君に捧ぐ詩 Singing a phantasm

月平遥灯

Singing a phantasm 君に捧ぐ詩

 僕の書籍の売れ行きは好調だった。その日、サイン会をした僕の前には長い列が出来ていた。帽子を深く被りサングラスをした女の子が、片手に持った本を無言で差し出す。変わった子だな、と思いながらもサインをすれば、彼女は訊く。どうやって夢を叶えたのですか、と。



「夢を見たから。夢を見ればきっと叶うし、現実にするにはまず夢を見ることから始めないと」


「わたしにも夢があります。でも、すごく遠くて」


「夢を見ても、諦めないことかな。がんばって」



 そう言って、その子と握手を交わし、その背中を追う視線を外せば、次の子が本を差し出した。



 ☆☆☆☆



 出会いは突然だった。曲がった角で受ける衝撃は唐突に。顔を上げれば、白塗りの顔に浮かぶ黒い星。目元を塗りつぶす星の黒さに、思わず声を上げた。ホラー映画の登場人物さながらの彼女は、まるで、今にも僕を絞め殺さんとする殺人鬼。睨む彼女の視線に顔を背けて立ち上がり、ぶつかった謝罪を兼ねて叫ぶ僕の言葉は、ごめんなさい、と。待ってと聞こえる声を無視して駆け出した。



 夏休みも近づくテスト期間中の学校は、夏の予定を話し合う浮足立った生徒が廊下を跋扈ばっこする。蝉の音響ねひびく昼の日差し注ぐ窓際で、一人食する菓子パンが口腔内の水分を奪っていく。檸檬の薫り微かに感ず紙パックの紅茶を口に含めば、上げる視線の先に佇む女子の姿。顔を見れば、雪化粧に飾られる緩やかなうなじの先に望む、頬は水蜜桃すいみつとう。瞳の奥に煌めく夏のアンドロメダ星雲が僕を吸い込む。鼻を掠める仄かな薔薇の薫りに唖然とした——なぜ、僕を見つめるのか。甚だ疑問だった。



東雲春希しののめはるきくんに渡したいものがあるから、放課後付き合ってほしいの」


「え。秋倉さんが僕に渡したいものって……なに?」



 放課後に話すから、と言った秋倉遥香あきくらはるかきびすめぐらすと、跳ねる髪を耳に掛けて廊下側の席に座った。数人の女子に囲まれる彼女の放つ輝きを暫く見つめる。例えるなら、森の陽だまりの中で愛されるプリンセス。僕には眩しすぎた。



 喫茶店のテーブルで向かいに座る秋倉が、僕に渡す紙袋の中身は文庫本。何も言わずに受け取った僕はその中身を知っている。昨晩、どんなに探しても見つからなかった大切なもの。でも、なぜ彼女が持っているのか。そんな疑問はすぐに払拭された。星パンダメイクはわたしなの、と告げる彼女は、俯き加減に訊く。この本は発売前なのに、どうして春希くんが持っているの、と。それは僕が書いたからだ、と答えれば、興味を惹いた彼女は言う。このシリーズのファンなの。たまに君とお話したいな、なんて。白昼夢のごとく。そう、まるで夢のよう。だめだ。だめだ。だめだ。恋をしてはだめだ。自分に言い聞かせる僕は、心を閉ざす。誰の声も届かぬように。



 己の陰鬱な雰囲気に辟易しながらも、過ごす青春は、染まりに染まる黒色の墨汁のよう。僅かに薫る薔薇が華やかに彩りを見せれば、染まった漆黒も嘘のように春色に。秋倉は毎日僕に話しかけて、僕の物語について語り、音楽を話し、時に肩を並べて下校した。本当に幸せな日々だった。分かっている。分かっている——だけど、今だけでも、僕に夢を見させて欲しい。



 一瞬の閃光で切り取られるステージ上の秋倉は、革のジャケットとパンツに包まれて歌う曲はヘヴィメタル。叫ぶ声すら美しく、歌えばさえずる春の野鳥のよう。静寂を奏でる声帯と、心の泉に波紋を広げる旋律に奪われた心が涙を流す。息をすることも忘れてしまうほど、魅力的で、蠱惑的こわくてきで、なんと、情感豊かに華やぐ薫り気高い声なのだろう。



 裏口で待てば、お待たせ、と手を振る秋倉を僕は直視できなかった。君の長い髪も、その唇も、大きなアンドロメダ星雲を秘める瞳も。触れることのできない脆く華奢な硝子細工のようで。この時から僕は彼女のことを意識し始めた。




 ————本当に幸せだった。





 ベッドで横たわる僕は、窓辺に滲む月光に奪われた心を、スマホのメッセージを見て取り戻した。春希くん、明日お休みだけど、どこかに遊びに行かない、と。


 交換したスマホの連絡先を眺める僕は、少しばかり想像をしていた。彼女を愛し、自分に囁く彼女の愛が平等なことを。触れる指先の熱を。感じる視線を。告げる言葉は、好きだ、と。だが、すぐに現実に戻される。液晶に表示される連絡先は、秋倉遥香の文字。訝る僕の声がスマホの向こう側に届かぬようで、僕の声がおもむろに大きくなる。



「秋倉さん?」



 応答はない。微かに聞こえる声が、暴力的な音と叫ぶ秋倉のものだと知れば、早くなる血流に吐息が熱に染まる。どこにいるの、と訊く僕の声など聞こえてはいない。



 だが、ようやく秋倉の声が響く。河川敷の貸倉庫駐車場にいる、助けて、と。駆け出した足がもつれて転びそうになる。こんな時に足に力が入らない。間に合わない。家の前の国道を走るタクシーに乗り込み、震える身体を両腕で押さえた。ロードノイズとすれ違う救急車のサイレンに敏感になりながら。滲む視界を切り取るレーザービームのヘッドライトに瞑る瞳を擦り付けて。泣いている場合ではない、と言い聞かせた自分の心緒が挫けそうなほど、慄いていた。



 降りたタクシーに別れを告げる余裕もなく駆け出して、貸倉庫の駐車場を見渡す。見つからない秋倉の残像を心に描けば、倒れ込みそうになるほどの焦燥感が、全身を駆け巡る。いったいどこにいるのか。だが、一台だけ黒塗りのワンボックスカーのエンジンが点いていることに気付く。間違いない。息を整えて、竦む足を必死に前に出して。引き摺るように。



 後部座席のスライドドアに近づけば、聞こえる泣き声と嬌声。昇っていく血液が頭に到達したときには、視界が何も見えなくなった。跳ねる線香花火の火花のような眩暈めまいに、奥歯を噛みしめて首を振って。一気にスライドドアを開いた。



 なんだお前は、という男が下半身を露出した状態でこちらを睨む。ブラウスを捲り上げられて、露になった下着を隠す力も失った秋倉がすすり泣く。スカートは腰まで上がっていて、とても正視できるような状況ではなかった。



「その子から離れろ! 警察がそろそろ到着する。だから、離れろッ!!」



 震える声で叫べば、押し黙った男が秋倉の荷物を放り投げる。華奢な秋倉の身体を抱えて、車から降ろした僕は男に叫ぶ。絶対に許さないからなッ!



 偶然にも遠くから聞こえるサイレンに、男はドアを閉めて運転席に乗り込むと、ホイルスピンさせながら走り去った。実際、警察を呼んでいる余裕なんてなかった。今考えれば、呼んでおけば良かった、と。



 裏路地を歩いていた秋倉は、突然停まったワンボックスカーに無理やり乗せられて、縛られて拉致された。車の中で無理やりキスをされて、身体中を触られて、いよいよ、性交、というときに僕が助けに来た、と泣きながら状況を話してくれた。最後までは奪われなかったとはいえ、彼女の心の傷は簡単に癒えるものではなく、僕に密着したまま離れない様子からして、病院に行くべきだと僕は判断した。



 秋倉遥香の両親は、揃って海外赴任中であり、兄と二人暮らしであった。今回の事件を兄には言いたくないと、秋倉は頑なに拒否をする。夜道を一人で歩いていた自分が悪いのだから、と。だけど、被害者が悪いなんてこと、絶対にあり得ない。あってはならない。


 二人暮らしをする兄とは折り合いが悪く、田舎から上京して高校に通う一人暮らしの僕の部屋に置いて欲しい、と秋倉は言う。さすがに高校生で、それはまずいのではないかという僕に、秋倉は電話を掛けながら僕に言う。兄に連絡を取ってみるから。



 秋倉の兄は、代わった電話口で僕に「もし、君が許可をしてくれれば問題はない」と話す。どういう兄なのだと怪訝に思う。だけど、秋倉からすれば、きっと、事件がトラウマになってしまい、僕がその特効薬なのかもしれない、なんて一人納得をしてしまった。




 結局、秋倉に押されて同棲をした僕に、微笑む秋倉遥香の姿は眩しすぎた。




 二人で作る料理は、隣に立つ君の距離を意識して上手くいかなかった。寝ても覚めても、君の残り香が肺を支配して、僕の気持ちは急降下していく。手に入らない宝物。決して届くことのない砂漠のオアシス。触れれば枯れる高嶺の花。



 僕の気持ちを知ることのない秋倉は言う。春希くんは温かいね。人の気も知らないで酷いよ。胸中で呟く僕の言葉は、魚の吐く泡のよう。口に出すことも出来ずに海原を彷徨い、いずれ消えてしまう。苦しい。胸が苦しい。もう終わりにしたい。




 そんな想いを抱く葉月。薔薇の花弁を模るチョコレートが、しっとりと咲いたケーキで祝う秋倉の誕生日は、僕が想像しているよりも遥かに彼女は喜んだ。贈るプレゼントは、やはり薔薇のソープフラワー。心の傷は未だ癒えないけれど、この瞬間だけは忘れて欲しい。そう願った。そして、僕もそれは同じ。今だけは彼女に恋をしても——。




 しくも秋倉の誕生日の翌日は、僕の誕生日だった。予想に反して、秋倉は僕をライブハウスに呼び出した。空間は重く、暗鬱な空気に耳が押しつぶされそうな沈黙に逃げ出したくなった。自分以外、誰もいない部屋に灯る照明がステージを照り付ける。音もなく現れた秋倉の、僕に浴びせる真っ直ぐで決して逸らさない視線に射抜かれる。胸を。瞳を。心を。そんな目で見ないで欲しい。だって。だって、これでは————君に恋をしてしまう。



「春希くん。君はわたしのヒーロー。わたしの大事な人。いつも、わたしに愛情をくれてありがとう。今日は、君が生まれてきてくれた日だね。感謝しています。この日に。生まれてきた君に。聴いて。ラベンダー」



 彩り豊かに芽吹く花はラベンダー。香り華やぐ風にたなびく花のように。君の声が僕の心をえぐっていく。触れて欲しくない場所に吹いた風が落とした種子。芽が出て、葉が開き、やがて膨らむ蕾が君への恋心なら、僕はもう手遅れだ。僕はもう君に恋をしてしまった。分かっていたけど、あまりに。あまりにそれは、残酷だった。



「秋倉さん。僕は君が好きだ。ごめん。好きになって。もう止まらない」


「なんで謝るの? だって、わたしも君のこと好きだよ。ずっと好きだった。だから、うん。嬉しいな」



 言えなかった。とてもじゃないけど。



 付き合い始めた僕に圧し掛かる重みは、僕の心を麻痺させていく。このままでいいはずがない。でも、もう止まらないよ。ごめん遥香。ごめん、本当にごめん。



 夏休みが終われば、僕の執筆していた物語も完成を迎えようとしていた。恋愛小説だけど、経験のない僕の物語はまるで絵空事。矛盾する心理には、自分でも目を塞ぎたくなるほど。そんな僕の物語を見た遥香は訊く。わたしのこと好き?



 好きならば、その想いを文字に起こせばいいだけ。分かっているけど、分かっているけどできない。心のどこかで気持ちがこれ以上動かないように、くさびを打ち付けていたのかもしれない。それくらい、僕は焦っていた。



 遥香がオーディションを受けることになったのは、秋の中頃。ヘヴィメタルのバンドの他に、ソロで弾き語りを始めた彼女の歌声は、瞬く間に世の中に広がっていった。歌う声は鳥の囀りのように。その旋律は、移り行く季節のように切なく。だけど、そんな彼女にも弱点があった。頭脳明晰ずのうめいせきである秋倉遥香という人は、歌詞を書くのが不得意だった。



「春希くんみたいに、叙情的に歌詞が書けたらいいのに」


「でも、ラベンダーはあんなに透き通るような想いの言葉を綴れたじゃない?」



 それは、君の想いを一心不乱に綴ることができたからだよ、と言った遥香が僕にキスをした。唐突だった。柔らかく甘い遥香の唇の感触がいつまでも残る。



「じゃあ、僕が書くよ。今度は僕が綴るよ。どんな内容なの?」



 本当に書いてくれるの。嬉しいな。と笑う遥香を見れば、抱き寄せて再びキスをする。今度は僕から。君を傷つけたくない。だけど、僕はこうして君を傷つける。きっと、傷つけていく。




 僕には好きな子がいた。加々谷美咲かがやみさきという誰からも愛される子。廊下を歩けば、足元から頭の天辺まで華やぐカサブランカのような子。纏う薫りはいつも甘いカフェラテのよう。彼女が好きだった。彼女も僕をいつも見てくれた。春爛漫の日に桜を仰げば、春の欠片って可愛いね、と花弁を拾いあげる美咲に見惚みとれた僕。夏になれば、潮騒しおさいを聴いて、青の深さに感嘆した。燃える紅葉に少しだけ冷える身体を寄せ合って、雪の降る朝は、凍える指先で触れた肌——そして唇。



 すべてが好きだった。だけど、君は別れを選んだ。いや、選ばせてしまった。僕のことを理解してくれる彼女の気持ちをないがしろにして。そして、美咲は新たな恋に向かう。悔しいな。だけど、それが僕の運命だと思えば、了承しない自分の心を無理やり説き伏せることができた。




 遥香の望む詩は、寂寥感せきりょうかんがあり、儚く移ろい華やかな季節に憂いを抱く、そんな歌詞だった。そう、失恋の曲を求めた。遥香が書けない詩は、失恋。僕に対する愛情という想いを抱く彼女には、どうしても書けなかったのだろう。



 筆を走らせる場所は、常に決まってこの空間。中庭に蓮池を望むカフェ。波紋広がる蓮池に想いを馳せれば返す音は静寂と沈黙と、少しばかりの虫の声。ウェイトレスはみんな何かしらの動物の被り物をしていた。ここは不思議の国。蓮池は世を映す鏡。つまり入り口。オーナーは変わっている人だった。現実から逃れたい人が集まる空間にしたい、と。僕にはうってつけ。音楽すら流れない空間で、異形のウェイトレスたちが囁く声色まで異世界のよう。とはいえ、実際のところ、声に関して言えば、それは単なる妄想なのではあるけれど。



 遥香には悪いと思いながらも、美咲への想いを綴る。未だに、好きなのかと言えば、そんなことはない。ただ、心に残る美咲の足跡は未だに音を立てる。辛いかと訊かれれば、そんなこともない。ただ、美咲の幸せを願うだけ。



 ☆————☆


 一学年のときに通い詰めたこのカフェも随分と様相が変わったものだ、とふける思いは、一人の店員に向ける眼差し。よく僕に話しかけてくれた店員がいた。はじめは軽い挨拶。次は世間話。そして、彼女が起こした事件は、彼女が僕のショルダーバッグを盛大に床に落としてしまったこと。落ちたペンケースから転がる万年筆を拾った彼女は言う。綺麗なペンですね、と。



「気に入ったら、君にあげるよ」


「え。そんな、悪いですよ」



 猫の風貌の彼女の視線が万年筆に移る。格子状の紋様が刻まれた軸と、市町村のシンボルマークの入った天冠てんかんは非売品。今では手に入れることなどできない。


 彼女の、その覆面の下の感情は見て取れない。猫の顔の下に映る君の顔が見てみたい。だけど、それは叶わない。ここは異世界だから。



「それ、ある市町村のコンペに出した短編が賞を取ったんです。その賞品。僕にはもう必要ないですから」


「そんな大事なものを貰う訳に——」


「過去の栄光にしがみついても、自分を昇華できないですから。僕は、もう一度、ゼロから書いてみて、チャレンジしたいから。だから、それを貰ってくれると嬉しいな」



 ウェイトレスは、猫の表情を浮かべたまま、では、いただきます、と言って白い猫の被り物を取った。午後の日差しが眩しくて、逆光の中の彼女の顔を見ることができなかった。だけど、笑っていた——気がした。彼女の顔を見ることはできなかったけど、それでも、その笑顔を見られたのだから贅沢は言うまい、と会釈を返した。彼女は、すぐにまた猫を被る。カフェラテの薫りを嗅げば、僕も飲みたくなった。



 猫を被ったウェイトレスの表情から、その感情を推し量ることは難しい。だけど、その日は違った。沈んだ感情を猫の瞳の奥から放つ彼女に僕は訊く。今日はどうしたのですか、と。



「わたし、ある劇団に入っていたんです。ミュージカルのオーディションをするって。歌には自信があったんです。でも、君の体型では難しいねって。確かにその通りなんですけど、それがすごく悔しくて。それで、辞めちゃったんです」


「僕も、中学生のときに言われたんです。そんな幼稚な小説を書いていて、恥ずかしくないのかって。でももし、僕の小説が賞を取って、アニメ化だったり映画化でもされたら、その人はどう思うかな。君が悔しい思いをしたのは、きっとここで昇華するための試練だったんじゃないかな」


「どういうことですか?」


「だって、君が目指すところに向かうためには、その悔しさが武器になるでしょ。夢を諦めないで。見返してやろうよ。僕は応援するから。ね!」



 微かに震えていた彼女は、きっと泣いていたのだと思う。


 ☆————☆



 その後、辞めてしまった彼女はどうしているのだろう、と蓮池を見ながら思う僕は、猫を被った彼女に気持ちが向かっていることに気付く。なぜ、心の中をこれほどまでに搔き乱すのだろう。猫を被ったあの子にもう一度会いたい、なんて遥香には口が裂けても言えない。



 出来上がった失恋の歌詞を見れば、満点ではないにしても上出来だった。綴った想いを馳せる蓮池のように、落ちる雫に広げる波紋が心に浸透するように。



 帰った僕を待つ彼女は、出来上がった歌詞を見るなり感嘆の声を上げた。ギターの新しい弦を張り替える遥香の横で、僕はパソコンに向かう。自分の作品を仕上げるために。焦っていた。本来なら歌詞を書いている場合ではないほど、自分の作品の推敲が終わらないことに、心が闇に包まれていく。



 オーディション当日、遥香を見送った僕は、本当に来ないの、と訊く遥香を横目にパソコンに向かっていた。このチャンスを逃せば、きっと僕にはもう物書きとしての才能がない、と烙印を押されかねないからだ。いや、違う。自分自身、この作品を書くことによって、自分の運命に抗おうとしているのかもしれない。物語の中で生きることができるのならば、それでいいと思う。なあ、そうだろ春希。




 ————きっと、これが僕の遥香に対する答えで、これが最期の作品になる。




 翌日、寝ていた遥香のスマホの着信音で目覚めた僕は、隣で可愛い寝息を立てる遥香の身体を揺さぶった。ねえ、スマホ鳴っているよ。ねえ。



 寝ぼけ眼のまま通話口に出た遥香は、突如、声色を変える。はい、大丈夫です。はい。申し訳ありません、と。優しい日差しに包まれたベッドの上で、掻き上げた髪の香る薔薇の彩りに、思わず嘆息した。最近では遥香を愛おしく思う反面、切なくなってしまう。ずっと一緒にいたいな、なんて。分かっていたのに、勝手すぎる。



 遥香のメジャーデビューが決まったのは、それから数日してからのことだった。彼女の歌声が流れるユーチューブに人々は釘付けになり、内耳に染みわたる声色に酔いしれた。


 それと同時に、僕の書いていたシリーズものの小説のアニメ化が決定すると、今度は映画化まで話が進む。あまりのとんとん拍子に、遥香と二人で顔を見合わせて、噴出した。喜びを噛みしめて開く宴は、二人だけの世界。



 その夜は、遥香と一つになった。トラウマのある彼女に対して、僕は今まで何もしてこなかった。だけど、今日という日に遥香は僕を求めた。奪う唇は甘く、抱きしめた遥香の熱が気持ち良く、抱き締めれば壊れてしまうのではないかと思うほど、遥香の嬌声が響く。甘く香ばしい薔薇の薫りが満たす僕の心は、もう止まらない。そうしている内に一つになった。とろけるような甘い蜜の中で溺れるように。僕は遥香の中で溺れ足掻きながら、彼女を奪う。ゆっくりと、優しく。



「ねえ、もし、スマホとかなくしちゃって、会えなくなったらどうする?」


「そんなことあるはずないじゃん。家に帰ってくればいいだけだし」


「分からないじゃん。スマホ一つで繋がっているなんて、綱渡りみたいだし」


「うーん。じゃあ、もしどこかではぐれて、家にも戻れなくなっちゃったら、このホームページの掲示板に、Waitって入れるよ。名前は、僕のペンネームのルキアで。それで、待ち合わせ場所は、遥香のよく使うライブハウスの前はどう?」


「なんか、秘密の暗号みたいだねっ」




 ————春希くん、忘れないでよ。




 行ってきます、と出かけた遥香は嬉しそうに言う。レコーディングなんだ。楽しみ、と。そんな彼女を見送れば、異変に気付く。足に力が入らなかった。痛む膝は、当初、中学で全国大会まで行ったバスケットボールのしすぎだと思っていた。



 遅すぎた。何もかもが遅すぎた。玄関で這いつくばる僕は、もう歩くこともままならない。なんとか、スマホまで手を伸ばして、父親に電話を入れる。僕が上京することを許してくれたのは、父親の愛情だと思っていた。だって、普通だったら行くな、と止めるに違いなかったから。僕のやりたいようにさせてくれて、今では感謝しかない。




 遥香にはもう会わない。そう決めた。ラインで送った言葉は、ごめん、もうさようならなんだ、と。事情を説明すれば良かったのかもしれないけれど、なんて言っていいか分からなかったし、言ったところで、余計悲しませるだけ。それに、これ以上、誰かに泣いて欲しくなかった。一生癒えない傷を負わすくらいなら、嫌われて別れて貰った方がいい。そして、遥香の幸せを探してほしい。




 ————スマホを解約した。誰からも連絡を受けないように。誰にも見つからないように。




 実家に戻った僕は、車いす生活を余儀なくされた。まだ上半身は動く。それが救いだった。到達する冬の気候が東京よりも早いな、なんて思う師走。雪がちらつく外を望めば、思い出すことは東京の生活。今頃、遥香は何をしているのだろう。部屋を引き上げたのは、父親と引っ越し業者だった。僕はあらかじめ、事情を説明していたために、父親が遥香に驚くことはなかったものの、遥香は立ち上がることもできなかった、と聞く。茫然と運び出される家具を見て、今にも死んでしまいそうなくらいに息も絶え絶えに。流した一筋の涙に、父親も嘆息する他なかったようだ。



 遥香が兄の元に帰ってから、どういう生活を送っていたのか。僕との生活を思い出して泣いているのだろうか、なんて、そんなことは僕の自惚れだ、と自制した。


 年もじきに明ける年末の夜。自室でテレビを観れば、ライブ中継の中に映し出される遥香の姿。思わず釘付けになってしまった。変わらぬアンドロメダ星雲を閉じ込めたような瞳と、初雪の雪化粧のような肌。頬は水蜜桃。笑顔こそ見せたものの、僕にはわかる。今の彼女の笑顔は偽物だ、と。力なく笑う彼女は、今にも泣きだしそうに。マイクを向けられれば、言う台詞は「ラベンダーの花言葉は、“あなたを待っています”、なんです」と。



 遥香さんのお宝はなんですか?


 ひな壇に座るアイドルや歌手にお宝を見せてもらうという特集で、遥香が紹介する番になれば、映し出される万年筆。見覚えのある非売品のもの。



「わたしに夢を見て諦めないで、と言ってくれた人。本当に好きです。だから——お願いだから」



 涙を流す遥香に、戸惑う司会者が機転を利かせて言う。遥香さんの歌う曲は三曲です。歌う前に感情を入れるなんてさすがですね。では、お願いします。



「聴いて。ラベンダー」



 奏でる声色は、あの時のまま。歌声に乗せる想いもそのまま。僕のために、遥香が寝る間も惜しんで作ってくれた曲。ラベンダー。


 ギブソンのアコースティックギターの奏でる音はリズミカルに。スナップの利いた右手が僅かに震えているように感じた。僕を見る瞳に溜めた涙がほろり、と。力なく咲いたラベンダーは、すぐに枯れてしまうかもしれない。



 曲が終われば、次は僕の書いた歌詞の曲。「Calmy」



 寂寥感たっぷりの歌声に、細い糸が切れてしまうのではないか、なんて感じる繊細な歌声は、ラベンダーの時とは明らかに違う声色。静かに。足音も立てずに君の前から去る僕を許してほしい。君の想いを受けとめられなかった僕は、きっと静かに想いを紡ぐ。君の知らないところで君を想う。穏やかに。




「次が最後の曲です。Phantasm」



 聴いたことのない曲。僕の去った後に作った曲なのだろう。遥香の愛した人は幽霊なのか。幻なのか。消えてしまった恋人は、まるで幻であったように消えてしまった。幻想だったのかもしれない。だけど、幻想と過ごした日々は、今もわたしの中に生きている。幻影のあなたにもう一度会いたい。例え、君が幽霊だったとしても構わない。だから、もう一度現れて。姿を見せて。君がいなければ、わたしは生きていけない——あなたが誰であれ、わたしはあなたを愛している。




 ————いなくなってしまったあなたに捧げます。




「ありが……とうござい……ました。お願い————だから」




 泣き顔の遥香から切り替わるカメラが、ひな壇を映し出す。震えた身体を抑えることなどできなかった。嗚咽を上げる喉の奥底を鎮めることなどできやしない。だめだ。遥香に会っては駄目だ。でも————会いたいッ!!



 気付けば、家の外に飛び出していた。駅に向かって車椅子のハンドリムを漕いで、懸命に進む。雪がちらつこうが、路面が凍っていようが関係ない。ひたすら漕いだ。冷たい空気が肺を満たせば、凍り付くような息。凍てつく皮膚。



 ホームに入れば、段差を上がれずに、四苦八苦する僕を見兼ねた人たちが持ち上げてくれた。優しさに甘えたいわけではないけど、手を差し伸べてくれる人がいる。卑屈になって、僕を愛してくれる人を傷つけてしまう、なんて思っていたけど、傷つけていたのは僕自身だ。一方的に傷つけてしまった。遥香を傷つけてしまった。



 しばらく待つと、ホームに入る新幹線に乗って、スマホで父親にラインを打った。ごめん、やっぱりこのまま黙っていられない。遥香を愛している、と。父親は「気を付けてな」と一言だけメッセージを寄越した。そんな父を心から尊敬している。



 遥香の連絡先が分からないまま、ライブ中継をしているはずのテレビ局の前に停めたタクシーから降りて、車椅子に移乗する。中継など終わっているし、まして、部外者の僕が入れるはずなんてなかった。路頭に迷うとはこのことだ。



 どうやって、遥香を探せばいいのか。彼女の家は知らないし、会う方法がない。



 いや、約束だ。あの時の約束を遥香が覚えていれば——。



 掲示板にWaitと文字を打ち込む。名前はルキア。再びタクシーに乗って向かう先はライブハウス。突然飛び出してきたために、薄着だった。東北地方よりも気温が高いとはいえ、真冬の寒さに耐えられる装備ではなかった。薄いジャージ姿の僕は、外で待つならばなおさら、凍てつく風を凌ぐ方法を持ち合わせていない。



 ライブハウス前で待つこと二時間。遥香の来る気配はないし、当然、僕は去った人間なのだから、そんな僕に構っている暇などないだろう。そう考えれば、自分の行動はなんと無駄なことだろうと、溜息しか出てこない。やがて、震える身体と、棘のような痛々しい風に刺された皮膚は、血の気がないのほど真っ白に。そうしている内に、僕は車いすから前方に落下した。



 失う意識の中で沈む泥の中は、息も出来ずに苦痛に喘ぐ。僕は自分勝手に遥香の元を去って、こうして再び会いたくなった、なんて虫の良い話だ。そう思えば思うほど、泥に呑まれていく。身動きの取れない下半身はもとより、徐々に嵩が増してくる泥に恐怖で押しつぶされそうになる。動けない——動かない。助けて。誰か。



 ————春希くん。大丈夫?



 もがく僕の手を握る遥香の顔は、猫の被り物をして。だけど、微笑む姿が見て取れた。遥香は僕の腕を引き上げて、優しく抱き留めてくれた。




 重い瞼を開ければ、僕を抱き締める柔らかい感触とその熱に、思わず息を呑む。あれ、ここはどこだ。白い壁と天井。繋がれた点滴と緑色の線が波打つモニター。



「もう——心配かけて」



 瞳の中のアンドロメダ星雲を見れば、夢じゃないのかと疑う脳が痺れ始める。だけど、僕の手を握りしめる彼女の手が温かくて、思わず涙が出そうになる。



「ごめん……遥香……ごめん」



 ごめん、じゃ分からないんだよ、と言った遥香が拭う涙を見れば、僕は瞳を閉じた。夢じゃない。現実だったのだ、と。



「春希くんのことは知ってるの。知っていたけど、好きになっちゃったんだから——もういなくならないで」


「なんで……僕のことを?」


「美咲ちゃんに聞いた」


「そうか。でも、びっくりしたよ。あのウェイトレスが遥香だったなんて。すごいビフォーアフターだよね」


「あの万年筆、美咲ちゃんから借りたんだよ」


「じゃあ、あの猫を被ったウェイトレスって……」


「うん。美咲ちゃん。春希くんのことお願いしますって言って貸してくれたの」


「じゃあ、夢の話って……?」


「ずっと君のことが好きで、サイン会にお忍びで行ったんだよ。きっと忘れちゃったよね」



 遥香はすべて知っていた。それでも僕を愛してくれた。僕は長く生きられないかもしれない。だけど、遥香は笑顔で僕を抱き締めてくれて。優しくキスをした。




 遥香が高校を卒業する頃には、すっかり遥香は有名人になっていたけれど、僕のことを想い、仕事をセーブするようになっていた。しかし、僕はそれを望まない。


 僕も作家として、食べるには困らないくらいの収入があった。在宅で過ごせば、遥香と仲睦まじい生活を送ることができた——だが。



 三年後、僕の身体は肺を蝕み、やがて、呼吸器なしでは生きられなくなった。分かってはいたけど、苦しくて、悔しくて。遥香は気丈に振る舞って。



 やがて、宣告された死までの期間は一年。



 だけど、僕は幸せだった。遥香と過ごす日々があと三六五回もあるのだから。




 ————春希くん。君が好きっ。その瞳も、口も、紡ぐ言葉も。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君に捧ぐ詩 Singing a phantasm 月平遥灯 @Tsukihira_Haruhi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ