第十章 夜叉姫

  第十章 夜叉姫やしゃひめ


 光輝こうきには翡翠邸ひすいてい比丘尼びくに様を呼び出すと言って出て来たが、実際のところ、格下の私が比丘尼びくに様を呼び出すなんて罰当たりなことができず、私が尼寺に足を運ぶことにした。

 突然の私の来訪に比丘尼びくに様は驚いていた。


 「小子しょうこ、よく来てくれたわね。」

 比丘尼びくに様が迎え入れてくれた。

 「今日はお話があって参りました。」

 「何かしら?」

 尼寺の庭に面した一室で向かい合って座った。

 「陰陽師おんみょうじの仕事を辞めることにしました。」

 すぐにそう切り出した。早い方がいい。

 「どうしたの?随分と急ね。何かあったの?」

 比丘尼びくに様はノーマンとの一件を聞いていないようだった。もしかしたらノーマンは黙っていてくれたのかもしれない。

 「結婚が決まったので京都を離れます。元々ここは私の故郷ではありませんし。」

 比丘尼びくに様にはそう伝えた。

 「あら、やっぱりいい人がいたのね。」

 比丘尼びくに様は少女のような無邪気な笑顔で喜んだ。


 もし本当のことを言ったら比丘尼様は何と言うだろうか。妖狐ようこの妻となり、幽世かくりよに移り住むと言ったら、反対するだろうか。妖狐ようこに騙されているだけで、弄ばれて殺される運命が待っていると警告するのだろうか。もしそうなったとしても構わない、光輝こうきを信じていると私が言ったら、馬鹿だと言って叱るだろうか。頭の中で何度も考えたが口に出すことはできなかった。


 「どんな人なの?」

 「優しい人です。故郷で私と一緒に暮らしたがっているんです。」

 「そう。」

 比丘尼びくに様は目を細めて深く頷いた。

 本当は誰かに相談したかった。幽世かくりよがどんな所かも知らない。頼れる人が誰もいない土地で暮らすのがどういうことか、知りたかった。光輝こうき以外の誰かから助言が欲しかった。でも言えなかった。


 「お仕事は?」

 「民俗学者です。」

 「まあ、小子しょうこと話が合いそうね。小子しょうこ陰陽師おんみょうじだから。」

 「はい。」

 「陰陽師おんみょうじを続けてもいいんじゃない?民俗学者なんでしょ?理解してくれるわよ。」

 比丘尼びくに様は引き留めてくれた。形だけでも嬉しかった。

 「いいえ。別の仕事を探そうと思います。」

 「そう。」

 比丘尼びくに様は目を閉じて深く頷いた。

 「ではこの尼寺にある小子しょうこの部屋を空けてくれるかしら?」

 「はい。大したものはありませんので、今日中に終わると思います。」


 私は長年過ごして来た自分の部屋に行った。

 高校生の頃からここに住んでいた。四畳半しかない物置のような狭い部屋だが、不便だとは思わなかった。仕事柄出張が多くて、ここへはほとんど戻って来なかったし、私物と言えるものもなかった。趣味もなく、音楽も聞かなければ、本も読まず、絵も描かなかった。何もない部屋だった。この部屋に戻って来るよりも、どこか分からない幽世かくりよの方がきっと幸せになれるはず。自分にそう言い聞かせた。


 ちょうど日が暮れた頃に片付けが終わった。片付けと言っても持ち帰るものはほとんどなく、調度品の手入れと掃除をして終わった。

 「比丘尼びくに様、終わりましたので、これで失礼致します。」

 比丘尼びくに様がいるはずの部屋を訪ねたが、姿はなかった。不思議なことに廊下にも人の気配がなかった。こんなに静かな寺だっただろうか。

 比丘尼びくに様や他の尼や陰陽師おんみょうじを探して、長い廊下を歩いた。突き当りまで歩いたところで、焦げ臭いに気が付いた。そしてもう一つある気配に気が付いた。鬼の気配だ。


 背筋が凍った。

 私の気配に鬼も気が付いただろうか。そんなことを頭の中で考えていると、背後に殺気を感じた。息ができなかった。

 「妙な匂いだが、やはり人間だな。」

 知らない女の声がした。鬼だ。鬼女だ。おそらくこれが夜叉姫やしゃひめ

 「・・・・」

 「きつねのお手付きかえ?」

 着物の裾を引きずる衣擦れの音が聞こえた。夜叉姫やしゃひめが私の目の前に回り込んで来た。身動きが取れなった。

 「・・・・」

 「お前を殺しては面倒だ。私の気が変わらない内に早く出てお行き。」

 夜叉姫やしゃひめは言った。白い肌に真っ赤な唇。ゾッとするほど美しかった。

 「や、夜叉姫やしゃひめ・・・?」

 「そうさ。探し物をしていてな。今尼たちに手伝わせている。お前は見逃してやるから早くお行き。」

 夜叉姫やしゃひめは色っぽい口調でそう言った。逃げる?逃げて、翡翠邸ひすいていへ行く?それじゃ間に合わない。比丘尼びくに様たちは殺されてしまう。そんなことはできない。それなら刃向かって、死ぬしかない。それでもいいの?それでも・・・


 私はかばんの中にある破魔小刀はましょうとうを手に取った。

 「・・・お前は馬鹿だな。」

 夜叉姫やしゃひめが虫けらを見るような目で言った。

 せめて一太刀でも。そう思って破魔小刀はましょうとうを握りしめて突っ込んで行った。

 次の瞬間には宙に放り出されていた。中廊下にいたはずだった。ふすま障子しょうじを破り、二階の窓ガラスを割って、外に投げ出されていた。痛い、暗い。宙を落下し、体が地面に叩きつけられた時には虫の息だった。

 意識が朦朧もうろうとして、もう耳は聞こえず、視界も真っ暗だった。もう死ぬ。光輝こうきに会いたい。やはり最後には光輝こうきのことを思った。

 夜叉姫やしゃひめは止めを刺しには来なかった。もう死んでいると思ったに違いない。静かに死ねるのはせめてもの救いだった。いたぶられて死ぬのは嫌だった。


 『封印ふういんを解いて。私の封印ふういんを解いて。』


 聞こえないはずの耳に声が聞こえた。いや、頭の中で声がした。悲鳴のような助けを求める声だった。また誰か夜叉姫やしゃひめにやられたのだろうか。助けに行きたいが、もう動けない。

 『私の封印ふういんを解いて。』

 声の主はすぐ側にいるようだった。

 「封印ふういん?」

 夜叉姫やしゃひめに何をされたのだろう。私の手はまだ動くだろうか。少し動く。地面にわせると手に固いものが触れた。

 『封印ふういんを解いて!』

 頭に大きな声が響いた。

 手に触れたものがかばんの中に入っていたはずの骨壺こつつぼだと気づいた。何故声がするのだろう?封印ふういんを解く?どうやって?壊せばいいの?陶器でできている。投げれば割れる?投げられるか?ダメだ。手が上がらない。念力で割れたらいいのに。固い陶器を指先に感じながら、何もできずに眠りについた。

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