは、放っておくとやがて歩行に困難を来す股関節よりも、部活を辞めることにそれほどの決意を必要としなかったことだったのかもしれない。多少のスポーツなら問題ない、と先生から言われたとき、部活を続けられることへの安心や喜びが胸に湧いてこなかった。部活に、自分は真剣ではなかった。それがわかってしまったとき、もう辞める方に気持ちは傾き始めていたのだろう。


 小中高と、たぶん自分は優秀側の人間だったと思う。学校の勉強で苦労したことはないし、運動も得意で走るのも速く、学級委員とかリーダーとか、そういう役職に就いても特に文句が出てくることもなかった。先生にだって——授業中に動いた生徒を指して「お前は多動症か」とケラケラ笑う英語教師と喧嘩をし、以後、授業で一切当てられなくなる。こちらもこちらでむかつくから授業はすべて堂々と内職し、テストでは九十点以上を取ってやった、という例外はあるものの——おおむね気に入られていたと思う。でもそうではなくなった。大学を出て就職。ひとが想定する人生設計を、私は早々に断念した。

 自分を特別な人間だと思っていたのだろうか。そんなことはないと思うのだが、しかし完全に否定することはできない。驕っていたつもりはないけれど、心のどこかで、自分は平凡ではない、できる人間だ、そう思っていたのかもしれない。けれど、実際にはどうだろう。学校の、それも大して厳しくもない部活動すらやりおおせなかった現実は、ある意味ではその答えなのだろうか。それまでずっと運動には自信があったけれど、大学に入ってからはぱったり辞めてしまった。卓球はおろか、なにか新しいスポーツを始めようとも思わなかった。股関節を理由にしていたが、それが後付けの言い訳でしかないことを、自分でもよくわかっていた。

 ある日、大手町の書店に用事があり、講義の帰りに寄り道した。その書店は駅の近く、大きなビルの一階に入っていて、昼下がりだったこともあってか、首に社員証をぶら下げ、手にはタンブラーを持ったスーツのひとびとが談笑しながら、ロビーを闊歩していた。それを見て、おそらく自分は、オフィス街を慣れた顔して歩くような人生とは無縁で終わるのだろうと、なんの抵抗なく思ったとき、「成功ルート」からはすっかり外れたことを改めて強く感じた。


 そんな風に感じながら、実のところ、それほど人生を悲観してはいない。なんだかんだ元気に生きられているのは、いや、あの診断を受けたときを始点とすれば最も活き活きと生きられているのは、たぶんあのひとのお陰だ。

 二年前、一度会っただけで名前もわからない。八重洲ブックセンターの下りのエレベーターで三十秒だけいっしょの空間を共有した、あのひと。もしあれを一目惚れだと言うのなら、たぶんそうなのだろう。ベージュのキャスケット帽のつばからのぞく上目遣い、白のワンピースに羽織るマリンブルーのカーディガン、ひざの前で両手を揃えて持つ、薄桃色の少し大きめのハンドバッグ。早口に「ありがとうございます」とはにかみ、「開」のボタンを押して先を譲った私に会釈して、歩幅の小さい早歩きで脇を過ぎていったときに揺れた、少し先がカールしていたセミロングの髪。店の外に出て一瞬立ち止まり、帽子を右手で押さえて真夏の空を見上げたときの、アンニュイな横顔。

 そのとき、私は大学を卒業して、身分としてはフリーターか浪人生。二ヶ月後に大学院受験を控えていた。つい半年前には、内定がない、働けない、と顔を合わせる度に口にしていた同期たちもおおむね社会人としてやっているなか、世間的にはまったく評価されない場所、就活エージェントには「就職市場的にはマイナスにしかならない」とまで言われた文系大学院、そこにまで落っこってしまったら、いよいよどうすればよいのか。明確な答えのない大学院入試の対策に悩まされていたことも相まって、漠然とした不安を抱えていた日々だった。

 子どもに教育勅語を暗唱させる幼稚園を運営していた理事長夫婦がなにやら逮捕されたようで世間は盛り上がっていたが、そんなことはほどほどに、私は気分転換に、有楽町で毎年開催される「夏の文学教室」の講演を観にいくことにし、その前に、前々から気になっていた八重洲ブックセンターに寄り道した。そうだった。大学時代の私は、電車で三十分程度の場所に足をのばすことすら億劫だった。

 一階から、五階の文学のフロアまで順に棚を眺め、時間が迫ってきたのでエレベーターで降りた。そのエレベーターにいっしょに乗り込んだのが、そのひとだった。

 電車で一駅乗って有楽町駅で降り、イベントホールに入って席についてからも、頭に浮かぶのはそのひとのことだった。たぶん、年齢は自分とそう変わらない。同じフロアからエレベーターに乗ったから、きっと小説の棚をのぞいていたはず。もしかしたら自分と同じ考えで八重洲ブックセンターに来ていて、いま、この会場のどこかにいるんじゃないか。お手洗いへの往復、天井の明かりや壁を見るふりをしながら周りを見渡した。そんな都合のいいことがあるわけない。いないとわかっていながら、あの俤を探した。

 講演の帰りの電車、夕食、風呂、英語の勉強、ベッドに入るまで、考えてしまうのはあのとき、あのひとの背中に声をかけた、もうひとつの世界だった。世間ではそれをナンパというのかもしれない。いや、実際そうなのだろうが、そのとき私がしようとしていたのはたぶん、デートのお誘いではなかった。

 あのときからいまこのときまで、そのひとに対して思うのは、同じ時間を生きててくれてありがとう、という想いだ。当然だが向こうにはそんなつもりもなく、もしこんなことをいきなり言われたら大層気味が悪いだろうから、声をかけなくてよかったに違いない。けれども、この想いに誇張はない。これから、いろいろ辛いことが、大変なことがあるだろう。僕はこの世界に、概ね失望している。先行きも不明瞭。ちゃんと生きていけるのだろうか。それでも、いまこの瞬間、どこかであのひとが生きているのならば、希望は零ではない。あのひとの存在を頼りに、僕はまだ生きていける。院試に落ちようがなんだ。この世界のどこかに彼女がいるならばその程度のこと、命を奪うほどのことでもない。そして、あのひとの前に立って恥ずかしくない自分になりたい。新たな生きる意味が生まれた瞬間だった。

 このときの出来事を話すと、「でもそういう子にはちゃんと彼氏がいるんだよね〜」と薄ら笑いで茶々を入れてくる輩がいるだろう。たしかにそうかもしれない。成人式で再会した小学校のときの同級生によると、同期のなかにはもう離婚まで経験しているひともいる。打ち上げの飲み会で出てくるのは恋愛話ばかり。AやらBやら。そんなもん、成績表でしか見たことないわ、と突っ込んだら、白い眼か憐れみの視線を向けられることだろう。

 知りたくもないが、知っている。どうせみんな、どこかしらで恋愛をしているのだ。だからなんだ。彼女が僕の人生を支えてくれていることとそれとに、いったいなんの関係があるというのか。そんなことを言おうにも、そのような輩の手にかかれば私のこのような言葉は恋愛弱者の負け惜しみに転化するのはわかり切っているから、なにも言わない。べつにこのひとたちにわかって欲しいわけでもないのだから。


 だから長らく私はこの想いを静かに抱えていた。それがある日、それは中途半端な時間の午睡のせいか眠れない夜のことだ、とんでもない可能性に気づいてしまった。

 そう、あの女性は、私がなって仕方がない声優、朝村知恵であるという可能性に。

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