第56話 本当に頭のいいやつは
「いや、でも中本さんだって頑張れば」
「頑張らなくても入れるやつに言われたくないよ!」
ぎろりと桜坂くんを睨みつけると、桜坂くんは顔を引きつらせながら後ろにたじろいだ。
「大体なんだよさっきのは。センター僕はまあまあだっただ? ふざけんな。お前のまあまあと私のまあまあは違うだろ!」
天才と私のまあまあが一緒なわけがない。
私の上出来は、彼のまあまあにも及んでいない。
「それになんだよ。一緒に頑張ろう? なんでも聞いて? お前は頑張らなくても合格確定だろうが。センター終わりの大事な時期に、私みたいな出来損ないに教える時間をとっても合格できるっていう自慢ですか?」
ああ、なんてひどい八つ当たりを。
「そんなにできない私をいじめて、侮蔑して、見下して、お前の方が超ド級のSじゃないか!」
でも仕方ないじゃないか。
だって桜坂くんは学年一位。
私は、そんな学年一位の桜坂くんに教えてもらっているのに、全然桜坂くんに追いつけないのだから。
絶対に私の方が勉強しているのに追いつかない。
桜坂くんは、私が解けない問題を私が思いつかないような斬新な方法で解いてしまう。
その発想力は私にはない。
私も確実に習っている法則や定理しか使っていないのに。
私はとにかく無知だったのだ。
上から二番目のクラスには成績に上限がある。
でも一番上のクラスには上限はない。
青天井。
だから想像を絶する化け物がいることがある。
上から二番目のクラスのラスとトップの距離が二メートルくらいだとすると、一番上のクラスのそれは、まさに地球と海王星ほどの差だ。手を伸ばしたって絶対にその高みには届かないとわかってしまう、圧倒的な差がある。
ほんと、こんなことなら桜坂くんと一緒に勉強なんかするんじゃなかった。
近づいたばかりに彼との絶望的な差を思い知らされる。
届かない。
どんなに頑張っても届かない。
なんで? どうして? おかしいじゃん!
私はこんなに頑張ってるのに!
いつしか私は桜坂くんに嫉妬していた。
だから私は桜坂くんと一緒に勉強するのを辞めたのだ。
「大体おかしいだろ! 私には学者になりたいっていう明確な夢があるのに、お前にはそれがない。理由が『まあ、東大かなぁ……』なんてふざけんなよ。なんでそんな奴に才能があって私にはないんだ。ずっと無駄なあがきをしてる私を見て憐れんでたんだろ。優越感に浸ってたんだろ」
「そんなことないよ。僕はずっと」
「じゃあどうして!」
奥歯をぐっとかみしめた。いまにも泣きそうな顔をしている桜坂くんを見ていられなくて、床に視線を落とす。開かれた状態の赤本が視界に入った。そのページに書かれてあるどの問題の解き方もわからなかった。
「どうして、私と一緒にレベルを下げてくれなかったの?」
嘘つき。
嘘つき嘘つき嘘つき。
私と一緒の大学に行きたいんじゃなかったの?
東大に入りたい理由なんかないんでしょ?
だったらどうして、『じゃあ僕もその大学にしようかな』って言ってくれなかったの?
「だったら僕が……」
桜坂くんがようやく口を開く。
「君のために志望校を下げたら、嬉しい?」
その声は震えていて、とても冷たかった。
いつだって前向きな言葉をかけ続けてくれていた桜坂くんの、こんなにも冷たい声を初めて聞いた。
「それは……」
さっきまで嘘つき、と思っていたくせに、私は即答できなかった。
肯定できなかった。
なにも言えなくなった。
だって私のためにそんなことされたら……いやだ。
そんなの、いやだ。
凡人がどれだけ頑張っても敵わないような才能を与えられた人間が、どれだけ努力したって行けないやつがいる高みへ行ける人間が、凡人の私と一緒の大学に行きたいなんて、好きな人と一緒の大学に行きたいからなんてふざけた理由で志望校を下げるなんて、許されるわけがない。
ずるいよ、桜坂くん。
私の方が悪者みたいで、めちゃくちゃ惨めじゃん。
「やっぱり中本さんだってそうじゃん」
ただ、この時の私は気がついていなかった。
この場合の沈黙がなにを意味するのかを。
即答できなかったことで、桜坂くんがどんな気持ちになったのかを。
「結局みんなそうなんだ。僕はいつだって妬まれて、悔しがられて、羨ましがられて。勝手すぎるよ。小学生になったらみんな必ずやらなくちゃいけない勉強の才能があったから、自分で選んで始めたわけじゃないのに」
桜坂くんが下唇をかみしめるのが見えた。
その諦観が滲んだ表情に、ぞっとさせられる。
「T大に行ける人はT大にしか行けないんだ。そこ意外を選ぶことを周りが許してくれない。行けない人の気持ち考えたことある? なんて言われる。考え直せと説得され続ける。許されないんだよ」
桜坂くんの言葉はどんどん鋭くなっていく。
望まぬ期待に応えられてしまう彼は、その生き方しかできないのだ。その期待を向けている周囲の人間は、彼が期待に応えないことを裏切りと思ってしまうのだから。
「親も、じいちゃんばあちゃんも、妹も、親戚も、先生も、同級生も、塾の友達も、中本さんだってそうだ! 勝手に浮かれて、勝手に嫉妬して、勝手に怒鳴って! ひどいのはどっちだよ!」
桜坂くんの目には涙が浮かんでいたと思う。
ただ私がしっかりと目を合わせる間もなく、桜坂くんは資料室を飛び出してしまったから、断定することは一生できない。
私は足元の赤本を思い切り蹴飛ばした。
かけていた赤い眼鏡を思い切り床に投げつけたら、普通に壊れた。
「そう、だよね」
私はかつて桜坂くんとしたとある会話を思い出していた。
あれはたしか、
「どうして桜坂くんはそんなにドMなの?」
と聞いたときだ。
「そんなの、簡単だよ。ミイラ取りがミイラになっちゃったんだ」
桜坂くんは苦笑いとも嘲笑ともとれる笑みを浮かべながらこう続けた。
「頭いいと嫌でも目立つからさ、クラスでいけ好かないやつになっちゃうんだよね。ただの嫉妬なんだけどみんなから距離を置かれて、冷たいやつだって嫌われる。だから俺が変わらざるを得なくて、道化を演じるしかなくてドMのふりしてたら、ほんとにドMになっちゃったー! 的な?」
私はその時、「桜坂くんってやっぱりバカ?」と返したけれど。
バカなのは私の方だ。
勝手に嫉妬する方が悪いに決まっているのに、それで桜坂くんが変わらざるを得ない状況がおかしいのに。
結局私は彼に嫉妬して、彼を傷つけてしまうだけの愚かな凡人なのだ。
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