「ソファから起き上がると」
ソファから起き上がると、両手で顔を
それから指を広げて、両方の手のひらをじっと眺めると、そこには繭を切り開いた時の感触が生々しく残っていた。
掛け時計を見上げると、時計の針は10時57分を指している。あれから約一時間。思いの外、時間は経っていないらしい。
スマホを探すと、相変わらずソファの下に落ちていて、いつも通り黒猫のラバストがぶら下がってて、中身を確認すると例の電話番号が着信履歴に残っていた。つまりあれは夢じゃなかった――ということになる。正直、全く現実味が無いけど。
スマホを持ったままソファから立ち上がって、カーテンを開けると――何も見えなかった。それは真冬の朝を彷彿とさせるような結露で、冷気がこっちまで伝わってきた。スマホの画面には「10:57」と表示されている。とすると、この結露が起こったのは俺が寝ていた間――ということになるけど、今朝の晴天を思うと信じ難い。山の天気じゃあるまいし。
五本指で窓の水滴を拭って外を覗くと、そこには――――雪景色が広がっていた。
雪景色? 思わず頬をつねった。痛い。
――――どうやら夢じゃないらしい。
おそるおそる窓を開けると、凍った空気が突き刺すように頬をかすめた。肌がひりひりと痛む。ジャージだと流石に寒くて、一気に頭が冴えた。今年は暖冬だから久しく忘れていたけど、この感覚、
冷えたサンダルを素足で履いてベランダに出た。足は痛いけど我慢するしかない。こんな時、秀吉が居てくれたらなぁ――なんて思う。織田信長が少し羨ましい。寝込みを襲われるのは御免
ベランダから白一色に染まった街を見下ろした。通りに人の姿はなくて、まるで時が止まったみたいだった。
首を上へ傾けると、灰色の空から雪が降りてくるのが見えた。雪は絶え間なく降ってくる。止む気配は一向にない。
――――やけに暗い。
雪、雪、雪……単調な景色に気怠さを覚えた。空に向かって吐いた白い息は、降りしきる弾幕にかき消された。
――――デジャヴ。
空を見ていると――リアリティがひどく欠けていて、まるでVR世界に迷い込んでしまったような――そんな気分になった。あの空も、この寒さも、全てが造り物なのかもしれない。
ふと、今朝の記憶を呼び起こして、西の彼方に半月を思い描いた。夜に取り残された哀れな半月を。
『何が見える?』と女は訊いた。
「月が見える」
『そう。月兎はいる?』
「いる」
月兎のことを思い浮かべた。
『そう。花は咲いてる?』
「咲いてる」
月に咲く花のことを思い浮かべた。
『アタシは今、月にいるのよ』と女は言う。
『アタシは今、貴方を見てる』
月を見た。そこには兎がいて、花が咲いていた。だけど女の姿は見つからなかった。
「繭を紡いでいるんだ」と黒猫が言った。声は聞こえない。
『きっと何処かに致命的な盲点があるのよ』と女が言った。
――――そうかもしれない。
『ねえ、最後に一つだけ訊いてもいい?』
「いいよ」
『貴方は韓国のことをどう思う?』
「俺は――」
突然、街は崩壊を始めた。雪が重たく降りかかり、街を月から隠していく。あらゆる声が雪の中に沈んでいく。あの日、胸に抱いた想いが記憶の波に埋もれていくように。
――――そう、記憶だ。
だけど俺の手のひらには、あの時の感触がまだ残ってる。このささやかな温もりを新しく胸に抱いて、繭の中で待ち続けよう。
――――そして今ならはっきりと答えられる。
すぐに着信履歴から例の女へ電話をかけた。だけど出なかった。呼び出しのコール音も、留守番サービスも一切無くて、電話が解約された旨を、無機質な女性のアナウンスが俺に告げた。その声は紛れもなく――――あの女の声だった。
再び女へ電話をかける。すると、あの声がさっきと全く同じ台詞を読み上げ始める。女はBotみたいに繰り返した。というより、女はBotそのものだった。
「今日は土曜日」とチップが言った。声は聞こえない。
「明日は日曜日」とデールが言った。声は聞こえない。
そうだよね?
間違いなく。
だから――――
シスター、今度は一緒に月を見に行こう。夜に捨てられた哀れな月を。
そして俺は、海へ渡った繭の抜け殻のことを想う。
盲点――それは致命的な盲点だ。確かにあの女の言う通りかもしれない。俺の脳髄の奥深くには不可逆的な盲点があって、その一点に於いて僅かな歪みを生み出しているのかもしれない。
いや、違う。それは僅かなじゃなくて、矯正不可能な歪みだ。とすると、俺に「帰る場所」なんて初めから無かったことになる。他の子どもたちの母親(或いはその父親)が我が子を迎えに来るなか、俺は施設の中で一夜を過ごすのだろう。一晩中、血の繋がりの無い先生に見守られて、慰められて、哀れに思われながら、再び朝日が昇る時を待つのだろう。
そうやってセンテンスは失われ、センチメンタルは枯れていく。神の国は既に滅びてしまったのだ。
それでも俺は、いつか君に逢える日を胸に抱いて、繭の中で待ち続けよう。そして海を超え、壁を超え、その先に待つ韓国の街並みに想いを馳せよう。
嗚呼、韓国。その傷はあまりに深い。
あの女が繭の中で孤独に泣いている姿を想像したら、少しだけ救われた気がした。
人間が愛おしい――初めてそう思えた。
SF´(スコシ・フシギ) こたあき @Aki-Kota
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