第34話 えろくて、苦しくて

「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」


 そんな嘘をついて、俺は立ち上がった。


 知佳が隣にいるせいで、勉強に一向に集中できない。


 もちろん、この家に来る前から、勉強になんて集中できないだろうなとは思ってたよ。


 心がずっとどきどきふわふわしてたし。


 でもいまは、そうじゃない。


 重苦しさに心が押しつぶされている。


 こんな気持ちを抱くなんて想像もしていなかった。


「この部屋を出て右に行ったら、その突き当たりの扉だから」

「ありがとう」


 廊下に出ると、俺はふぅーっと息を吐き出した。まだ一時間くらいしか経っていないのに、知佳といて、こんなにも居心地が悪くなったのは初めてだ。針の筵に座っているかのようだ。


 図形の問題を見ていても、英文を読んでいても、化学反応式を見つめていても、脳裏にはずっと知佳の感情のない笑みが浮かんでいる。


「なんだよ、この気持ち悪さは」


 尿意はまるでなかったが、とりあえず知佳の言っていた通りに廊下を進んでトイレに入る。トイレは普通の家の四倍くらいの大きさだった。商業施設などでよく見かける多目的トイレみたいな感じ。


「あの、顔…………」


 一人で考えていたって正解なんてわからない。あまり長居して知佳に心配させるのも悪いと思って、俺は一分足らずでトイレから出た。普段通り、普段通りと心の中で念仏を唱えながら、知佳の部屋へ戻る。頬を両手で引っ張って笑顔を作ってから、


「ただいまー」


 ドアを引いて部屋の中を見た瞬間、俺の心が闘牛のように暴れ狂い始めた。


「……え、あ」

「あ、お、おかえり」


 知佳が上目遣いでこちらを見ながら、髪を耳にかける。


 ってかそんな仕草はどうでもいい。


 知佳はなぜか、姿で車椅子に座っていた。


「あああ、した、あの、青、した、ぎ」


 白いフリルのついたターコイズブルーのエロ可愛いショーツと、同じくターコイズブルーのブラジャー。鎖骨のくぼみは妙に色っぽく、座っていてもわかる腰のくびれが、俺の中の男の部分になにかをささやきかけている。ちょこんとついているおへそがすごく愛らしい。


 俺は知佳から目を離せない。


 知佳も俺から目を離さない。


 あまりに突然の展開に、俺はなにを言っていいのかも、なにをすべきなのかもわからなかった。心のどこかで期待していた展開のはずなのに、俺はどうしてこんなにも苛立っているのだろう。


 やがて、知佳が言う。


「入ってきてもいいよ」


 その小さな声が鼓膜を揺らした瞬間、俺は慌てて目を逸らした。ベッドの上には、知佳がさっきまで着ていた服が綺麗にたたまれて置かれてある。


「もっと近づいてもいいよ」

「悪い! 着替え中だったのか」


 ようやくそうすればいいんだと気が付き、俺は後ろを向いて扉を閉めた。扉に背中を押し付けると、そのままずるずると腰が落ちていき、床の上に力なく着地する。


「なんで……」


 知佳の下着姿を見た。


 一生忘れないと思う。


 可愛かった、えろかった。


 でも、それ以上に脳裏に刻まれていた光景は。


「なんでそんな顔してまで……」


 知佳は恥ずかしそうに頬を赤らめ、困ったように眉尻を下げ、怯えたように肩を震わせていた。


 そう。


 


「違うの。辰馬」


 部屋の中で車椅子が動く音がする。


 知佳が扉のそばまでやってきたのがわかった。


「着替えてたんじゃなくて、その……えっと、見てほしくて」


 扉が開きそうになったので、振り返ってそれを手で阻止する。


 数秒間の攻防の後、知佳の方が諦めてくれた。


「ごめんなさい。でも、ほら、これはその……」


 知佳がぽつりぽつりと弁明を始める。


「この前、流山くんから謝られたの。『俺が辰馬を童貞だってからかったせいで、秘密を暴露させる羽目になって悪かった』って。それで、辰馬が童貞を気にしてるって知って」


 雅道よ。


 お前が優しいやつだっていうことはわかったけど、この状況になるなら、それは余計なお世話だよ!


「だからその、そういうこと一度は経験してた方が、誰かから聞かれたときに詳しく話せるかなって。辰馬のコンプレックスも解消できるし、一石二鳥かなって」


 知佳の言葉を聞いているだけで、身体が震え出す。


 なんだこの気持ちは。


 右脳の奥が痛い。


「それに私は、その、私のことを見てほしいっていうか、その、辰馬のお母さんのことも聞いて、そのお母さんの代わりなのかなって。私も一応女の子だから」


 ああ、なんで俺はこんなに苦しいと、不快だと思っているのだろう。


 ってか雅道は俺の母さんのことも言ったのかよ!


「でも……ごめんなさい。私、悪いこと、しちゃった?」


 知佳が泣いているのがわかる。


 反省、後悔しているのがわかる。


 それがわかっていて、どうしてこんなに知佳に対して苛立っているんだ!


「違うの。ちょっとまた不安になって、辰馬に見捨てられるんじゃないかって、だって、私、私は……」


 知佳の言葉はそれ以上続かなかった。


 俺が見捨てる?


 そんなわけないじゃないか!


 広い廊下に一人でいるせいか、俺は大きな孤独を感じていた。かくれんぼをしていて、知らぬ間にみんな帰ってしまって一人取り残されたかのような、切ない寂しさ。


「……ごめん。俺、もう帰るよ」


 俺はこの場を立ち去るしかないと思った。


 いま知佳と対峙してしまったら、なにをしでかすかわからなかった。


「あ、待って」


 知佳の声が聞こえた気がするが無視した。


 家から飛び出して、あてもなく走り続ける。焼けるような日差しと生温い風が、身体にまとわりついて気持ち悪い。ベトベトした汗が一日かけて選び抜いた洋服を無遠慮に湿らせる。


「あああああ!」


 喉が、すごく乾いた。


 足も、もう限界だ。


 俺は見知らぬ公園のベンチに腰を下ろした。


 砂場があるだけのだだっ広い公園。


 遊具は危ないと撤去されたのだろうか。


 園内にはボール遊び禁止、大声禁止、の看板が建てられている。


「荷物……」


 知佳の部屋に置きっぱだぁ……とかいまはクソどうでもいいのに。


 クソクソクソッ!


 頭を抱えると、髪に付着していた玉のような汗のせいで指の間まで汗でびしょびしょになった。


「なんで……」


 俺はこんなにも苛立っているんだろう。


 知佳が、自分の身体でつなぎとめておかないと俺が離れていくと思っていたからか?


 そんな薄情な男に思われてしまっていたからか?


 ふと顔を上げると、もうあたりは真っ暗だった。


「そんなに信じられなかったのかよ……」


 あの知佳の顔は、つまるところ、そういう意味だと思う。


「ふざけんな」


 街灯に集まっている虫の羽音だけが、静寂が蔓延る夜の公園に虚しく響き渡っていた。

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