第33話 家の喜び方

「ごめん。お待たせ」


 マグカップを二つ乗せたお盆を太ももの上に置いた知佳がやってきた。車椅子が動くたびに太ももの上のお盆はガタガタと揺れ、いまにもこぼしてしまいそうだ。


「あっ、俺も手伝いに行くべきだった?」


 本当に俺は想像力が足りないなぁ、と猛省する。


「いいって。慣れてるし、思ってるより危なくないから」


 知佳はテーブルのそばで車椅子を止め、お盆を天板の上に乗せた。


「お茶、冷たいのでよかった?」

「うん。外暑かったから、ありがとう」


 俺は知佳の隣の椅子に腰掛ける。頭を掻くふりをして脇が臭くないか確かめた。


「ならよかった。今日かなり暑いもんね。それで愛奈萌も体調崩しちゃったのかなぁ」

「どうだろうな……。でも寒かったり暑かったりすると困るよな」

「はやく涼しくなってほしいよね」

「そうだな」


 二人で横に並んで会話する。


 なんか変な気分だ。


 生徒会室が知佳の部屋に代わっただけなのに、どうしてこうも視線がちらちらとベッドの方を向いてしまうのか。どぎまぎしてしまうのか。この部屋は空気がなんとなく甘い気がする。


「辰馬も、遠慮なく飲んでいいからね」


 俺の心模様など知る由もない知佳が、そう言ってからお茶を一口飲む。


 マグカップをテーブルの上に戻すとき、こと、と音がした。


「……ふう、おいし」


 そのつぶやきがとてつもなく扇情的に聞こえてしまう。ああだめだだめだ平常心平常心。俺も乾ききった口を潤そうとマグカップを手に取り、一気に半分ほど飲んだ。そのお茶の冷たさが、いくらか俺を冷静にさせてくれた。


「あのさ」


 俺は背筋を伸ばして、知佳の方を見る。


「さっきはごめん」

「え? なんのこと?」


 知佳がきょとんと首を傾げた。


「だからさっきのだよ。お兄ちゃんのこと、思い出させちゃって」

「……え?」


 知佳の目が見開かれ、瞳が揺れた。


「どうして、辰馬がお兄ちゃんのことを?」

「……あ、それは」


 やばい。


 そうだった。


 俺のバカ野郎。


 この話は中本先生から聞いたのであって、知佳が直接話してくれたわけではないのだ。


「えっと……その……」


 こうなってしまってはしょうがない。


 中本先生ごめんなさい。


「実は、中本先生から聞いて。ほら、呼び出されたときに」

「あ……そっ、か」


 知佳はゆっくりと目を伏せる。


「そうだったんだ」

「ごめん。いままで隠してて」

「いいよ。気にしないで。私も、いつか言おうと思ってたから、かえってよかった」


 顔を上げた知佳は苦笑いを浮かべていた。


 俺はその顔に違和感を覚える。


 貼り付けられた笑みのすぐ裏側に、恐れのような感情がある気がしたのだ。いま、ポンと知佳の身体をつつけば、皮膚に穴が開いて、そこから黒い靄が噴出しそうというか、そんな感じ。


「まあ……なんていうかさ、この家ってほんとすごいよね」


 知佳が部屋の中をぐるりと見まわす。


 家全体を見回したと表現した方が正しいか。


「私が車椅子生活になってから、それが身に染みてよくわかった。お兄ちゃんのためにこんな家を建てるんだから、私のお父さんもお母さんもすごいなぁって、尊敬してるの」


 でもね。


 逆説の言葉に詰まっていた虚しさが、すぐに俺の胸に纏わりついた。


「だからなのか、お兄ちゃんが死んだ後、って思ったの。主を失ったっていうか、歩けない人がいなくなって、この家が必要とされなくなって寂しそうに見えたの」


 知佳が自分の足に視線を落として、優しくさすり始める。


「それできっと……って言うのもおかしいけど、私がこうなったおかげで、この家もまた、『俺は必要とされてるんだ』って喜んでると思うの」


 家までも思いやる知佳の優しさが心に沁みた。


 本当に、どうしてこんなに優しい人間に、こんな不幸が降りかかるのだろう。


「だから、私が歩けなくなったのも、まあ結果オーライかなって、そう思うんだ」


 いや、優しすぎるからこそ、他者の傷に寄り添い続けてしまうのだ。


「このままでもいいかなって、そう思うんだ」


 自分の心の傷に鈍感になれるのだ。


「あっ、ごめんね。こんな空気にさせちゃって。さっきの話、ちょっとファンタジーすぎたかな?」

「そんなことないよ。知佳にそんなにも思われて、この家もイエーイって喜んでるんじゃないかな?」

「え…………?」


 真顔で見つめてくる知佳。


「もう一回説明して?」

「ごめんなさい。調子に乗りました。もう恥ずかしくて死にそうです」


 場の空気を換えようとしてこんなことになってしまうとは。


「調子にってどういうこと? この家が…………なに? どう喜ぶって?」


 笑いをかみ殺している知佳が首をちょこんと傾げる。


 その仕草、可愛いけど…………もうやめてぇ。


「ごめん。もう、見ないでぇ」

「家が、いえーい? ちょっとよくわからないんだけど」

「それはですね……えっと……」


 困窮していく俺を見て、ついに知佳が噴き出した。


「あはは、ごめんごめん。ついつい魔がさして」


 目尻に滲んだ涙を人さし指で拭ってから知佳は続ける。


「まあでも、家がイエーイだっけ? そうでも思わないとさ、やっぱり足が悪くなってからの変化を受け入れられないよ。足が悪くなったことでみんなによくしてもらえて嬉しいし、これ以上を望むのはだめだってわかってるけど、いつも心のどこかでは、歩けるようになった後の自分を考えちゃうんだ」


 知佳がつぶやいた言葉が、知佳の部屋を申しわけなさそうに漂っている。


 ――歩けるようになった後の自分を考えちゃうんだ。


 俺はいまの言葉で確信した。知佳はやっぱりまた歩きたいと思っているのだ。


 ――これ以上を望むのはだめだってわかってるけど。


 でも知佳は、そんな幸せを自分が求めてはいけないとも思っているのだ。


 そんなはずないのに。


「なぁ、知佳」

「ん?」

「俺はやっぱり、知佳にまた歩けるようになってほしい」


 これが俺の本心なんだと改めて実感する。このまま一生歩けなくても、知佳は強く優しく生きていけるのだろうけど、だからといってこのままでいいとは絶対に思えない。


「辰馬……」


 知佳は目を見開いて、俺を見つめている。


 その真っ黒な瞳は小刻みに揺れていた。


「あ、もちろんそれで知佳がプレッシャーを感じることはないから。俺なんかじゃ役に立たないかもしれないけど、でも俺は知佳が歩けるようになるまで、いつでも、なんでも協力する」

「……歩けるまで。わかった。……ありがとう。辰馬」


 知佳は俺の名前を呼びながら微笑んでくれた。


 けれど、俺はその笑顔にまた違和感を覚えてしまった。


「私、すごく嬉しい」


 その言葉とは裏腹、知佳の顔には温度がまったく存在していない。殺し屋が浮かべるような酷薄な顔に見えてしまう。笑っているけど一切笑っていない。こんなにも感情のこもっていない知佳の顔を、というより人間がそんなにも冷たい顔をするのを初めて見た。


「よしっ! とりあえず勉強しよっか。今日はそのために集まったんだもんね」


 しかし知佳は、すぐにいつもの表情を取り戻していた。


 先ほどの顔が嘘だったのではないかと強く思えるほどに。


「あ、ああ。そうだな」


 だからなのか、俺はそのことについて知佳に尋ねることができなかった。


 まあ、そもそも違和感自体が勘違いの可能性だってある。


 家から持ってきた数学の問題集をテーブルの上に広げると、ページの隙間には、いつのものかわからない消しゴムのカスがいくつもへばりついていた。

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