第12話 知佳の過去
シャワーを浴びながら、俺は知佳の過去について考えていた。
――中本先生曰く。
梓川知佳という女の子は、もともと普通の人間と同じように歩けていたが、小学六年生の夏に突然歩けなくなったらしい。
事故等に遭ったわけではないそうだ。
本当に突然、ある朝目が覚めたら歩けなくなっていた。
ただ、歩けなくなったきっかけがないわけでもないらしい。
ここからは推測でしかないけど……と前置きしてから中本先生はその理由を話してくれた。
「たぶんだけど、兄の死が原因だ」
知佳には一歳年上のお兄ちゃんがいたが、彼はトラックの居眠り運転に巻き込まれて死んでしまったそうだ。
「知佳のお兄ちゃんは車椅子生活を送っていたんだ。ただ、知佳とは違って精神的じゃなく、歩けない体として生まれてきた。一生歩くことはできないと言われていた」
知佳にそんな兄がいたなんて、驚きだった。
心臓がちくりと痛む。
「でも、知佳が歩けなくなったのと、知佳の兄の死にどういう関係が?」
「関係があるかどうかはわからないけど」
中本先生はなにかを考えこむように首をひねってから、
「知佳が歩けなくなったのが、知佳のお兄ちゃんが亡くなってちょうど一年後なんだ。要するに命日ってやつ。だから……っていうのもおかしな話かもしれないけど、関連付けるなっていう方が無理だと思わないか?」
「確かに……」
ただの偶然にしてはできすぎている話のような気がした。
「大好きだったお兄ちゃんを失ったショックから、お兄ちゃんの一番の特徴である歩けないを自分自身で再現することで、お兄ちゃんはまだ生きていると思い込もうとした。お兄ちゃんを自分自身でトレースして、潜在的に悲しみを和らげようとしている。そう知佳の担当医は言っていた」
「なるほど……」
俺は唇をかみしめながらつぶやいた。
想像の域を超えていないが、考えられなくはない可能性だった。人間の脳はその持ち主の精神崩壊を防ぐために、驚くべき方法でショックや悲しみを和らげようとすることがある。
それは幼児退行だったり、記憶喪失だったり、幻覚や幻聴だったり。
知佳の脳が行ったお兄ちゃんの身体的特徴をトレースするというのも、そういった脳の持ち主に対する思いやりの一種なのだろう。
「実際のところ、知佳は歩ける状態にあるらしいから、あとはきっかけというか……救いがあればきっとまた……」
天井を見上げる中本先生。
その愁いを帯びた表情は絵画にして残しておきたいほど儚く、綺麗すぎた。
「私はさ、思うんだよ。知佳は過去に生きている。過去に囚われている。いまはもう会えない大切な人を思い出すことが悪いとは言わないが、それを知佳のお兄ちゃんは、絶対に望んでいないはずだ」
ぐっとこぶしを握り締めた中本先生は、嘲るように笑ってから、ゆっくりと目を閉じた。
「だから、本当はこういう言い方はよくないかもしれないが、知佳がお兄ちゃんを忘れられれば、死の悲しみを忘れられるくらいいまが楽しくなれば、いまこの瞬間を生きられるようになれば、また歩けるようになるんじゃないかって、私は思う」
いまが、楽しく。
例えば明日、知佳に『いま楽しいか?』と尋ねたら、きっと『すごく楽しいよ』と言ってくれるだろうが、中本先生はそういうことを言っているんじゃないのだと思う。
中本先生は、普通の女の子が思ういまが楽しくのことを言っているのだ。
「だから私は、君が知佳の希望になれると勝手に信じている。知佳のために、知佳の家族のために、知佳のお兄ちゃんのために、どうか協力してほしい」
中本先生はそんな言葉で知佳の話を締めくくった。
授業中には決して見ることはできないもの悲しそうな顔で。
俺が頼んでいたはずだったのに、いつの間にか頼まれる側になっていた。
「わかりました。絶対になんとかします」
俺は力強くうなずいた。
中本先生の切実な思いを受け取ったせいか、指先がぶるぶると震えている。
「ありがとう。龍山」
中本先生は安心したようにほっと笑みをこぼし、その顔のまま一歩俺に近づいてきた。
「でも、それは死んでも私と結婚したくないという決意表明か?」
「だから自分で独身をネタにするように――ごめんなさいほんとにビーカーを投げようとしないで!」
……とまあ、最後はネタっぽくなってしまったが、『絶対になんとかします』と、そう返事をしたことに後悔はない。知佳を歩けるようにしてやりたいという気持ちは本物だ。
ただ……。
「歩けるように……か」
シャワーを止め、湯船にざぶっとつかる。
あの場ではそう言ったものの、正直、無理難題な気がする。
――知佳をまた歩けるようにする。
本当に俺にそんなことができるのか?
はっきり言って自信がない。
荷が重すぎる。
「歩ける、歩けるように」
「辰馬? お姉ちゃんもお風呂入るわねー」
「わかったー。…………って、ちょっとタンマタンマ!」
だからどうしてこうなるのっ!
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