第58話 タバコの煙が
「マジックショー?」
は?
桜坂くん……いきなりなに?
なんでマジックショー?
「やっぱ驚くか。いきなりマジックショーなんて、斜め上過ぎるよね」
「斜め上なんてレベル越えてるって」
「ははは。でも、だって僕マジシャンだから」
…………は?
マジ、シャン?
「え? マジシャンて……誰が?」
「僕だよ。僕の職業。マジシャン。そしてこれは僕のマジックショーのチケット」
言葉が出ない。
桜坂くんがマジシャンになってるの?
どういう風の吹き回し?
とりあえずチケットを受け取ったものの、まだ信じられない。
「それ二枚あるからさ、だれか友達誘ってきなよ。中本さんには見せたいって言うか、見てほしいっていうか」
桜坂くんは頬をぽりぽりと掻きながら、
「あんなことを言ってしまった中本さんには、好きなものを仕事にできたいまの僕を、覚悟を決めた僕を見せなきゃいけないって思ったから」
それを言い終えた桜坂くんの顔は、大人の男の顔だった。
高校生のころの桜坂くんとは明らかに異なっている。
さらに格好よくなっていた。
「好きな、もの」
「そう。周囲の目を気にしすぎてた過去の僕とも、安定や常識を捨てる勇気がなかった僕とも違う僕になったってのを、見てほしくて」
「おっ! 雄心こんなとこにいたのかよ! さっさと戻って来いよ!」
ちっ、邪魔だな。
後ろからその声が聞こえた瞬間、私は心の中で舌打ちした。桜坂くんの男友達がやってきて、彼の肩に手を回す。ああ、精悍な顔つきが壊れた。ふにゃりと笑った顔もそれはそれで可愛いけれど。
「おい
「なんだよいいじゃねぇか。もっと俺の愚痴聞いてくれよ」
「他のやつでいいだろ」
「くそぉ! 俺が
「うっせぇ! 拓だけは取られたくなかったよ」
その瞬間、本当に酔いが覚めた。
そっか。
そうだよね。
こんな格好いい男を、女が放っておくわけないもんね。
「八年もつき合ってとかふざけんなよ! 早く別れろ別れろって念を送ってたのに!」
「それ友達として最低だな!」
「最低じゃねぇよ! 負け惜しみなんだよ! 祝福してんだよ!」
「公衆トイレもびっくりの汚い祝福だなそれ」
「負け犬の祝福が綺麗なわけないだろ!」
結婚。
桜坂くんはもう私のことを好きじゃなくて、私以外の人と結婚する。
言うタイミングを逃してしまった言葉は二度と言えないものだ。
私は青春時代に一度逃している。
だからここでも言うことはできなかったのだろう。
まあ、それでいいのかもしれない。
単なる負け惜しみかもしれないけど、そういうものか。
彼は私の知らない十年間で、私の知らないことをたくさん経験して、こうして大人の男になった。ドMのままだけど。誰かと一生を添い遂げる覚悟を決められるくらい、誰かを本当の意味で愛せるくらい、自分の気持ちを本当の意味で愛せるくらいの男になった。ドMのままだけど。
マジックが好きなことすら知らなかった私が、卒業してからいままでの十年間のうち八年も彼の人生を見てきた女性に太刀打ちできるわけがない。
そもそも彼が高校生のころと変わっていないって、どうして私はそんなことを思っていたのだろう。
きっとそれは、恋と青春の残り香が見せてくれた幻想だ。
だって彼は、こうして大人の男になっている。
もう私の知っている、ドMなだけだった高校生の彼じゃない。
天才なだけだった彼じゃない。
心の中にわだかまっていた残り香が完全に消えることはないけれど、伝えることができなかった言葉が心の中に残っているけれど。
ふっきれた。
こういう生き方も、ありかもしれない。
青春とは後悔だから。
それが簡単に取り戻せるような後悔なら、私の青春は陳腐に成り下がってしまう。
取り戻せないからこそ、その一瞬一瞬がかけがえのない宝物になる。
だからこそ、青春は意識して使えよ。
これからの若人ども。
私みたいな人生も悪くはないけれど、私のようにはなるな。
陳腐でもいいから、一生懸命楽しめ!
気がつけば、桜坂くんは友達の男に引っ張られて居酒屋の中へ引き込まれそうになっていた。ドアが閉まる直前でこちらに視線をよこして、
「絶対来てくれよ」
そのまま居酒屋の中に消えていった。
「来てくれよ……か。行くわけねぇだろバーカ!」
だってもう私はふっきれている。
高校生のころの私たちの目の前には、二人が交わって生きていく道が広がっていた。だけど私たちはそこへ足を踏み入れることができずに別れた。私は彼と、彼は私と決して交わらない別の人生を歩んでしまった。
人生とは選択の連続なのだから仕方がない。
マジックなんか見なくたって、彼がもう変わったことを知っているから。
このチケットは、あいつらに押しつけよう。
ちょうど二枚あるし。
デートにぴったりだ。
「あーあ、こういうときのタバコだよなぁ」
ポケットから煙草とライターを取り出し火をつける。ゆっくりと煙を吸い込んでそっと吐き出す。
「あー、すげーうまいなぁ」
その煙草は、まるで初めて吸ったときみたいに煙たくて、久しぶりに目に沁みた。
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