ブルーバック・レイディ・ブギウギ

上野駿太郎

ブルーバック・レイディ・ブギウギ

 もう三十年も前のことになるのか、とそのノートを見てしみじみと思った。


 何の気なしにはじめた部屋の片付けも、気が付けば一時間弱経過していたし、こういう些細なことで、時間の経過のはやさというものをまざまざと実感させられる。

 

 そのノートはつくえの抽斗ひきだしの奥にそっと、隠すように置かれていた。

 ぼろぼろになったそのノートの表紙には、力強い文字で『ブギウギ』と書かれている。たぶんタイトルだと思う、が、どんな意味合いをもたせてこの『ブギウギ』という言葉を選んだのか、もう思い出せない。なにせ高校三年のとき、三十年も前のことなのだ。

 

 掃除を中断して、デスクチェアーに腰を下ろした。部屋が少しホコリっぽくなっていたが、気にせずノートを開く。湿気でゆがんだ表紙と、日焼けで黄ばんだページが、また三十年という長い年月の経過を感じさせた。


 中には日記のようなものが書き記されていた。


『9月30日

 空が青い。雲ひとつない、まさしく快晴だ。

 猛暑日に脳みそを溶かされて、「ああもう死んでやろうか」なんて思っていた矢先、秋がやってきて、俺の脳みそはことなきをえた。涼しい。肌寒くもない。ちょうどいい、ちょうどよすぎるくらいだ。

 こんな日は、学校にいくこともいくらか楽しく思えるものだ。いつもは鉛のように重い足も、するすると動く。(それでもホームルームには遅刻した)

 ただいくら天気がよくて、心地いい気温でも、授業というものはつまらない。おもしろい授業もあるが、たいていはつまらない。カッコウもよろこんで鳴くくらいには』

 

 ここまで読んで、ぼくはなんだか無性に恥ずかしくなった。

 

 内容の無さだとか、文の拙さだとか、いわゆる文芸的な技巧の乏しさがぼくを恥ずかしくさせているわけではない。なんというか、『過去の自分』をありありと想起させてしまうところが、どうしようもなく、恥ずかしい。

 

 時刻は十三時を過ぎている。いつもなら昼食をとる時間だ。ただ、いまはこの日記を読み進めることに集中したかった。妻子もいない、独り身のぼくにとって昼食を抜くことなど容易い。臨機応変に生きることが可能、それが独身男性のプライドを守ることのできる唯一の『言い訳』だった。

 

 そんな張りぼての矜持きょうじはそよ風にでも吹かれれば、いずこへとも飛ばされてしまいそうなほど、脆弱なつくりなのだが。


 『ちょうどのいい、きもちのいい日の下に生きていると、心なしか気持ちが大きくなる。横柄になるわけではない、自分自身の『価値』みたいなものが底上げされたような気分になるのだ。

 右胸のポケットに入っているしわくちゃのタバコを廊下で吸いたくなった。教師に注意されても、逆に説教してやる、くらいの威勢がおれにはある。半グレでもチンピラでもなければ優等生でもない人畜無害な石ころ生徒のおれも、こんな日ばかりは、自由を謳歌させていただきたい。(結局ビビッてトイレで一本、マールボロのメンソールを吸った。久しぶりに吸ったもんだからムセて全然うまくなかったし、こういうのもおれが人畜無害な石ころたるゆえんなのかもしれない)

 けむりの匂いがワイシャツについて離れなかったが、ことさらそんなこを注意する教師もいなかった。次の授業は『日本史』。おれがいちばん嫌いな授業が、この『日本史』だ。おれが生きているのはイマココなのに、過去へ目を向けるなんてばかげてる。ほんとうに、つまらない。』

 

 三十年前のぼくは、どうしようもないばかだったようだ。

 月並みな表現で申し訳ないが、歴史というものは繰り返す性質を持っている。姿かたちは変えつつも、その『本質』は、まったくといっていいほど変わらず、揺るがない。

 歴史を知るということは、自分の未来を見つめることと同じなのだ。

 と、いつの日か大学の教授が言っていた言葉を思い出した。


 デスクチェアーが自分の汗ですこし湿気しけっている。なにか自分の中の熱い塊が込み上げてくる感覚があった。窓から差し込んでくる陽の光も、淡い青緑色からくっきりとした茜色へと変わっていた。ノートは変わらず、汚い黄色のままだ。


 『日本史の授業は、いつもと異なる教室で行われる。これもまた、めんどくさい。授業開始まであと四分。急がなければ。なんて思いながらも、足取りはゆっくりで、おれの動作には、はまさしく公演最終日の舞台俳優みたいな柔らかさがあった(この歩き方のせいでおれはホームルームに遅刻した)。石ころ学生とは思えぬオーラの持ちようで闊歩かっぽする。これもすべて、気温、天気のせいだ。

 日本史の行われる教室に向かう廊下の途中で、オカムラとすれ違った。オカムラナツキ。強気な女、そんな印象のヤツ。同じクラスだ。

 「ア、佐々木じゃン」とオカムラは言った。

 ウォークマンで曲を聴きながら紙パックのマミーをオカムラは飲んでいる。おおよそ授業に向かうような雰囲気のないオカムラとおれは会話した。その内容はこうだ(家に帰ってからコレを書いているのでデティールまでは再現できないが)。

 オカムラ(以下オ)「ひまならさ、屋上、いこうよ」

 佐々木(以下佐)「いまから授業だよ」

 オ「きみ、授業間に合う気ないだろってくらいノロいじゃン」

 佐「たしかにまったく間に合う気はないな。なんなら逃げたいくらい」

 オ「じゃあ逃げよう」

 佐「…おこられてしまうよ」

 オ「タバコのにおいするし、もう遅くない?」

 時計の短針は、もう授業開始の時刻を置いてけぼりにしていた。

 佐「屋上、いく」

 こうしておれらは授業をサボることにした。教師にはちあわせでもしたら即アウトだ。慎重に階段を上る。小さいころ見た『ニキータ』を思い出した。あいにくおれは男だし、アレもついているので、アンヌ・パリローのようには振舞えない。死刑宣告もされていないし。でも、あの映画は微妙だ。中古ビデオショップで『マイ・フェア・レディ』を借りたほうがずっと有意義だとおもう(ジャンルは違えど…)。

 屋上前の踊り場についた。教師はおらず、ここまで来るのは結構ちょろいもんだった。ただ、お目当ての屋上につながる扉はこれでもかと施錠されていた。十一時くらいだろうか。踊り場に差し込む光がとんでもなく強力で、すこしおののいたが、オカムラは臆せず日を浴びてこう言ったのだ。

 「屋上、いけそうにないね。つまんないの。別のところにいこうよ」

 なんてしたたかなんだろう。おれは心臓が張り裂けそうなくらい緊張してるというのに!(隠密行動に緊張していたのもあるが、女子と一緒に授業をサボるって状況もさらにおれを緊張させた)

 「別のところって、どこさ」おれはそう言った。

 「体育館裏、寝れるところがある。そんで絶対にバレない穴場。いうなれば秘密基地」

 おれらはまた隠密行動の姿勢をもってして、体育館裏へ向かう、というミッションを難なくこなしてみせた。やっぱり、けっこう、ちょろい。

 道中、オカムラは裏庭で日を浴びながら笑いながら言った。「最高の、サボり日和だね」。笑顔のオカムラはえもいわれぬ美しさを持っていたし、大物女優のようだった。ハリウッドスター。アカデミー賞総なめ。そんな感じ。

 着いた先には、体育館と外接プールとのあいだに生じた、五畳半くらいのスペースがあった。まさしく『秘密基地』だった。上を見ると、体育館のひさしに、プールの水が光を反射することで生じた水影みずかげが映し出されていた。揺蕩たゆたいながらも煌々と輝く水影は、まったくもう『幻想的』以外の言葉が見つからないほどに、美しかった。

 別世界にきたような感覚だった。

 オカムラは満足げな表情で地面に腰を下ろした。

「最高でしょ」オカムラはなんの味かもわからないような飴をくわえていた。めちゃくちゃまずそうな飴だ。もしこの文章をオカムラがみたら「うるせーよ!うまいわバーカ」というかもしれない。

 「うん、めちゃ最高、テンションあがる」おれは本心からそういった。

 こういうのもなんだが、いい雰囲気って感じだった。ただ、オカムラは『モテる』ほうの女性だ。容姿がいいし、人当たりもいいから、モテるんだろう(ただ強気なので誤解されがちな部分もあるのだが)。有象無象の石ころ学生なんか、気にも留めてないだろう。だから、高校生にありがちな一時の過ちもないし、恋に発展…なんてのももちろんない。なりゆきで授業をサボって、同じ場所で日を浴びる。一種の過ちには違いないのかもしれない。

 「音楽、聴こうか」オカムラはウォークマンをとりだしてイヤホンの片方をこちらに渡してきた。曲はアース・ウィンド・アンド・ファイアーの『セプテンバー』だった。九月最後にこれを聴くなんて、そんなイカした展開に心躍らずにはいられない。

 快晴、日本晴れ、青く澄み切った空。それを背景に飴をなめるオカムラ。バックミュージックの『セプテンバー』。

 心に焼き付いてはなれない、映画のワンシーンのような。

 いつかこの文章を読み返すことがあるかもしれない。

 忘れもしないこの日を、誰に言うこともなくこのノートに書き留める。

 それがおれのやりかただし、ことさらオカムラに何かを伝えようなんてことはしないだろう。

 今日はいい日だ。いい天気だ。

 ディスコミュージックに心躍る、ブギウギだ。

 ブギウギ、ブギウギ。口ずさむ。

 (授業をサボったことは、当然のようにバレてこっぴどく叱られたが、それは別の話)』

 

 ぼくはそっとノートを閉じた。後のページをみても、この『9月30日』を最後に、ノートの記入はないようだ。

 

 すっかり暗くなった部屋は、片付けの途中ということもあって、なかなか哀愁漂う雰囲気に落ち着いている。


 オカムラさんはたしか、五年前くらいに結婚していたはずだ。職場の同僚だったかと。結婚式の招待状もきたが、どうしてか破って捨ててしまった。他人の幸せを受け入れられるほどの余裕はなかったのかもしれない。


 目をつむればあのときの情景がありありと思い出せる。

 鍵のかかった扉も、庇にうつる水影も、すがすがしいほどの晴天も、セプテンバーを聴きながら髪をなびかせていたあの子も。

 映画のワンシーンのように、くっきりと。


 いままで忘れていた熱い感情が、体の隅々を駆け巡っている。

 恋にも情欲にも溺れていない、ただ授業をサボっただけの記憶が、自分の核を揺らしている。

 

 過ぎ去った思い出に浸るわけではない。ただそこかしこにあったそういう『いきたこと』の断片は、かくも無情に月日という荒波が根こそぎ持って行ってしまう。

 このノートは、その荒波からこの『9月30日』を守ってくれた。思い出になってもなお、この『9月30日』は過ぎ去っていないことを証明するように。


 ぼくはこの日記を読んで覚えた感覚を『ブギウギ』に書き留めることにした。


 ただすこし、表題に手をくわえさせてもらった。

 

 『ブルーバック・レイディ・ブギウギ』。


 何年後かにまたこのノートが見つかったときはさらなる改変が為されるかもしれない。ぼくは抽斗のなかに、そっと、隠す感じでこのノートをしまった。


 晴天のもと、まずそうな飴をくわえながらウォークマンでシブい曲を聴く彼女は、いまだあの秘密基地にいる。かわらぬ風体で、笑っているだろう。爽やかな風に吹かれながら。

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