第2話 「バカ!」 鋭い痛みが頬を駆けた。

 午後になって俺はもう一度病院に向かった。

 ひどく体が重い。

 手荷物は何もないはずなのに。


 電車に揺られる時も、道を歩いている時も、どこか上の空で。

 ただただ、病院に向かわなければという感じで。


 ひたすらに俺は、憎たらしいほどに綺麗な青空を眺めて歩いた。


心優みゆ、元気か?」


 病室に入って俺は心優に声を掛けた。

 もちろん返事はない。


 俺は近くにあった椅子を近づけて腰を下ろす。

 午前中に俺が持ってきたお菓子以外にもいろいろ物が置いてあった。

 琴羽ことはとか真也しんやさんとか誰かが置いて行ったのだろう。


 俺はもう一度心優の名前を呼ぶ。


「心優」


 静かな病室。

 廊下やそれ以上遠くのどこかから話声や物音が微かに聞こえる。


「家に帰るとさ……誰も、誰もいないんだよ……」


 心優の頭を撫でる。


「なんか、冷たいんだよ……家がさ……」


 撫で続けても、心優はまったく動かない。


「俺、どうすればいいんだよ……」


 そう問いかけても、心優は答えてくれない。

 手を握っても、もちろん握り返してくれなかった。


「俺、今……一人だ……」


 病室は静寂に包まれていた。



※※※



 しばらくしてから俺は病室を後にして家路についた。

 玄関の鍵を開けて中に入る。


「ただいま」


 ひんやりとした空気を思い出す。

 しかし、思っていた空気をなぜかこの時は感じなかった。


 俺は洗面台に向かって手洗いうがいをする。

 これは習慣になっているようだ。


 キッチンに向かおうと思ったが腹が減っている気がせずにやめた。

 そのまま部屋に向かう。


 特に何をするわけでもなくベッドに寝転んだ。


 ただただ時間が流れていく。

 本当に俺はこんなことをしていていいのだろうか。

 この間も心優は眠り続けている。


 眠り続けている原因は未だにわからない。

 近くにいなくていいのか俺は……。


 でも……でも……。


「父さん……母さん……」


 父さんと母さんがベッドで眠っている間、俺は何もすることができなかった。

 声を掛けても、手を握っても何も返ってこない。


 ただただなんでと思い続けた。


「俺は無力だ……」


 心優に何かをしてあげることなんてできない。

 たとえ俺が近くにいたって心優が助かるわけじゃない。

 心優が目を覚ますわけじゃない。


 頭を撫でても動かないし、声を掛けても返事はないし、手を握っても握り返してはくれない。


 悔しくて悔しくてたまらない。


 ただこの世の理不尽を呪うことしかできないのだから。


「なんで……」


 なんで俺の家族ばかりなのか。

 そんな疑問が再び頭の中に浮かんでくる。


 なんで父さんだったんだ。

 なんで母さんだったんだ。

 そして、


 なんで心優だったのか。


「事故にあったのが、心優じゃなくて俺だったら……」


 そこから先は言葉にならなかった。

 唇を強く噛み締める。


 とても痛かった。



※※※



 気づいたら朝になっていた。

 時計を見てみるとかなりいい時間だった。

 そろそろ準備を始めないと学校に間に合わない。


 でも、俺は動く気になれなかった。

 そのままベッドに寝転んで時間が過ぎていく。


「はぁ……」


 これで心優のところに行って、真也さんたちに会ったら怒られてしまうだろうか。

 いや、そんなこと関係ないか……。


 俺は起き上がって準備をする。

 歯を磨き、顔を洗い、着替えて家を出る。


 向かうのは学校ではなく病院。

 学校に電話をするのを忘れたと思ったが、なんだかどうでもよかった。

 そのまま電車に揺られ、病院に向かう。


 病室の扉を開けると、昨日と何も変わらない。

 心優は眠ったままだった。

 道具はちょっと増えているだろうか。


 俺は近くの椅子を近づけて座った。


「心優……」


 もし、心優が起きたらなんで学校をサボっているのかと怒られそうだ。


「学校、サボっちゃったよ」


 そう言っても、心優は怒ってはくれなかった。


「…………」


 ただただそのまま時間が過ぎていく。


 これ以上はどうしようもないと思い、家に帰ることにした。

 時刻はだいたいお昼頃。

 今頃、学校では四限が終わって昼休みに入る頃だろうか。


 家に着いてベッドに横たわる。

 キッチンに行こうとも思ったが、やはり何も食べる気にはなれなかったのでやめた。


 しばらくボーっとしていると、スマホに通知が入っていることに気づいた。

 うららや琴羽からは当然メッセージが来ているのだが、真也さんからもメッセージがあった。


『心優ちゃんのことは学校に連絡しておいたよ。康太こうたくんのことについては学校から連絡が来た。つらいだろうけど、学校にはちゃんと行かないとダメだよ』


 とのことだった。


 そうだな。

 どうせ心優のところに行ったって俺にできることは何もないんだからな。


 本当に無力だ。

 俺は何をしているんだか、何をしていればいいんだか。


 何をしていたんだか。


 もう、どうすればいいのかなんてわからない。

 ただただひたすらに、時間が解決してくれることを待つしかない。

 あの時もそうだった。


 あの時は時間が最悪の方に解決をした。

 こんな世の中、理不尽だ。

 あまりにも。


「くそ……」


 枕をぎゅっとしても、叩いても、現実は何も変わらない。

 心優が目覚めるのを待つ以外にはなかった。


 その間に、俺にできることは何もない。


「俺は、何もしてあげられないんだ……」



※※※



 気づいたら今度は外が暗くなっていた。

 日付は変わっていないらしい。スマホがそうだと教えてくれた。


 顔を洗おうと階段を下りる。

 なにやら違和感があったが、誰かがいる気配もない。

 俺は顔を洗ってから部屋に戻った。


 そしてまたベッドに横たわる。

 このまま起きていても無力感に押しつぶされるだけ。

 心優が目覚めるまで眠り続けられたらいいのに。


 どんなに願い続けても、どんなに思っていても、誰も答えてくれない。


 もし心優が目覚めなかったら? お前も眠り続けるのか?

 そう。俺も眠り続ける。

 そうしてどうなる? どうするんだ?

 どうにもならない。どうもしない。


 得体のしれない恐怖に包まれ怖くなった俺は、ベッドで布団に包まった。

 そうして震えながら朝が来るのを待った。



※※※



 窓から明るい日差しが差し込んでいる。

 朝になったらしい。


 ボーっとする頭を必死に働かせ、ベッドから体を起こした。


 カタン。

 と、何か物音がする。


「……?」


 俺は部屋の扉を開けて階段を下りる。

 段々と音が大きく聞こえるようになってきた。


 そして、物音だけじゃなく、人の声が聞こえることに気づいた。

 しかも、一人じゃない。


「誰だ……?」


 俺は少し警戒しながらキッチンの扉を開ける。

 部屋の中にいた人物は、俺を見て驚いたような顔をした。


「康太……」

「康ちゃん……」


 そこにいたのは麗と琴羽だった。

 琴羽が俺の家の鍵を持っているので、それで入ってきたのだろう。


 二人とも少し固まってから、麗が先に動き出す。

 麗は黙って俺の傍まで歩いてきた。


 何をするつもりなのかと思った。


「麗、何を……」


 声を掛けた瞬間。

 頬に強い痛みが走った。


「ちょっと! ららちゃん!」


 琴羽の悲鳴に近い声が聞こえる。


 あまりの痛みに頬を抑えながら麗を睨む。


「なにすっ……!」

「バカ!」

「っ!」


 俺の言葉は途中で出なくなってしまった。

 だって目の前には、唇をぎゅっと噛み締めながら涙を堪える彼女の姿があったから。


「心配したのよ! 連絡しても何も返ってこないどころか既読も付かないし! ことちゃんが置いたご飯も食べてないみたいだし!」


 俺はそう言われてテーブルを見る。

 そこには、見覚えのないタッパーが置いてあった。


「学校勝手に休むし! もう……! 心配……したんだからっ……」


 そこまで言うと、麗は泣きながら崩れ落ちてしまう。

 麗に視線を戻す。

 麗は泣きながらも、怒っているような、どこか安心しているような、そんな表情をしていた。


 琴羽の方を見る。

 琴羽は、悲しそうだが、怒りたい気持ちを抑えているように見えた。


 俺はすっかり忘れてしまっていたらしい。

 両親が事故に遭った後、助けてくれたのは誰だ?

 学園祭の時、支え合って助け合って、今は一緒に肩を並べて歩く子は誰だ?


 そして今、心配そうに俺を見つめて、そうして怒ってくれたのは誰だ?

 ほかでもない、麗と琴羽なんだ。


 俺は、一人じゃないんだ……。


 でも、それでも……。


「俺にできることは、何もない……」

「だからバカだって言ってるのよ!」

「ちょっとららちゃん……落ち着いて……」

「落ち着いてなんかいられないわよ! 琴羽もなんか言ってやりなさいよ……!」

「っ……」


 立ち上がった麗は琴羽の方を向く。


「心配なんだったら無理やりにでもご飯食べさせなさいよ! 置いていくだけじゃダメなのよ!」

「だ、だって康ちゃんが一人にしてって!」

「本気で言ってるの!?」


 こちらからではわからないが、麗はたぶん、琴羽のことを思いっきり睨みつけている。


「それで康太が! 一人で勝手にいなくなったらどうするのよ!」

「そんなこと言われたって……」

「何よ! 言いたいことがあるなら言いなさ――」

「私だってどうすればいいかわからなかったの!」


 俺は思わず息を飲んだ。


 昔、両親が亡くなった後、琴羽は俺と心優にどうしてくれていただろうか。

 必要以上に一緒にいてくれ、ご飯を食べなければ、学校に行かなければこれ以上ないくらい怒ってくれた。

 でも今の琴羽は、俺に絡んでくることは全然なかった。


「だって康ちゃん……すごい目でこっちを見たの……。もう、どうしたらいいかわからなくなって……。でも、助けなきゃって……。私にできることをしなきゃって……」

「琴羽に、できること……」


 琴羽は俺を、俺たちを支えてくれて……。

 今も、こうして麗と俺を心配して……。


 でも俺は、心優に何もしてあげられなくて……。


「俺は……」

「あんたはいつまでそうしてるつもりなの?」

「麗……。でも俺には、できることは何も……」

「だからご飯も食べないでいたって言うの? ふざけるんじゃないわよ!」

「っ!!」


 もう一度俺を叩くような勢いで、しかも今度は拳を振り下ろす。

 しかし、その拳は俺ではなく、麗自身のふとももに叩きつけられていた。


「心優ちゃんが目覚めた時! あんたがいなかったら誰が心優ちゃんにおかえりって言ってあげるのよ!!」


 一瞬、呼吸が止まったような気がした。


 そうだ。

 俺がご飯も食べずに、何もせずにいて、普通にしていられるわけがない。

 その時、心優が目覚めたら……。


 俺が今度は倒れていた可能性だったある。

 心優が倒れたあの日からほとんど何も食べていない……。

 俺が倒れていてもおかしくなかったんだ。


「心優ちゃんはたしかに眠り続けてるかもしれない! でも! 目覚めた時にあんたが倒れてたら意味がないのよ! まだ目覚めないって決まってもないのに勝手に諦めてるんじゃないわよ!」


 麗はこちらにグッと近づいてくる。

 そうして、俺の胸倉を掴む。


「ここまで言ってもわからないようなら! あたしはあんたとなんか――」

「麗ちゃん!!」


 琴羽が大きく叫ぶ。

 麗ははっとした顔をした後、俺の胸倉から手を離した。


「ごめん……」


 麗はそっと俺から目を逸らす。

 俺は、気づいたら泣いてしまっていた。

 頬を伝う暖かい涙。


 止めることなんてできなかった。


「こ、康太……」

「康ちゃん……?」


 俺はこんなことすら忘れていたんだな……。


 俺のことをここまで心配してくれる大好きな彼女と、昔から支えてくれた大事な幼馴染。


「麗、琴羽……」

「なに……?」「ん……?」


 涙ぐみながらも、必死に声を絞り出して二人に告げた。


「一緒に、お見舞い……行ってくれないか……?」


 それを聞いた麗と琴羽は、顔を見合わせてから同時にこちらへ向き直った。


「なら、さっさとご飯食べましょう」

「康ちゃん、お皿出してね?」


 そうして二人はテキパキと準備をする。

 俺は袖で涙を拭ってから二人の手伝いに走った。

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