あなたとわたしが夢の国

おかわり自由

 

「子供の頃の楽しかった思い出を作文に書きなさい」


学校の国語の時間にそんなお題が出されたことがあって、僕は心底困惑した。書くことがなくて困惑したのではない。実のところ楽しい思い出だったら、沢山ありすぎて書ききれないほどある。

だけど、だけど、...


書けと言われたら、おそらく書けることは山のようにあるけれど、実際にそれを文にして書き出して、「これが僕の思い出です」と発表することに異常な抵抗を覚える。



僕には12歳以前の記憶がない。いや、これは正確な言い方ではない。実際には、あるのだ。本当に沢山、山のように。そのどれもが、昨日のことのように鮮明に思い出せる。だが僕は知っている。それは本当の僕の記憶ではない。

あの日、僕は近所の神社の境内で友達とサッカーのまねごとに興じていた。何順かして僕のところにボールが回ってきて、僕は斜め前にいる友達に向かってそれを蹴ったが、狙いが大きくそれてボールは明後日の方向へ飛んでいってしまった。

あっ、しまった、と思ったその時、飛んでいったボールの先に誰かが立っているのが見えた。知らない人だった。あまりはっきりと覚えていないが、服装もなんだか変だった。その人めがけてボールが宙を舞ってゆく。突然、それまで棒立ちだったその人が妙な構えを取った。両腕を広げて一本足で立つ鶴みたいなポーズ。その上げている方の脚に、何かが集束してゆく。空気、というより空間そのものが圧縮されてゆくように見えた。


「夜叉の構え」


その人の口から、男とも女とも判別のつかない声がした。ボールは何かに導かれるように、足元に向かってふわふわと飛んでゆく。次の瞬間、ほとんど肉眼では捉えることができないほどの速度でその爪先がボールを蹴った。轟音を上げ空気を切り裂きながら飛来したボールは僕の額に直撃し、次に気がついた時は病院だった。そして僕は、あの神社のできごと以前の記憶をすべて無くしていたのだった。



過去の記憶がなくなるということは、単純な物忘れとは違う。ある日突然、それまで自分の世界を形作っていた全てが認識できなくなる。昨日まで確かに存在していたはずの「自分」がどこかに消えてしまって、それを探すこともできなくなる。

自分の手の甲にうっすらと走る血管の一本にさえ見覚えがない。

僕は誰だ。ここはどこだ…


真っ暗な穴に、果てしなく落ち続けていくような感覚。

喪失。

恐怖。

混乱。


僕は完全に狂ってしまった。何に対して狂えばいいのかすら分からないまま狂っていた。自我を喪失し、意識との連結が疎になってしまった肉体は、その全ての機能が低下し続けていた。連日のように行われた様々な検査やテストの結果は、その尽くが異常値を示した。

ボールが当たってできた外傷は全く大したことはなく、切れた額を3針くらい縫って終わり。にも関わらず、僕はその傷がもたらしたダメージによって着実に死へと向かっていた。


狂死を待つばかりの僕の家族に、担当医はひとつの提案をした。僕の脳にぽっかりと開いた12年分の陥穽に、人為的に作られた記憶をインプラントする。親族や友人などの近しい人間に詳細なインタビューを行って、出来る限り現実に則した「記憶」を再現し、「体験」として刷り込む。そうすることで僕は、完全にとはいかなくとも、ある程度まで自分の存在を、自我を取り戻せるはずだ。

日夜僕を蝕み続ける底の知れない暗黒から脱出する術は、もはやそれしか残っていない。両親は承諾した。承諾するしかなかった。今にして考えればそんな治療法は聞いたことがない。おおかた僕は体の良い実験台にでもされたのだろう。



そうして、処置が行われた。

うまくいった。

僕は、少なくとも自分が誰であるかを認識できる程度の記憶を「取り戻した」。

意識の混濁も肉体の不調も嘘のようにおさまって、程なく僕は退院した。



だが、その処置において、彼らは重大なミスを犯した。


僕は自分が記憶をなくして狂っていた期間のことを全て覚えている。医師がそれを解決するために僕に何をしたのかも覚えている。

もちろん、あの神社での決定的な事件の瞬間も。

その記憶を消し忘れたのだ。あるいは、消そうとしたけれど不可能だったのか。




「子供の頃の楽しかった思い出を作文に書きなさい」




原稿用紙を前にして、ありありと浮かんでくる昔日の情景。

美しく晴れ渡った空、小川のせせらぎ、一杯に咲き誇る向日葵、子どもたちの嬌声。ある田舎の夏の、ありがちな一場面。だが、記憶喪失から復帰して以降そんな情景には出会ったことがないのだから、その記憶は後付けの偽物であると分かる。それが実際の出来事をもとに再現されたものであったとしても。

書いていいのか、迷う。学校の作文なんて適当に書いて済ませればいいし、周りの皆も大方そうやってるんだろう。そうすればいい。だが、手が動いてくれない。最初の一文字すら書きだすことができない。


「どうした、難しいか?」


僕の様子を見かねたのか、先生が席までやってくる。


「難しく考えなくていいぞ、何でもいいんだ。一つもないなんてことはないだろ?」


そう言いながら、教卓へ戻っていく。意味ありげな視線を一度だけ僕の方にくれて。




先生。


僕は、あなたが誰なのか知っています。


何のために、学校の先生のふりをして、ここにいるのかも。

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