第18話 元芸能人

 昼休みもあと五分で終了の時間になったところで、俺は知佳とともに保健室を出た。


 保健室は本校舎の隣の別棟にあるので、本当に用がある人以外は誰も寄り付かない。ドアを閉め、知佳の車椅子を押して歩き出そうとしたとき、廊下の曲がり角から見事に着くずされた制服が現れた。


「ねぇ、なんで?」


 渋野さんは、瀕死状態かっていうくらい顔が真っ青だった。そんな弱々しい顔に怒りの色を帯びた鋭い目がついているもんだから、完璧なメイクをした歌舞伎役者にでも凄まれているのかと思った。


 俺と知佳は、同時に息をのむ。


 彼女に二人の仲を裂かれるような嘘をつかれたというのに、俺は渋野さんに対して怒りを感じていなかった。


 実里愛奈萌について書かれたネット記事やまとめサイトを、さっき知佳と一緒に見たからだと思う。


 こちらを振り返った知佳の表情にも怒りはなく、むしろ眉毛の形は困惑や不安を訴えているように見えた。


「なんで、って言われましても」


 なぜか敬語になってしまう。


 それくらい渋野さんには迫力があった。


 虚しさという悲しい迫力が。


「だから! なんであなたは梓川さんのもとに行けるのよ!」


 質問の意図がわからない。


 けど、それに対しての答えは一つしかないので正直に答える。


「それは、知佳のことを手伝いたいと思っているからだけど」

「その行動が誹謗中傷の的になってんのよ! 毎朝机の中に手紙入れられて、宮本さんのグループから悪く思われて、それなのに、そこまでしていい子ちゃんぶらないでもよくない? 辰馬が傷つくだけじゃん。バカみたい」


 ちょっと待て。


 どういうことだ?


「え? なんで渋野さんが、を知ってるの?」


 俺は


「あ……」


 渋野さんの顔があからさまに引きつり始める。


「……ミスったわマジで」


 やがて、諦めたように小さく息を吐くと、詐欺師が浮かべるような嫌らしい笑みを浮かべた。


「自分から墓穴を掘るってマジアホじゃん……。まあもういっか。ってかこの作戦も思い付きで決めて、いま考えると穴だらけだったし」


 開き直った渋野さんは自慢げに胸を張って悪びれもせずに続ける。


「そう。私が毎朝辰馬の机の中に手紙を入れてたの。むかつくから」


 なのに、渋野さんは泣いていた。


 俺を嘲笑いながら、渋野さんは泣いていた。


「私はね、偽善者ぶってるやつが大っ嫌いなんだよ! 昔の私を見てるみたいでイライラすんだ。お前みたいないい子ちゃんぶってるやつ、虫唾が走るんだよ!」


 俺はなにも言い返せない。


 渋野さんの悲痛な声を止めさせたいけど、その方法がわからなかった。


 それに、俺を糾弾して気が済むのなら、それでもいいと思った。


 だっていま彼女が本当に嘲笑っているのは、怒りをぶつけているのはきっと俺ではなく、俺を含めた世間なのだから。


「障碍者助けて、みんなからよく思われて、それで優越感に浸ってんだろ! わざわざランク下げた高校に入ったのも、確実に学年一位になるためだろ! それでちやほやされたかったからだろ! 全部わかってんだよ私は!」


 言われて、俺は考える。


 確かに彼女の言っていることは正しいのかもしれない。


 知佳を助けることで、俺は姉ちゃんから、中本先生から、クラスのみんなから、この学校中から――一部からは非難されていたみたいだが――すごいやつだと褒められることになった。


 それで自分が舞い上がらなかったかと言われれば、否定はできない。


 学年一位すごいねと言われて、その度に胸は熱くなってもいる。


「だから私はやったんだ! ムカつくんだよ! この偽善者気取りが!」


 渋野さんが俺だけを睨みつけながらそう叫んだときだった。


「そんなのどうだっていいんだよ!」


 答えあぐねる俺の代わりに、知佳が叫んでくれた。


 こんなにも大きな声を発する知佳を、俺は初めて見た。


「私からしたら、大事なのは本当に助けてくれたかどうかだけ! 優越感のなにが悪い! 人がやらないことをやってるんだから、感謝したり尊敬されたりするのは当然なんだ!」

「なんだよそれ! お前まで! 私だって! そんなの全部……」


 渋野さんの声が勢いを失い、止まった。膝ががくがくと震えている。壁にもたれかかって力なく座り込み、膝を抱えてうずくまる。


「もうわかんないんだよ私だって! あんたたちのことも、私のことも世間のことも大人のことも全部! みんなわかんない! なんで私ばっかり!」


 彼女の涙を啜る音が、昼休み終了のチャイムに混ざる。


 午後の授業が始まってしまった。


 かといってこのまま立ち去れる雰囲気でもない。


「渋野さん」


 俺は小さくなった彼女の前に立つ。一度、知佳と目を見合わせてから、素直な思いを口にした。


「さっき俺たち、スマホで渋野さんのこと調べたんだ。渋野さんのこと、俺たちなにも知らないと思って」


 渋野さんは元子役で、芸名は実里愛奈萌。つまり芸能人だった人だ。ネットで彼女の名前を検索すれば、無数の画像や記事が当然のようにヒットする。他の芸能人ならそんなこと思わないのに、こうしてかかわったことのある、しかも引退している渋野さんをネットで調べることは、なんだかプライベートを勝手にのぞき見している感じがして、いい気がしなかった。


 そして、検索してヒットした記事やまとめサイトは、そのほとんどが彼女を誹謗中傷する内容だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る