ピンポンダッシュ

おかわり自由

 

ビールを飲もうと冷蔵庫を開けたところひよこが5匹並んで僕を睨み付けていた。なんで冷蔵庫にひよこがいるのか全く理解できず僕はその場でドアの取っ手を掴んだまましばらく硬直してしまったのだが、その時ふと思い出した。そういえば3週間くらい前に10個入りのL玉鶏卵をスーパーマーケットで買ってきてそれを冷蔵庫に入れたまま放置していた。10個のうち5個はその日のうちに煮たり焼いたりして適当に食ったのだが、さすがに10個全部を一遍に食い尽くすのは無理があったので残り5個を後日食おうと冷蔵庫内の卵置き場に格納して、そのまますっかり忘れてしまっていたのだ。もちろん今日に至るまで冷蔵庫を開閉する機会は幾度となくあった。しかし卵置き場に格納された5個の卵は、どういうわけか視界の隅には入っても存在として認識されず、そのうち卵は庫内で孵化し5匹のひよことなったのだ。そうとしか考えられなかった。ひよこ達はぴいぴいと声を揃えて僕に激しい罵声を浴びせた。無論ひよこの言葉は分からないから彼らが何を訴えているのか完全に把握することはできなかったが、それでもその激しい鳴き声の内に確かな怒りが煮えたぎっていて、その眼差しに殺意がこもっていることだけは分かった。当然だろう。先日僕が食ってしまった5個の卵には、言わずもがな彼らの兄弟となるはずのものが宿っていたに違いないのである。そこまで考えて、それでもひよこの存在は僕の理解の範疇を超えていた。有精卵は買ってないはずなんだけどとか仮に有精卵だったとして冷蔵庫で孵化するのかとか様々の疑問が脳内を駆け巡った。しかしそんなものは眼前に鎮座するひよこ5体の圧倒的実存の前に何等の反駁にもならず、僕はただ俯き押し黙る以外の術を持たなかった。


僕はひよこを一匹ずつ慎重に持ち上げて床に下ろすと冷蔵庫を一旦閉じて自室に戻りパソコンの電源を入れ、インターネットで「ひよこの餌」を検索した。色々と出てきたが、どうやら現段階では雑穀を細かくすり潰した物を与えるのが最も手軽かつ適切なようである。水分は水道水をそのまま与えれば良いらしい。僕は決心していた。あのひよこ達に不幸を招き激怒させたのは他ならぬ僕だ。いくらその意思と覚悟が強固なものであれ、ひよこはあくまで無力なひよこ、どこかに捨ててしまえばそれで済むのだろうし、僕への復讐も果たすことなく早晩死滅するであろうが、それではあまりにも無責任だ。あの卵を購入した瞬間、期せずして僕は彼らの前途をも丸ごと引き受けていたのである。せめて立派に育ててやることが僕の果たすべき責務だ。背後ではひよこ達が依然として強烈な憤怒をたぎらせた表情で射るような視線を僕に投げかけている。隙あらば襲い掛かって食い殺さんばかりの鋭い眼光だ。ちょっと待ってくれないか。雑穀なら知り合いに分けてもらったものが物置に入っていたはずだ。知り合いというのは古い友人で、現在はアフリカの発展途上国でNPOとして農地開拓に従事している。ただしNPOなどと名乗ってはいるものの、その実態は収穫した穀物を現地の農民を騙して不当に搾取した上、裏ルートで東欧に横流しして巨額の利益を得ている闇ブローカーである。告発を恐れてか彼は時折その作物の一部を賄賂として僕に提供してくれることがあったが、あまりに大量なためとても食いきれず、かといって下手に出所不明の大量の穀物を定期的に捨てたりしていればいつか何らかの形で僕に累が及ぶことも十分に考えられ、僕はそれが届くたびに仕方なく庭の物置に押し込んでいた。ようやくあれを活用できる時が来たというわけだ。物置へ向かう僕の後ろをひよこ達がぴよぴよとついてくる。攻撃の機会を伺っているのであろう、尋常でない殺気が伝わってくる。攻撃するならしてくれてかまわない。気が済むまでやるがいい。僕はただ粛々と餌を作るだけだ。


かくして餌が出来上がった。雑穀をすり潰す間ひよこ達は不審そうな眼差しでその様子を見守っていたが、目の前にそれを差し出されると皆一様に困惑した表情を浮かべた。ひよこ達の中では抗いがたい食欲と僕への敵意が強烈にせめぎ合っているに違いなかった。僕はさらに餌の入った皿をひよこ達の前に押し出した。やがて一匹が恐る恐る食べ始め、直後狂ったように貪り始めた。その様子を見ていた他のひよこ達も次々と後に続く。あっという間に皿は空になった。孵化してからどれほどの時間が経過していたのか分からないが、自力で歩くこともおぼつかないひよこ達が卵格納トレーから飛び出して冷蔵庫内の食物を漁ることなどできようはずもなく、彼らはみな飢餓状態にあったのだからこれはごく自然なことだと思った。別の皿に水を張って与えると、ひよこ達は瞬く間にそれも飲み干してしまった。彼らの表情が心持ち緩んだように見えた。腹一杯餌を食った充足感とともに、僕への敵意も幾許か和らいだのであろう。僕は改めて彼らに自分が何らの悪意も敵意も持っていないこと、卵はスーパーマーケットで食用に購入したものであって、図らずも彼らの兄弟を殺して食ってしまうことになったがそれは全くの偶然であり不可抗力であること、今後彼らを見放すことなく責任を持って最後まで立派に育て上げるつもりであること、などを訥々と説いて聞かせた。彼らはひとまず納得したようであった。




ひよこ達は順調に成長していった。冷蔵庫から出てきた当時の強烈な敵意、殺気はすっかり影を潜め、餌を与えても妙な表情をすることもなくなった。僕の使命は半ば完遂しかかっていた。そんなある日、玄関の呼び鈴を押すものがあった。僕に来客といえば新聞の勧誘か浄水器の押し売りくらいしかないので無視していたのだが、それにしてはあまりにもしつこい。単にしつこいだけではない。ドアを開けるまでは絶対に退かないという不退転の意思をもって、その来客は呼び鈴を何度も連打しているように思えた。仕方ない。僕はひよこ達と遊んでいた百人一首を一時中断して応対に出た。ただならぬ雰囲気を感じたのか、あるいは滅多にない来客に興味を持ったのか、五匹のひよこ達も僕の後を追って玄関までついてきた。


そこにいたのは年経た鶏であった。何か言いたげな表情で僕の顔をじっと見上げている。そうしてしばらくの後、今度は僕の足元に視線を移す。ひよこ達の顔を一匹ずつ順番に眺め回した後、高く一声、鳴いた。


ひよこ達が次々と、玄関のドアを出てゆく。僕は瞬時に悟った。この鶏は彼らの親だ。どのようにして所在を突き止めたのか知らないが、自分の子供達をはるばる迎えに来たのだ。ここへ至るまでの道のりがいかに過酷だったかを、その傷だらけの体が雄弁に物語っていた。


ひよこ達が全員玄関から出ると、鶏はそのまま彼らを連れていずこかへと去っていった。ひよこ達は何も言わなかった。感謝も恨み言も述べることなく、ただ親の後についていった。去り際、一度だけ親鶏がこちらを振り返った。その表情がいかなる意味を含むのか、僕には分からなかった。そしてまた僕は、僕自身の中に突然渦を巻いた正体の分からない激しい感情に整理がつけられぬまま、去っていく彼らの後ろ姿をただ見送ることしかできなかった。




夕飯を買いにスーパーマーケットへ出かけると、タイムセールで卵の大安売りをやっていた。卵を買おうか買うまいかで真剣に悩んだのは、後にも先にもこの日限りのことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピンポンダッシュ おかわり自由 @free_okawari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る