第57話 まだ私は酔っている


 大学時代の飲み会で一回しか飲んだことのないファジーネーブルを今日だけで五回も頼んでいる。


 地元にある居酒屋の宴会用の個室。元三年四組のクラスメイトのうち、今日出席している十八名が、中央の掘りごたつを囲むようにして座っている。


 その誰もが、変わっていた。


 もちろん、誰が誰だかわかるくらいの面影はある。


 それでも高校生の頃より太っていたり、表情が柔らかくなっていたり、髪が短くなっていたりと、長い長い十年という年月の重みが、元クラスメイトたちの身体や顔からにじみ出ていた。


 しかし、彼だけはまるでタイムリープしてきたかのように、あの日のままだった。


 学生服を着ていたらきっと高校生として通用する。彼の隣には、彼と仲が良かった男子が集まっていてなかなか割り込めそうにない。やっぱり「俺は一生ドMだから」なんて道化を演じている。私の周りにも、私と仲の良かった女子が集まっているから動けそうにない。


 ま、その二つの状況が改善されても、桜坂くんの隣に行ける気はしないけれど。


「そういや俺さ、年収一千万超えてんだよね」


 そんなことを考えていると、一人の元クラスメイトが桜坂くんに近づいていった。高校生のときに取れなかったマウントを取ろうとしているんだとすぐにわかった。


 それに対して桜坂くんは、


 「ははは、それはすごいね」


 と笑顔で返した。


 肩書きという小さな山専門の登山家は、天才だった桜坂くんが賞賛してくれたことで顔をにやつかせる。


 それで桜坂くんの上に立ったと思ってるのか。


 ああー、あいつの顔に硝酸かけてー。


 大人の対応を見せた桜坂くんの方がよっぽど素敵だわ。


 それから一時間ほど経った。


 私は酔いを覚まそうと居酒屋の外に出た。いま覚まそうとしている酔いは、アルコールによるものか、それとも青春時代の残り香によるものか。


 目の前の大通りにはいくつもの車が走っている。


 上着を着てくればよかったと思うくらいには肌寒い。


 けれど中に戻ろうとも思えず、車道を走る車と歩道を歩く人間たちをぼんやりと眺めていた。


「ずっと、酔ってたんだな、私」


 ポケットに入っているタバコに、そのポケットの上から軽く触れる。


 タバコは、どんなみじめな瞬間も少しだけ格好良くしてくれるから好きだ。


 だけどいまはちっとも吸おうという気になれない。


「酔いつぶれてしまえなかったんだな」


 青春にも、恋にも、彼の前でも。


 ひときわ強い風が吹き髪がなびく。思わず身体を縮こまらせた後で、

 

「熱燗のみてぇなぁ」


 嘲るように笑いながら、そうつぶやいたときだった。


「へぇ、中本さんって熱燗とか好きなんだ」


 背後の居酒屋の引き戸のガラガラという音とともにそんな声が聞こえてきた。その不意打ちのせいで顔が一気に熱くなる。冷静と興奮が身体の中を行ったり来たり。お酒による酩酊感は一瞬にしてどこかへ吹っ飛んだが、酔っているとき以上に頭が働かない。


 緊張して身体が動かず、振り返ることも声を出すこともできなかった。


 彼が私の右隣に立ったことはかろうじてわかった。


「酔い覚ましてるの? でもここ寒くない? 大丈夫?」


 私の顔を覗き込むようにして尋ねてくる桜坂くん。少しだけ顔をそむけてしまう。直視できない。早くなにかしゃべらないと。


「……寒いから、あったかいの飲みたくなったんだよ。熱燗」


 唇がぱさぱさだ。


 なんでこんな時に。


 化粧直ししとくんだった。


 なんで右側だけこんなにも熱いんだ!


「そっか。でもファジーネーブルより熱燗の方が中本さんらしいよ」

「桜坂くんは? お酒、飲めないの?」


 今日、彼はずっとウーロン茶を飲んでいたからそう聞いてみた。


 ……あれ?


 なんで私がファジーネーブルばかり飲んでいたのを知ってるの?


 もしかして見てくれてた?


 気にしてくれてた?


「僕ってお酒弱くてさ。すぐ酔いつぶれちゃうから今日は自制」

「桜坂くんもらしいじゃん。お酒弱いの」

「男なのに弱いって、格好悪いよね」

「お酒の弱さをコンプレックスに感じるのは万年発情期バカの大学生くらいだよ。いい大人は自制するのが普通」

「ほんとに痛烈だなぁ。その罵倒すごく心地いい」

「まだドMやってたのかよ」

「あれ? 一生ドMって言わなかった? ベストドMニスト賞狙ってるんだけど」

「そんな賞が作られてたまるかよ」

「あはは、中本さんのドSも一生ものだね」


 桜坂くんが笑ってくれて、少しだけ場が和んだと感じた。まだ彼の顔を見る事は出来ないけど、私の隣にはたしかに桜坂雄心という男が立っている。青春の残り香が、私の火照った身体を甘く包み込んでいく。


「だからさ、中本さん。あの日は……ほんとごめん」


 その瞬間、全身がぞわりと粟立った。


 思わず彼の方を見てしまう。


 彼はチノパンのポケットに両手を突っ込んで、夜空を見上げていた。


 その横顔は、完全に大人の男だった。


「きっと僕は中本さんの言う通り、驕ってたんだと思う。勉強が人よりできるから」


 桜坂くんは資料室で喧嘩をしてしまったことを謝ってくれているのだ。あれはただの私の逆切れなのに、あの日のことをずっと気にしてくれていたのだ。


「……私も、あのときは桜坂くんの気持ち考えてなかった。ごめん」


 あれ?


 なんかしゃべり方わかんなくなってきた。


 いつもどんな感じで喋ってたっけ?


 私が気づいてないだけで酔いが回ってきた?


「中本さんはほんとに悪くないって。でもよかった。ずっと気になってたから、今日来てよかった」

「私も、あの日からずっと後悔してた」


 右足を少しだけ彼の方にずらす。


 それだけでかなりの勇気を消耗した。したけれど、いまなら私は。彼が勇気を出して謝ってくれたように私も。


 私がわざわざ同窓会に来たのは、彼に謝罪をしたかったからではない。


「あの」

「そういえば、これ」


 私の小さな小さな声を上書きしたのは桜坂くんだ。彼がジャケットの内ポケットから取り出したものが私の目の前に差し出される。


「……ん? チケット? なにこれ?」

「マジックショーのチケット」

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