第九章 ノーマン

  第九章 ノーマン


 「雨降って地固まるとはこのことですね。」

 外が白やんだ頃、柑子こうじが庭にやって来た。

 「そうだな。」

 眠っている小子しょうこを撫でながら答えた。

 「それにしても、よく刺し殺されずに済みましたね。奥方様も陰陽師おんみょうじの端くれ。出世に目がくらんで、銀狐ぎんこ様を手にかけるのではと冷や冷やいたしました。」

 柑子こうじが言った。

 「小子しょうこには出世させてやれぬが、腹の子狐こぎつねは大出世するかもな。」

 そう言って小子しょうこの腹をさすった。

 「今何と!?」

 柑子こうじが驚いて言った。

 「種付けはできた。小子しょうこの体には子狐こぎつねが宿っている。」

 嬉しさを噛み締めながら言った。

 「あな、めでたや!トシ子に赤飯を炊かせねば!」

 柑子こうじは浮かれて庭を駆け回った。

 「腹の子は妖狐ようこと人間の血を引く。まるで安倍晴明あべのせいめいの再来だな。なあ、我が子狐こぎつねよ。」

 まだ見ぬ我が子にそう話しかけた。


 朝から小子しょうこは赤飯を出されても何も気づかなかった。まだ子狐こぎつねの気配を感じていないらしい。だが、トシ子が妙にニコニコして上機嫌なのを不思議に思っているようだ。


 「トシ子、竹の子を掘って来たんだが、ここで良いか?」

 柑子こうじの声が食堂に響いた。嫌な予感がした。

 「銀狐ぎんこ様、奥方様おはようございます。小倉山おぐらやまで竹の子が掘れたので、今日は竹の子ずくしですぞ。」

 そう言いながら柑子こうじが食堂にやって来た。予感は的中した。

 「どういうこと?」

 小子しょうこが目をつりあげて言った。

 「銀狐ぎんこ様、まだ話していらっしゃらなかったのですか?ではこの柑子こうじ、奥方様に改めてご挨拶を。我が名は柑子こうじ銀狐ぎんこ様の眷属けんぞくにして、小倉山おぐらやまの守護者。子狐こぎつねとして生を受けて以来この山に住んでおります。トシ子とは長い付き合いで、トシ子が亭主に先立たれてからはあれこれ世話を焼いてやっております。のう?トシ子?」

 「はい。柑子こうじ様。」

 トシ子が深くうなずいた。

 「最初から騙していたのね。しかも皆グルで。トシ子さんまで。狐は悪巧みが上手ですこと。」

 小子がますます目をつりあげて怒った。

 「今日はこちらの件とは別の仕事がありますので、失礼します。トシ子さん、ご馳走様でした。」

 朝餉あさげを平らげると小子しょうこは席を立った。

 「待て。別の仕事って?俺も一緒に・・・」

 「ついて来ないで。そいうのをストーカーって現世うつしよでは言うの。」

 小子しょうこは言いたい放題言って食堂を出て行った。

 「あれはいけませんね。銀狐ぎんこ様はストーカーではありません。ソクバッキーという奴です。」

 「何だそれは?」

 「妻を束縛する男のことです。」

 柑子こうじが言った。朝からムカつくことばかりだった。

 何だかんだ言われたが、小子しょうこの後をつけた。身重なのだから、夫がついてやるのが当然だ。

 小子しょうこ翡翠邸ひすいていおもむくと思いきや電車を乗り継いて伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃへ行った。一人で新緑しんりょくの木々を眺めているかと思えば、一人の男が小子しょうこに近づいて来た。顔見知りのようで、小子しょうこは挨拶をした。だが、その男、妙な気配がした。普通の人間ではない。そう気づいた瞬間飛び出していた。

 「小子しょうこ、その男から離れろ!」

 小子しょうこが振り返るよりも早く、男の方が反応した。不意ふいいた俺の一撃いちげきすんでのところでかわした。

 「小子しょうこ、無事か?」

 そう尋ねながら、小子しょうこの腕をつかんだ。

 「無事だけど・・・」

 小子しょうこの目には嫉妬に狂った夫にしかみえなかったようだ。困った表情を浮かべていた。お互いの正体を感じ取っているのは俺とこの男だけだったようだ。

 「浅井あさいさん、その人は?」

 男が鋭い視線を向けて小子しょうこに尋ねた。

 「夫です。」

 こんな時だが夫だと誰かに紹介されて心が躍った。

 「人間ではないと知っていますか?」

 「知っています。」

 小子しょうこはばつが悪そうに答えた。

 「人間ではないのはお前も同じだろう?」

 俺がそう言い返すと、男はさらに鋭い視線を向けて来た。

 「人間ではない?」

 小子しょうこが俺に尋ねた。

 「ああ、その男は人間ではない。山犬やまいぬ化身けしんだ。そうだろう?」

 男に視線を送った。

 「答える筋合いはない。」

 男は答えた。

 「浅井あさいさん、僕の役目はあなたを指導しつつ、そのきつねから守ることでした。その必要がないようでしたら、コンビ解消ですね。」

 男はそう言うと俺たちの前から姿を消した後から小子しょうこ陰陽師おんみょうじの新しい相棒だったのだと教えてくれた。そしてもう陰陽師おんみょうじとしての居場所がないと肩を落として呟いた。


 その夜も小子しょうこの部屋に行った。まだ子狐こぎつねが宿っていることを知らない小子しょうこはいつものように求めて来た。いや、昼間のこともあって、より強く求めて来た。腹の子にさわりがないように優しい愛撫を繰り返し、小子しょうこの求めに応じた。

 「もっと。」

 甘い息を吐きながら小子が言った。

 「光輝こうき、もっと。じらさないで。」

 緩慢かんまんな動きでは満足できなかったようだ。足を広げ、腰を強く押し付けて催促して来た。

 「小子しょうこ、もう十分だろう。」

 「ダメ。もっと。」

 そう言うと、小子しょうこは起き上がり、俺を押しのけたかと思えば、今度は俺を押し倒して、跨った。小子しょうこは浴衣に袖を通したままで、前身頃の間から桃色の乳房ちぶさが覗いた。腰を激しく振る度に二つの乳房ちぶさが果実のように揺れた。その光景を見て興奮せずにはいられなかった。小子も官能に火がついたようで、全身を火照ほてらせ、夢中になって動いた。そして時々天を仰いで、法悦ほうえつの声を上げた。胸を突き出してるその姿がそそった。気が付けば俺は上半身を起こし、小子しょうこの背中を支えて自分も激しく動いていた。小子しょうこは俺の腕に体を預け、一層激しく大きく腰を動かし、艶めかしく手足を絡めて来た。調子が合って深く刺さる度に小子しょうこは叫んだ。何度絶頂に達しても朝が来るまで離れなかった。


 「人間でなくともこれでは死んでしまうぞ、小子しょうこ。」

 満足げにスヤスヤ寝ている小子しょうこを撫でながら呟いた。腹の子は無事だった。同じくスヤスヤ寝ているようだ。

 事が終わったのを見計らって、いつものように、柑子こうじが庭にやって来た。


 「銀狐ぎんこ様、奥方様の寝屋での声は少しばかり大きすぎやしませんか?さすがに昨晩のはご近所にも聞こえたと思いますよ。」

 柑子ぎんこはまったく嫌なことを言う。

 「分かっている。そろそろ幽世かくりよ小子しょうこを連れていく。」

 「お帰りになられるので?」

 柑子こうじが少し寂しそうに言った。

 「小子しょうこにとってもその方がいいだろう。」

 「そうですか。銀狐ぎんこ様のお子の顔が見られなくて残念です。」

 柑子こうじはしょんぼりと尻尾を垂らした。

 世話になった柑子こうじとトシ子には薄情なのかもしれないが、小子しょうこと添うためには幽世かくりよで二人きりで暮らすのが一番だった。何も気にせず、何者にも邪魔されない二人だけの時を過ごしたかった。


 朝日が昇り切った頃に小子しょうこは目を覚ますと、はだけた浴衣を直すこともせず、ぼうっと庭を眺めた。乱れた髪が朝風になびき、その姿が妙に色っぽかった。

 「小子しょうこ幽世かくりよに行こう。」

 そういうと、小子しょうこがこちらを見た。

 「俺とお前、二人で暮らせたらそれで十分だろう?」

 「うん。」

 小子しょうこは小さく頷いた。現世うつしよを捨てることを決意させた。小子しょうこの肩を抱いて、もう片方の手で小子しょうこの腹に手を当てた。腹の子狐こぎつねはまだ寝ていた。

 「今日、陰陽師おんみょうじを辞めるって言って来る。」

 小子しょうこはそう言った。本意ではないことは分かっていた。

 「律儀だな。黙って消えても良いものを。」

 人間のしがらみにすがっているように見えた。現世うつしよへの未練が透けて見えて今すぐ無理やりに引きちぎってやりたくなった。

 「小子しょうこ、早く帰って来るんだぞ。」

 そう言って小子しょうこの肩を強く抱いた。


 だが小子しょうこはその日、旅館を出て行ったきり帰って来なかった。日も暮れ、トシ子に電話をさせたが、翡翠邸ひすいていの返事は『知らない、来ていない』の一点張りだった。

 「小子しょうこさんが身を寄せていた尼寺の方にも何度も電話をかけたのですが、そちらは繋がらなくて。何もなければいいのですが。」

 トシ子が言った。

 「何もなければもうここへ帰っているはずだ。」

 苛立いらだって声を荒げて言った。

 「この柑子こうじ翡翠邸ひすいていに乗り込み、奥方様を探して参りましょう。」

 柑子こうじが真剣な顔をして言った。

 「柑子こうじ、お前では結界すら超えられん。俺が行く。俺の妻だ。」

 俺がそう言うと、柑子こうじが止めようと口を開きかけたが、途中で止めた。言いたかったことは分かっている。俺から逃げるために小子しょうこ自らの意志で翡翠邸ひすいていに逃げ込んだのだとしたら、そこへ俺が飛び込んでむざむざ陰陽師おんみょうじに退治されるのは阿保らしい。人間の女に懸想けそうして命を落とすなどよわい五百年を超える銀狐ぎんこにあるまじき行為。分かっている。だか、小子しょうこが逃げ出したとは思えなかった。確かに幽世かくりよへ行くことに迷いがあったが、俺に惚れているのは間違いなかった。俺を裏切る訳がない。

 「柑子こうじ、もし俺のいない間に小子しょうこが戻って来たら鳴いて知らせろ。」

 「・・・はい。」

 柑子こうじは素直に従った。柑子こうじは本当に賢いきつねだった。止めても俺が聞かないことは分かっていた。俺は翡翠邸ひすいていに向かった。


 翡翠邸ひすいていの結界は幾重にも厳重に張られてはいたが、とくを積み銀狐ぎんことなった俺にはないにも等しかった。難なく中に入れたが、得体の知れないあやかしが入ったとすぐに感づかれて、中の陰陽師おんみょうじたちが騒ぎ出した。最初に雑魚の陰陽師おんみょうじが俺を取り囲んだが、一瞬でなぎ倒してやった。追手をいて中庭に出たが、そこで次に立ちはだかって来た男は少し厄介だった。


 「またお会いしましたね。」

 伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃで会った男だった。

 「小子しょうこを連れ帰りに来た。小子しょうこはどこだ?」

 果たしてこの男には話が通じるだろうか?

 「浅井あさいさんなら来ていませんよ。」

 ダメなようだ。

 「それならば、勝手に探させてもらうまで。」

 俺がそう言うと、男は戦う構えをした。

 「来ていないと言ったでしょう?きつねは賢いと思っていましたが、そうでもないようですね。」

 皮肉っぽくそう言って男は大きな黒い犬の姿に変化した。

 「犬神いぬがみだったか。ただの山犬やまいぬではなかったのだな。人型では俺に勝てないと踏んで変化するとはなかなか賢い犬ではないか。」


 犬神いぬ餓死寸前がしすんぜんの犬の首をねるというむご呪法じゅほうで生み出された怨念おんねん化身けしんとも言えるべき存在だった。

 黒い犬は獰猛どうもうそうな顔をして、口からよだれを垂らしながらうなった。きつねを喰ってやろうと意気込んでいるのが分かった。黒い犬はこちらの動きを伺いながら円を描くようにじりじりと距離を詰めて来た。勢いに任せないあたりが、隙のないこの男らしかった。

 その時だった。パーンと音を立てて、夜空に火柱が上がった。俺も犬も火柱の方を見上げた。


 「二人共、争っている場合ではないぞ。」

 庭に甲高い子供の声が響いた。

 「貴人たかと様・・・。」

 子供に向かってそうつぶやくと、黒い犬は見る見るうちに人間の姿に変化した。

 「銀狐ぎんこ、今はここで争っている場合ではない。知らせが入った。尼寺が夜叉姫やしゃひめに襲われた。以前小子しょうこが身を寄せていた尼寺だ。おそらく、小子しょうこはそこにいる。」

 子供がそう言った。一瞬頭の中が真っ白になった。

 「あの火柱のところだ。」

 子供が方角を指した。

 俺は一目散に火柱の上がる尼寺に飛んで向かった。

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