第8話 ある男の独白 ―贖罪―
いくつものパラメータを試行する日々が続いていた。パズルのピースは最後の一片を除き、全て空で思い描くことができる。日常生活の全ての時間において思考し続ける。真夜中には成功を確信したアイディアも翌朝には穴が見つかる。歓喜と絶望の繰り返し。いつしか歓喜することは無くなり、絶望だけが残るようになる。
このテーマに着手し、10年の歳月が流れていた。これまでの過程でいくつもの新しい理論を得ていたが、それをまとめる時間すら惜しく、新たな論文は一遍も発表してない。かつては天才と呼ばれた男も、もはや枯れたと囁かれるようになった。しかしそんな声を歯牙にもかけず、男はただラプラスの『魔王』を追い続ける。
周囲から見放され、研究費が底を尽きかけた時。一人の老人が彼のもとを訪れた。ある試料を解析して欲しい、多額の研究費と設備を提供すると。彼が話に乗ると、一軒の洋館が与えられた。最新の分析機器、彼すら自由に出入りすることのできない厳重なセキュリティを備え、大学居た頃よりも充実した環境だった。
翌日には、依頼された試料が届けられた。黒塗りの車で運ばれてきたのは数冊の分厚いファイルと、一人の美しい少女。
老人の依頼は、彼女の能力を解き明かすこと。ファイルには、同じく超常の力を持った者たちの様々なデータ記載されていた。能力の実在を疑った彼は、少女の能力を様々な条件で何度も観察し、ようやくその存在を認めた。
手始めに彼は、ファイルに記載されている多様な能力の分類を試みた。同じ能力を持つ試料は一つとしてない。各人に固有のものであるかのように、多種多様である。
彼はそれを二つの要素に分けて考えるという発想の転換を行った。影響を及ぼす対象と、その対象にどういった変化が起きるのか。その組み合わせとして捉えると能力は大きく九種にカテゴライズされる。対象は三つ――時空・力・物質――に大分され、さらに細かく分岐している。変化も同じく三つ――操作・観測・創世――からより下の階層へと分類できる。彼は対象を<形軸>、変化を《人卦》と名付けた。
ここまでを老人に報告すると、一つ頷き、引き続き研究を続ければ死ぬまで援助すると申し出た。彼に異存は無かった。“神の数式”の片手間に、形軸人卦について研究する日々。男は望み通りの生活を手に入れた。
一つの誤算は、少女の存在。
広い館に二人だけの住人。世話好きな質なのか、彼女は甲斐甲斐しく不摂生な彼の世話を焼く。初めは無視していた男も、次第に心を開いていった。彼の夢に共感し、日々の成果を嬉しそうに聞く少女の存在。彼がこれまでの人生で初めて手にした種類の幸福だった。
これが、悲劇の始まりだったのだろう。二人が没交渉のまま惹かれ合うことが無ければ、平穏なままそれぞれ生きていられたはずだ。あるいは、彼が優秀でなければ良かったのだろう。形軸から神の式を導けるかもしれないという可能性を、思いつきさえしなければ。彼がその考えを、嬉しそうに彼女に語らなければ。
形軸は、世界を構成するものと同じ三要素に分けられる。多くの者は大元の要素から分化した形軸を示すが、もしかしたら未分化な大元の要素そのものを宿した者がいるかもしれない。それら世界構成要素の形軸を、彼は「絶対時空」「始原力」「完全物質」と名付けた。分化していない「始原力」の形軸を持つ者の能力は、四つの力が統一された性質であるはずだ。それを研究すればついに悲願に手が届くのではないか。理論では到達できなかった神の数式であるが、実験対象さえあればそれを観察し定式化することができる。それが本来の物理学である。そう熱く語る男の姿を、彼女は笑顔で見つめていた。その時には既に確信していたのかもしれない。彼が人生の全てを捧げている夢のために、自らの命も捧げることになると。
それは当然の帰着であったのだろう。能力者は目の前にいる。だが、彼女の形軸では彼の求めるものではない。ならば、造るしかなかった。
彼は彼女から胚の提供を受け、増やし。その一つを、戻した。術後、この子は私たちの子どもよ、と彼女ははにかんでいたーーその子は、孵らなかった。
そして彼女は発狂していった。絹のようだった髪は乾き、白く透明だった肌は黄色く濁り、老婆のようになって行く。ある朝、彼女の寝室へ朝食を届けに行くと、壁一面に赤黒い文字が殴り書きされていた。昨晩の食事が載っていた皿の破片。その一つを握りしめ、彼女は息絶えていた。虚ろな瞳には、空を舞う鳥のような輝きは失われてしまった。血を求めて、何度も切りつけたのだろう。手首の傷からは白い骨が覗く。白い壁を埋め尽くす千の呪いに交じり、感謝の言葉と愛の言葉があった。
その日。彼の夢だった研究は、彼女への贖罪となった。
神の式を完成させ、彼女たちの墓前にたむける。それだけが、愛する者たちの命まで捧げた彼にできる償い。そのためであれば、どんなに人として許されない行為でも、必要ならばやらなければならない。
冷凍していた彼女の胚から、何体ものクローンを造る。彼女が形軸を発現した歳まで育て、能力の現れない者や研究に値しない者は処分する。幸福だった日々は、狂気に染まった。
数えきれないほどの罪を重ねた果てに、<物質ー分子>の形軸を持つ一体のクローンが誕生した。
ラプラスの姫君 木山糸見 @kymaitm
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