第19話 実里愛奈萌、渋野愛奈萌


「ざけんな。勝手に私のこと見んなよ」


 渋野さんが俺を睨みつけながら吐き捨てる。


「ごめん。でも俺は」

「謝るくらいなら! ……でもま、別にそれも込みで芸能人だから別にいいけど」


 渋野さんの目から感情が失われていく。その投げやりな声に含まれていた諦めに、一般人として生き続けてきた俺が、本当の意味で共感することはできないのだと思う。


 渋野さんは、静かに嗤っていた。


 泣いていた。


「物心ついたころから子役やっててさ、別に自分の意思で始めたわけじゃない。気が付いたらそうだった」


 母親が一歳の彼女を事務所に所属させた、と書かれた記事を思い出す。


 その記事は、


【人気子役、実里愛奈萌の凋落!】


 というタイトルで、彼女の子供時代から現在までの経歴が詳細に書かれていた。数多くの――プライベートで撮ったと思われる――写真も流出しており、その記事を読むだけで、実里愛奈萌に会ったことがなくても、実里愛奈萌のことを全てわかった気になれた。


 そんなまとめ記事が、ネットには何十件と転がっていた。


「事務所の人に、『現場では常に礼儀正しくしろ!』って言われてたから、ずっとそうしてた。遊びたいのを必死で我慢した。そしたらいつの間にか礼儀正しさばっかりが有名になって、なんて言われてちやほやされて、テレビに引っ張りだこで、まあ私も、子供ながらに調子に乗ってたんだろうなぁとは思うけどさ」


 渋野さんは、昔を懐かしむように顔を上げて天井を見上げる。


 その拍子に目尻から透明な涙が零れ落ちた。


「礼儀正しければいい。そうすれば共演者も、スタッフも、マネージャーも、世間も、両親も、みんな褒めてくれる。すごい、偉い、子供とは思えない。そう……子供とは思えないって!」


 突然、渋野さんは後ろ手で背後の壁を殴ろうとした。しかし殴る直前で拳の勢いはそがれ、行き場を失った拳が所在なさげに彼女の体の横に戻っていく。


「結局は、なんだよ」


 それだけだったんだよ、と力なく続けた彼女はその拳をほどいた。


「中学生にもなれば、みんな、礼儀なんて、誰でもできる。ちやほやしてた人が、褒めてくれてた人が、みんないなくなった。おかしいじゃん。私はずっとそれが正しい、いいことなんだって思ってきたのにさぁ。『礼儀正しいだけだった子だろ?』って一瞬で過去の人。嘲笑の対象。……ふふっ、なんかいまのラップみたいだな」


 くすりと笑う渋野さん。いまのは必死に捻りだした冗談だったのだろうが、俺も知佳も笑うことはできなかった。余計に空気が重くなった。


「まあそこからは、人並みに世間を恨んで、こんなのやってられるか! ってグレて事務所やめて、普通の女の子になろうとしたけど無理で」


 その気持ちはわかる気がする。世間の痛烈な手のひら返しを、まだ心の形が定まっていない中学生が真正面から受けて、耐えられるはずがない。心の形がおかしくなって当然だ。


「とにかくすべてに反抗したくなって、昔の清楚な自分は嘲笑の対象なんだからって、髪も染めて、汚い言葉を使おうって思って」


 渋野さんはまた拳を握り締める。


 今度はちゃんと後ろの壁を殴った。


「それなのに今度は!」


 その言葉には、これまでの比じゃないほどの憎悪が込められていた。


 廊下の空気がまがまがと鈍く揺れる。


「凋落ってなんだよ! あのころの実里愛奈萌はどこって、私はいまもここにいるじゃん。なんでいまの私は落ちぶれてるってことになるんだよ? 友人Aって、関係者Aって誰だよ。私は確かにその言葉を言ったけど、そういう意味で言ったんじゃない。人の卒アル見て楽しいか。そんなに脇やパンチラが好きか。水着になってりゃよかったのか。『あのころの礼儀正しかった実里愛奈萌が戻ってくる日はこの先やってくるのだろうか』なんてクソみたいな言葉で記事を締めくくんな! 礼儀正しいだけだった私を侮辱したのはお前らの方なのに、なんでまた、昔は可愛かったのになんて過去の私を求めるんだよ」 


 俺たちは黙って彼女の心の闇を聞き続ける。きっと俺たちがこの場から去っても、一人になった彼女は心の闇を話し続けていたと思う。それじゃあ悲しすぎる。誰にも聞いてもらえなかった心の闇が、また彼女の心にそっくりそのまま戻っていくだけだ。


「私に会ったこともない人が私のことを勝手に解釈して、勝手に考察して、勝手に決めつけて、勝手に同情して、勝手に非難して、勝手にあのころはよかったって哀れむ。いったい私はなんなんだ。どのころの私がよかったんだ。私はもう疲れきってるんだ。みんなみんな、もうほっといてくれよ」


 渋野さんはまた膝を抱えた。太ももに顔を押し付ける。


「私には、全然私がわからないのに」


 すべて吐き出し終えたのか――すべて吐き出せることなんてないのだろうけど――渋野さんの言葉は聞こえなくなった。彼女の涙の音が、この痛々しい静寂をより強調させている。


 俺は、その沈黙の中で、もう少しだけ待った。彼女がしゃべらないことをきちんと確認したうえで、話し始める。


「結局さ、一番自分を気にして、敏感になって、貶めてるのは自分自身なんだよ」


 ピクリと、渋野さんの腕が動いた。


 聞こえているということがわかったから、俺は言葉を続ける。


「なにをやったって、それをどうにかこうにかこねくり回して非難してくる人はいる。いまの俺の立場がそうだ」


 渋野さんは俺のことを、いい子ちゃんぶるなと非難した。


 宮本さんのグループが俺のことを偽善者だって非難した。


「でも、他のみんなはそうじゃない」


 姉ちゃんや、中本先生や、雅道は、俺をすごいと褒めてくれた。


「だから俺は、俺を非難する十人中二人の意見を真に受けて、知佳を助けることをやめるのがもったいないと思うんだ」


 渋野さんが俺の引き出しに誹謗中傷の紙を匿名で入れ続ける。


 それは渋野さんに対してネット民が行ったバッシングと本質は同じだ。


 そこから導きだされる結論は。


 ――きっと渋野さんは俺にと思う。


 正体のわからないものからの誹謗中傷で俺の心が折れるのを期待した。


 渋野さんは匿名性を利用した卑怯な相手からとことん誹謗中傷されて、心が折れて役者を、礼儀正しかった自分を辞めたから。


 もし、自分と同じ状況に陥った俺の心が同じように折れたら、そんな陰口に押しつぶされた弱い自分を、実里愛奈萌という芸能人の凋落を、当然のことだったと正当化できると思ったのかもしれない。でも実際には俺の心が折れなかったから、焦った渋野さんは俺たちに近づいて、強引にこういう手段を取ったのだと思う。


 ――、早く証明したくて。


 その自己肯定のやり方が間違っているものだとしても。


「そんな偽善ぶった言葉で知ったような口聞くな。わかったようなことほざくな」

「うん。俺は渋野さんのこと、全然知らない」


 俺は柔らかな声のトーンを意識して喋る。俺の心からの言葉が、このささやかな気持ちが、渋野さんが心の奥底に追いやってしまった渋野さん自身に届けばいいなと思って。


「だけど、俺は知ってる。歩道橋で重い荷物を持ったおばあちゃんに寄り添っていく渋野さんを、俺はこの目でたしかに見たんだ」


 そう告げたとき、渋野さんの頭が少しだけ上がって、すぐに元に戻った。


「それだけで俺は渋野さんのファンになった。本当の渋野さんを見た気がしたから、俺は渋野さんのことをわかったつもりになることにする」

「あんなの、あのクソババアが歩くの遅くて邪魔だったから」

「たとえそうだとしても、俺は実里愛奈萌じゃなくて、渋野愛奈萌という人間のファンにもうなってるんだよ」

「私のファンじゃないのに私のファン? は? 意味わかんねぇ」

「実里愛奈萌は過去の人間だ。もういない。いまここで生きているのは、だよ」

「私は産まれたときから渋野愛奈萌って名前だよ! 実里愛奈萌はただの芸名だって言ってんだろ!」

「そう。実里愛奈萌はただの芸名なんだ」

「……ざけんな」


 渋野さんの口から鋭い舌打ちが聞こえてきた。顔を上げてこちらを一度睨みつけてから、また膝に顔をうずめる。


「じゃあ、俺たちもう行くよ」


 言いたいことは全部伝えたのだから、これ以上なにを言ってもそれは蛇足だろう。


 知佳を見ると、知佳もこくりとうなずいた。


「渋野さん、私、悲しいことに友達少なくて、募集中なんだ」


 最後に知佳がそう言ったが、渋野さんはなにも反応してくれなかった。


 俺と知佳は、できるだけ音をたてないようにしながら、その場から立ち去った。

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