踊るアニサキス
六田
第1話
「あの仕事、まだ終わってないの?」
オフィス中に中年男の嫌味ったらしい声が響く。
私の前に立つ前田は焼き物のタヌキのような腹を揺らし、周りからの視線も気にすることなくネチネチと文句を言い続けている。実際はタヌキなんて可愛らしいキャラクターではなく脂ぎった中年オヤジであるからなおさら耐えられるものではない。
文句を言う時、相手の行手を阻むかのように必ず前に立つ彼は、名前にもつくぐらいだからよっぽど「前」に思い入れがあるのだろう。
私は、彼のマシンガンのような文句の合間合間にただ「はい」だとか「すいません」だとかの当たり障りのない言葉を挟むことしかできない。人の油断につけ込み、自分の射程範囲に引きずり込んでしまえば、もう離さないぞ、という彼の執念深いタコのような性格はマスコミとして生きてきた中で染み付いてしまった悪癖なのだろうか。はたまた、そんな性格だからこそ部長という役職までのぼりつめたのか。
「まったく、山口クンは仕事が遅いなぁ。香山ちゃんを見習いなよ。」
うっすらと汗をかき、キツい臭いのしそうな口から唾をとばしながらまだ文句をつづけている。遅いもなにも、その香山から押しつけられた仕事を私は片付けているのだ。
部署内で最も若く可愛らしいルックスの香山は部長からも可愛がられており、また、自分の魅力をよく理解している。厄介な仕事は人にやらせ、手柄だけは持っていく。
あの香山と既婚者の部長はどうやらできているぞ、という噂は部署内でもそれなりに広まっているが、今更、だからどうしたという具合にあまり気にもされていなかった。
前田もその他の社員も、香山のわがままを見て見ぬふりで、香山の他では唯一の女性社員である私だけが損をする。もっとも部署内での私の呼び方である「山口クン」から分かる通り私は女性扱いはされていないようだが。
十分もするといつもどおり前田は疲れてきたのか説教のペースは落ち、まったく関係のない方向に進んでいく。
「相変わらず字が細いねぇ、自信の無さがにじみ出している。まるでミミズが這ったような字だ。」
ミミズが這ったような字とは汚い字を指すのであって細い字のことではないと前々から指摘したかったのだが、そんな事を言っても彼はまったく意に介さないだろう。
「いや、ミミズというよりもアレだ。安い刺身なんかに着いてるっていう寄生虫、アレが踊ったようだ。」
そういうと彼は上機嫌に自身のデスクへと帰っていった。うまい例えでも出したつもりなのだろう。
そんないつもの憂鬱な1日がいっぺんする事態が起きた。前田と香山が救急搬送されたのだ。
なんでも昼に二人で食べに行った寿司屋で寄生虫に当たったらしく、死に至るほどではないがかなりひどいものらしい。
二人の不純な関係を隠すつもりもなかったのか。
不謹慎だが、その日はかなり気分良く仕事ができた。
仕事の帰り道にあるスーパーで、普段ならまず選ばないであろう刺身の盛り合わせを手に取り、本日の夕食としたのは単に仕事がスムーズに進んだ嬉しさからなのか、例の二人に対する優越感を感じたかったからなのかはわからない。
自宅の暗い室内に明かりつけ、重い鎧のようなスーツを脱ぎ、部屋着に着替えるとやっと自分の居場所に着いたという安心感を感じることができた。
食卓の準備を済ませ、さぁ刺身を食べようかと箸を伸ばしたその時だった。折り重なった刺身の山から『助けてー』と声がするのだ。いや、そんなはずはない、空耳だ。私はそんなにも疲れていたんだな、と割り切ってしまおうかとも思ったがやはり何度も同じ声がする。
さすがに無視できず箸で刺身の山を崩してみると、そこには特大サイズの寄生虫がいたのだ。いわゆるアニサキスという奴だ。
『どうかわたしを水に入れて下さい』
奴は蛇のように体をクネクネと捻りながら私に語りかけて来た。
とうとう私はおかしくなってしまったのかと、自分の人生が薄っぺらな一枚の紙切れのようにシュレッダーにかけられて、無残に散る様子を想像していた。
全てがどうでも良くなった私は台所へ向かい、缶ビールを一本飲み干すとガラスのグラスに水道水を注ぎ、その中に奴を入れてやった。
すると奴は変形し、幼い子供の描く線だけの人形の様な姿になり、私に感謝のことばを述べるのだ。
『助けていただきありがとうございます。
あとは水道に流していただければ自力で海に帰ります。その前に何か恩返しをさせていただきたいのです。』
寄生虫の丁寧な口調に流され、慣れないアルコールを飲んでいたこともあり私は真剣に恩返しについて考えていた。数分ほどの沈黙が流れ、私はゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、相談にのってくれるかな。」
私は一晩、その奇妙な寄生虫と語り合った。
マスコミとして働き始めた頃は、真実を追い求めることにロマンとカッコ良さを感じ、毎日が楽しかったこと。
ロマンは金にならなかったこと。
結婚しろ、孫が見たいと言っている両親のこと。
初対面の、ましてや寄生虫にしてもどうしようもない話ばかりだったが奴は私の話を遮ることなく聴いてくれた。
私がひとしきり話し終えると奴は、
『繋がれる場所に親がいるなんて素晴らしいことです。わたしたちアニサキスは広い海の中で家族と離れ離れですから二度と会うことはないでしょうし、例えあっても気づかないでしょう。パートナーをみつけるのだって大変です。あなただって決して楽ではないでしょうが諦めなければいつだって誰だってチャンスは巡ってきます。』
『好きだったこと自体が嫌いになったのならいっそのことやめてしまいなさい。
ただ、好きなことができなくなったのが嫌なら、できるように自分の力で変えてしまいなさい。』
先程とは違う、強い口調も交えた返答だった。
こんなふうに会話をしたのはいつぶりだっただろうか。
気付けば、時間はながれ日が昇る時刻となっていた。
『それでは、そろそろわたしを水道に流してください。』と彼女がその話題を持ち出すまで、私は彼女とのやりとりが永遠に続くものだと勝手に思い込んでいた。それほど私は彼女に夢中になっていたのだ。
「そうだね。いろいろ相談にのってくれてありがとう。」
そう言って私は彼女の入ったグラスを台所のシンクへと運んだ。
そこで私はふと、思い出した。
「アニサキスって、踊る?」
彼女は一言、『いいえ、手も足も無いのにどうやって踊るのですか?』と人形の細い外枠をくねらせてジェスチャーを取るようにしていった。それが私たちの最後の会話だった。
彼女は水道へと流れていく。私は寂しさを感じながら職場へ向かう準備をはじめる。
前田と香山は一ヶ月ほど退院してこなかった。その間、仕事効率が落ちるだろうと別の部署から助っ人が送られてきた。
しかし、役立たずが減った我が部署は効率が落ちるどころか仕事はみるみる片付き、一気に社内でも目を見張る成長を遂げた。これを見て上層部も役立たず二人の役立たずたる由縁を理解したのか、これまでの素行を調査し、部長の不倫疑惑と香山のこれまでの仕事に対する態度を白日の元に晒すこととなった。二人は退院して早々にそれぞれ別の部署に飛ばされていった。
私はとにかく仕事を頑張った。自分の力で好きな仕事を取り戻すために。最初からこの仕事にロマンや、カッコよさや、楽しさなんてなかったのではないかと聞かれればそうなのかもしれないが、それでも私はまだ信じて見たいと思っていた。そんな姿に惚れました、と別の部署からの助っ人クンにプロポーズされた。私より三つも年下で容姿の整った彼からの告白を断る理由もなく付き合い、二年後には部長となった彼と結婚式もあげた。
諦めずに幸せを掴んだ私は今でも彼女との一晩を胸に仕事を楽しんでいるだろうか。
踊るアニサキス 六田 @sou-rokuta
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