僕の声は君に届かないけれど。

はないとしのり

僕の声は君に届かないけれど――。


 ――もう何年も前の話だ。


 僕、堤小太郎は、隣の家に住む僕よりいくつか年上の女の子に恋をしていた。

 女の子の名前は、大木さくら。

 彼女と僕は、家族ぐるみで付き合いのあった、いわゆる幼馴染というやつだろうか。

 物心の付いたときには、もうすでに彼女は僕の姉を名乗っていた。

 僕が何かをするたびに、彼女は僕の頭を撫でて褒めてくれたし、僕が何か間違いを起こせば、彼女は厳しく叱ってくれた。

 僕にとって彼女は、姉というよりはむしろ母親に近い存在だったのかも知れない。

 当時の彼女はまだ小学生だったので、母と言うのは失礼だったかも知れないが……。

 長い黒髪をなびかせながら、庭を駆け回る彼女の活発な姿に僕が見惚れるようになったのは、多分彼女が中学を卒業するころだったと思う。

 僕はどうにも言葉が不自由で、周囲の人たちにいつも自分の気持ちをうまく伝えることが出来ずにいた。


「大丈夫、安心して。コタローの言いたいこと、私は分かるよ!」


 けれど彼女だけは、そんな僕のつたない言葉に真剣に耳を傾けて、僕の気持ちを一生懸命に理解してくれようとしてくれた。

 僕はそれが何より嬉しくて、気が付けば彼女に対して幼いながらも淡い恋心を抱くようになっていたのだった。

 その気持ちが、憧れに近いものだということに、僕はおとなになって気付いたけれど、その頃の僕にとって彼女は、本当に何より愛しい存在だった。




 ある日、彼女が高校進学を機に家を出ることになった。

 何でも全寮制の有名私立大学の付属高校に進学するとかで、そのまま大学に進学すればもう何年も帰って来れなくなるという。

 彼女との別れは本当に辛かったけれど、僕は涙をこらえて彼女のことを見送った。

 そしてそれっきり、僕は彼女と会うことはなくなってしまった。

 僕には彼女の行った高校に行くことは出来ない。

 彼女との日々は、幼い日の淡い恋の思い出。僕はそう思っていた。




 だから、まさか数年後に、就職をきっかけに実家に戻って来た彼女と再会するなんて、僕は夢にも思っていなかった。

 けれど、数年ぶりの再会だ。

 高校、大学と通じて、数えきれない出会いと別れを繰り返して来たであろう彼女は、きっと僕のことなんて覚えていない。

 そう思って、家の近所で偶然彼女とすれ違った僕は、うつむいて黙って彼女の横を通り過ぎようとした。


「あれ? もしかしてコタロー? ねぇ、そうでしょ!」


 すると彼女はそんな僕に気付き、笑顔を浮かべてこちらに駆け寄って来てくれた。

彼女は僕のことを忘れてなどいなかったのだ。


「私のこと、覚えてる? 隣に住んでた『さくらお姉さん』だぞ!」


 大好きだった彼女のことを忘れるはずもない。

 そう伝えたいのに、相変わらず僕はうまく言葉を伝えられない。

 やるせない気持ちで一杯になる僕だったけれど、彼女は昔と変わらず、僕の気持ちを汲み取って嬉しそうに笑ってくれた。


「そっかそっか、覚えてくれてて私も嬉しいよ。実は私実家に帰って来たんだよ。またお隣さんってわけ。よろしくね、コタロー!」


 そう言って頭を撫でてくれた彼女。

 頭を撫でられたのは、何だか子供扱いされているようでいい気分はしなかった。

けれど彼女との再会と、僕を覚えていてくれたことが、僕は心底嬉しくてそんな気持ちはすぐに霧散してしまった。




 それからほぼ毎日、僕は彼女と挨拶を交わすようになった。

 彼女が仕事に出かける時間が、ちょうど僕が出かける時間とも重なっていて、


「コタロー、おはよー! 今日もいい天気だね!」


 そんな朝の挨拶が、僕の日課になっていた。

 僕らの間に、特別な何かがあったわけではなかったけれど、心の中で彼女への恋心が再燃するのをもちろん僕は自覚していた。

 けれど、僕はその気持ちを、決して表には出さなかった。

 ある夜、仕事から帰った彼女と偶然出会った僕は、彼女からこんな話をされたからだ。


「あのね、コタロー…… 私、生まれて初めて彼氏が出来たの」


 恥ずかしそうに、でも嬉しそうに…… そう言って笑う彼女に、僕はなんと返していいか分からなかった。

 彼女に恋人が出来た…… けれどそれは当然のことだ。

 これだけ魅力的な彼女のことを、周囲の男性が放って置けるはずもないのだ。

 彼女の話に聞く恋人は、何だか少し束縛が強そうな感じがして、僕としては彼女のことが心配だった。

 でも、その恋人のことを愛おしそうに語る彼女の横顔に、僕は何も言えず黙って彼女の話を聞く事しか出来なかった。

 少し寂しいけれど、僕は大好きな彼女の幸せを心から祈っていた。

 僕にはそんなことしか出来ないと思っていたから。




 泣きながら歩く彼女を見つけたのは、それからしばらくしてのことだった。

 彼女は僕の姿を見つけてバツが悪そうに微笑むと、僕の近くに座り込んで話を始めた。


「……コタロー、私恋人とお別れしたの……」


 鼻をすすりながら、恥ずかしそうに、そして悲しそうに彼女は言った。

 もしかしたら、これで僕にもチャンスがやって来るかも……。

 そんな考えは、残念ながら浮かんでこなかった。

 恋人との最後を語る彼女の横顔は、今まで見たことのないくらい悲しそうに見えたからだ。


「大好きだったの……でも、だんだん彼は私に色々命令するようになってね……誰かと電話してると、『男か?』とか『もう電話するな』とか言って怒るし、ちょっとでもLINEの返信が遅いと、電話がかかって来て怒鳴られたりして……」


 僕の予想した通り、彼女の恋人は非常に束縛の強い男だったらしい。


「もうね、いろいろ疲れちゃって…… 『お別れしましょう』って言ったら、殴られちゃったよ…… へへへ……」


 よく見れば、彼女の右頬は少し赤くはれていた。

 それを見つけて僕が思わず怒りそうになると、彼女は慌てて僕の頭を撫でた。


「大丈夫。もう痛くないし…… ちょっと赤くなっちゃっただけ。私の為に、怒ってくれてありがとね、コタロー」


 そんな風に笑って、彼女はまた鼻をすすった。


「最後の方は、怖くなっちゃってね…… 彼には何も話せなくなっちゃったんだ…… コタローになら、何でも話せるのにね……」


 それから彼女は、恋人にもいいところは沢山あったと話してくれた。

 彼女の誕生日には、手作りのケーキを焼いてくれたこと。

 彼女のわがままに応えて、沢山の無理をしてくれたこと。

 彼女の為に、いつも一生懸命頑張ってくれたこと。

 きっと彼女の恋人は、そんな自分の頑張りに見合う彼女からの見返りを求めてしまったのだろうと僕は考えた。

 彼女が何も返さなかったわけじゃないのだろう。

 こんなにも恋人のことを思っている彼女だ。

 きっと、彼女なりに恋人にお返しをしていたはずだ。

 でも、それらの彼女のお返しがその恋人にとっては、自分が彼女のためにしてきたことに対する見返りとして、ふさわしいものに感じられなかったのだろう。

 好意のすれ違い……。

 お互いが違う人間だからこそ、価値観の差や感覚の差で起きてしまうそれは、当人同士にはもうどうすることも出来ない場合が多いのだと聞いたことがある。


「大好きだったのになぁ……」


 彼女はその目から涙をポロポロとこぼしながら、悲しそうに呟いたきり、声を押し殺すようにして、僕の頭を抱えながらとても辛そうに泣いていた。

 僕は少し首が痛かったけれど、彼女のされるがままにした。

 頭に当たる、彼女のふくよかな膨らみに、僕の心臓が早鐘を打っているのを彼女に悟られないか……それだけを心配しながら。




 彼女はどれだけ泣いていたのだろうか。時計を持たない僕にはわからなかった。


「……ありがと、コタロー。少し元気出た。変な話してごめんね」


 彼女は僕にそう言って、自分の家へと帰って行った。

 その背中は、どうしようもなく寂しそうで、僕は抱きしめてあげたくなったけれど、やっぱり僕にはそんなことはできなかった。


 それからしばらく、彼女は家にこもりきりになってしまった。


 後から聞いた話だけれど、なんでも例の恋人がストーカーのようになってしまったらしい。

 僕は、部屋に閉じこもってしまった彼女に何もしてあげることが出来なかった。

 彼女を元気づけたかったけれど、僕には彼女の家を訪れて、彼女に励ましの言葉をかけることは出来なかったのだ。

 気持ちばかりで、彼女のために何もできない自分に、僕は苛立ちを募らせていた。

 どうして自分はこんななんだと、悔しい気持ちで一杯になった。

 でも、どうしようもない現実が僕の前に立ちはだかって、結局僕は彼女のために何もできないまま数日を過ごしたのだった。




 ある夜。

 僕は視界の端に人影を捉えた。

 たまたま見ていた彼女の家に、忍び込もうとする怪しい人影があったのだ。

 僕は家を飛び出して、その人影を物陰から息をひそめて観察した。

 中肉中背の短髪の男性だった。


「さくらは…… さくらは僕のものだ…… 僕のものなんだ……」


 ブツブツとつぶやく言葉に、僕は確かに彼女の名前を聞いた。


「絶対に誰にも渡さない…… 僕のものにならないなら、いっそ……」


 直観だった。

 何か証拠があった訳でもない。その顔に見覚えがあった訳でもない。

 でも、分かった。

 この男は、彼女の話していた恋人だと、そのとき僕は確信した。

 直後、その男は彼女の家の塀に上り、二階の彼女の部屋の窓に手を伸ばした。


「うわぁっ!? なんだお前は! どこから出て来た!」


 気が付いたときには、僕はその男に飛び掛かっていた。

 バキバキバキッ!

 大きな音を立てて、塀の向こうの彼女の家の庭に生えていた木の枝が、僕と男の重さで折れて落ちた。

 続けて僕とその男も、ドシンッと大きな音を立てて地面に激突する。


「くそ! なんなんだよ! 何でお前は僕を襲うんだ! あっちに行け!」


 僕のことを蹴りながら、男は必死に叫んだ。

 でも、僕は無我夢中でその男に何度も飛び掛かった。

 そのたびに、腹や足を蹴られる。

 体格で劣る僕は、男の攻撃で簡単に吹き飛ばされてしまう。

 けれど、僕は無謀な突進をやめなかった。

 僕がここで諦めたら、この男は彼女に何か危害を加えるつもりだと分かっていたからだ。


「くそ! こうなったら!」


 男がそう言った直後、男が取り出した何かが月明かりを反射して光ったのが見えた。


「これでも喰らえ!」


 そう言って男が突き出した手には、ナイフが握られていた。

 直後、脇腹に燃えるような激しい痛みを感じた。

 見ると、そこには男の突き出したナイフが、深々と刺さっていた。

 痛い、痛い、痛い。

 激しい痛みが僕の全身を襲った。

 刺されたのは脇腹なのに、何故だか全身が痛かった。

 でも、ここでこの男を逃がせば、今度はあのナイフで彼女を襲うに違いない。

 僕は震える足に力を込めて、もう一度男に飛び掛かる。

 ふと、彼女の家に明かりが灯った。

 玄関から、彼女のお父さんが飛び出してくる。

 気が付けば、僕の家の人たちも出て来ていた。


「離せ! 離せって言ってるだろ!」


 大きな声で叫ぶ男は、駆けつけてくれた彼女のお父さんが取り押さえてくれた。


「こいつナイフを持ってるぞ! 血が付いている…… コタロー大丈夫か!?」


 心配そうに叫ぶ彼女のお父さんの声が、だんだん遠ざかっていく。


「コタロー! ねぇ、コタロー! 返事して! コタロー!」


 彼女の声も聞こえる。

 良かった、ずっと出てこれなかった部屋から出て来れたのか……。

 徐々に暗くなっていく世界で、僕を抱きしめる彼女の腕のぬくもりと、彼女の声を感じながら、僕の意識はだんだん遠のいていった。

 ああ、僕はもう死んでしまうのかも知れない。

 そんな風に冷静に考える自分がいた。

 彼女が無事でよかった。

 彼女のために死ねるのなら、それは本望だ。

 僕のために、泣かないで欲しいと思った。


「コタロー! お願い、死なないで!」


 僕も出来ればそうしたい。そう思ったのだけれど……。

 次の瞬間、まるでテレビの電源を切ったときのように、ブツリッと世界が断絶した。




「コタロー? コタロー、私が見える?」


 目覚めると、どうやらそこは病院のようだった。


「先生! コタローが、コタローが目を覚ましました!」


 嬉しそうに叫ぶ彼女。

 その声に呼ばれて、優しそうな初老の医師が僕のところへやって来た。


「……うん、そうだね。意識は回復したようだ」


 僕の目にライトを当てて、体を色々触って確認した後、医師は笑顔を浮かべて彼女にそう言った。

 その辺りでやっと、僕も朦朧とした意識の中でここがどこなのかを理解する。

 医師の胸に施された刺繍の文字を見て確信した。


『大和アニマルクリニック』


 そう刺繍で書かれた白衣を着ている医師は、僕のかかりつけの動物病院の大和先生だった。

 どうやら僕は、命拾いをしたらしい。

 僕はいつものように、大和先生に感謝の意を告げようとしたが、上手く声が出せなかった。


「しばらくは安静に…… それと、残念なお知らせがあります」


 大和先生は、僕の家族と彼女に、申し訳なさそうに続けた。


「少し処置が遅かったんです…… 彼は血を失い過ぎてしまった。後ろ脚の筋肉に命令を送る神経のダメージが激しくてね…… おそらく、彼の後ろ脚はもう動かないでしょう」

「……そんな……」


 大和先生の話を聞いて、彼女は今まで見た中で一番大きな声を上げて泣き崩れてしまう。


「ごめんね、コタロー…… 私のせいで……」


 そうって泣く彼女の頬を、僕は舐めて涙を拭った。

 僕と彼女では寿命も違う。

 人の年で数えれば、僕は彼女よりも年下だけれど、僕の寿命から考えれば僕に残された時間はおそらくもうそう長くない。

 だから、後ろ脚が動かなくても仕方がないと思った。


「彼の介護には覚悟がいりますよ?」


 大和先生は、重々しい声でそう言った。

 でも、


「私が、責任をもってコタローの介護をします。おじさん、おばさん、お願い…… 私にコタローの介護をさせて?」


 ショックで言葉を失っている僕の家族より先に、彼女がそう言ってくれた。

 最初は僕の家族も、彼女が僕を引き取ろうとすることに反対した。


「そんな迷惑をかけられない」


 僕の家族は何度も彼女にそう言った。

 でも、彼女の意思は固く、最後は僕の家族が折れる形で、僕は彼女に引き取られた。

 僕もやっぱり申し訳なかったけれど、それ以上に嬉しかった。

 大好きな彼女と、僕は残りの時間を共に過ごせるのだ。

 これ以上の幸せはない。そう思った。

 

 それから、もう数年が立った。

 歩けなくなってしまったけれど、彼女と共に過ごす日々は僕にとってかけがえのない幸せな日々だった。


 僕の言葉は決して彼女には届かない。

 けれど、僕はこの残りの短い時間を、大好きな彼女と共に生きていく。

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僕の声は君に届かないけれど。 はないとしのり @Hanai-Toshinori

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