松長良樹


 男が眼を開けるとそこは深海のように暗い世界だった。辺りを墓地のような静寂が支配していて、生ぬるい風が何処からともなく吹いていた。

 

 まして最悪な事に男は記憶というものを失くしていた。状況を把握しかねるもどかしさが男の全身に圧し掛かっていた。再び目を閉じてみると、自分が意識だけになったような気がして尚更不安にかられる。自分の顔さえ記憶にないのだ。


「助けてくれーーーーーーーーーーっ!」


 いきなり声がした。その声ときたら耳で聞くというより、男の腹の中に直に響いてきた。もの凄く強烈な、心が剥き出しになったような声だった。


 男はその声の方向に夢遊病者のように引き寄せられた。真っ黒な地面に穴があって、その穴の中からその声は聞こえてきた。中を覗き込むと光の届かないほど穴は深かった。ちょうどマンホールのような穴だ。


「頼む、誰か助けてくれー! どうか助けてくれー、後生だ」


 穴の奥からの声は男の鼓膜を嫌というほど振動させた。


「頼む、この穴から俺を出してくれ! どうかお願いだ!」


 男は訳がわからなかった。今の自分のことさえよくわからないのに、助けてくれと言われても混乱する一方だ。


 男はひざまずいてその穴を覗き込んだが、暗くて何も見えなかった。やがて声がやんだので男はふらりと立ち上がった。


 そして少し歩くと壁に突き当たった。ひんやりとして湿り気のある壁だった。その壁に手をついて男は壁伝いに歩き出した。ゆっくりと確かめるようにだ。


 しかし何処まで歩いても壁だった。コンクリートみたいな固く冷たい壁……。

 

 男はやがて疲れてその場にへなへなとしゃがみこんでしまった。一瞬、鏡を見れば自分を思い出せる気がしたが鏡などどこにも見当たらない。


 しばらく考えあぐねていると、微かな記憶が脳裏を掠めた。暗い空間を何処までも飛んでいる記憶だ。周りには星々が煌いている。


 ―そうか、そうだ。自分は宇宙飛行士だったのだ― 


 記憶が男の中で蘇った。


 ―そうだ自分は何年も前に恒星間飛行に旅立ったんだ。そしてついにこの星に着陸した。しかしあれはいつの事だったのだろう― 


 だが記憶の断片が微妙に繋がらなかった……。


 男は再び溜め息をついて立ち上がった。


 ―そうだ、そうなんだ。私は宇宙飛行士なんだ。ならば、この星を探索しなければならない。ロケットの着地点を確かめなければならない―


 男は気を引き締めるように唇を噛んだ。


 しかし妙な事に男は宇宙服を着ていなかった。いつ脱いだのが、或いは脱がされたのかも思い出せない。着ているのは薄汚れたTシャツ。


 突然男は頭を殴られたような感覚に襲われた。


 ―なにを馬鹿な事を考えてんだ。ばかばかしい、俺はただの派遣だよ。いきなり仕事切られて、昨日飲み過ぎて、ベンチで寝てしまったんじゃないか―


 ―あっ、違う、違う! 俺はコメディアンだ。これから舞台に上がろうとしていたんじゃないか。何を考えてんだ― 整理がつかない。


 男は途方にくれた。辻褄の合わない記憶、記憶。無数の記憶……。


 なのになんでこんな所に居る!!


 男は壁を蹴った。足に痛みが走った。夢ではないらしい。


 男は何とか冷静になろうとした。周囲を慎重に見回し、ふと空を見上げると、空に穴があった。ぽっかりと空に穴が開いていたのだ。


「助けてくれーっ、助けてくれーーーーーーーーーーっ!」


 その時、例の穴から絶叫がした。男はひざまずいてその穴を覗き込んだが、やはり何も見えない。


「助けてくれーっ、俺を助けてくれれば、あんたのを教えよう!」


 男は居ても立ってもいられなくなった。そしてしゃがみこんで穴に手を差し伸べた。


「誰なんだ。どこだ? どこにいる! 手を出せ、今、助けてやるぞ!」


 それと同時のタイミングで空の穴から大きな腕が、ぐいっ、と伸びてきた……。





                   了


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松長良樹 @yoshiki2020

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