第11話 大人になったら
「お前らよりは大人だからな」
中本先生はだるそうに肩を大きく回してから、小さく息を吐いた。
「いいか、龍山。後悔ばかりがビールのつまみになるような人生は面白くないから……私は知佳にも後悔してほしくないんだ。いま、知佳には龍山という彼氏ができて、それはすごく幸せで喜ばしいことではあるんだけど」
中本先生はそこで言葉を止める。
ああ、これは、あまりよくないことを告げるときの間のあけ方だ。
もしかして、中本先生は俺のことを彼氏として認めてないのか?
そもそも俺は彼氏ではなく彼氏役なのだけど。
「龍山は……」
ようやく話を再開させた中本先生は、化学の授業中に知佳が座っていた方を見た。
「今日の知佳の様子を見てたから、なんとなくわかるだろ?」
「あ…………はい」
なるほどそのことね。
まあ、中本先生が気づいてないわけがないか。
「さすが知佳が選んだだけのことはあるな」
中本先生は近くの椅子に座り、足を組んで、こめかみのあたりを手で押さえる。
「知佳は周りから気を遣われないために、みんなに混ざることを諦めてるんだ」
「そう、ですね」
みんなが実験している様子を、どこか寂しそうに、羨ましそうに見ていた知佳の姿が脳裏によみがえる。
「だろ? 私は、知佳もクラスの一員になってほしいんだ。普通を与えてやりたいんだ。ま、健常者の私たちでさえこの社会を普通に生きるのが難しいんだから、知佳にはもっと難しいんだろうけど」
中本先生はけらけらと笑い始めるが、目はちっとも笑っていない。
先生の言っていることは理解できる。
普通なんて言葉を作ったやつを恨みたくなるくらい、この世の中で普通であり続けることは難しい。
「でも、じゃあどうして先生は、知佳のグループの人に『知佳も実験に入れてやってくれ』って言わなかったんですか? そうすれば少なくとも知佳は」
「んなこと先生ができるわけないだろ。知佳にもグループのメンバーにも、余計に気を遣わせるだけだ」
「あ……」
確かにそうだ。
『仲間に入れてあげましょうね、一緒にやりましょうね』
という言葉は大人のエゴでしかない。
それは子供たちにとって悪魔の言葉だ。
仲間に入れてあげる側は、そいつに過剰に気を遣わなければいけなくなるし、仲間に入る側は気を遣われまくるばかりに、余計に孤独を感じてしまう。
「子供のころは先生になれば――というか大人になればなんでもできると思ってたが、いざ大人にも先生にもなってみると、君たちのためにできることはあまりに少ない」
中本先生はポケットからタバコを取り出そうとしたが、ここが喫煙ルームではないことを思い出したらしく、そのままポケットに押し戻した。
「私は知佳に学校を楽しんでほしい。君には悪いが、知佳には彼氏だけではなく、なんでも話せる友達も作ってほしいと思っている。クラスにも馴染んで、健常者と同じような青春を送ることができれば、きっと彼女は、普通にまた歩けるようになるはずなんだ」
ま、これは私の願望でしかないがな。
そう付け加えた中本先生に、俺は思わず聞き返した。
「知佳がまた歩けるようになるって、どういうことですか?」
また、ということは以前歩けていたということか?
それともただの言葉のあやなのか?
「ん、知佳からなにも聞いていなかったのか?」
中本先生の表情に焦りと困惑の色が浮かぶ。
「はい。デリケートなことだから聞かない方がいいかと思って」
言っていて、違うと思った。
知佳の内面に一歩踏み込む勇気がなかっただけだ。
「そうか。……これはまずったな」
中本先生は口元を少し歪めていた。
「じゃあ私が勝手に話していいことでも」
「お願いします!」
俺は深々と頭を下げていた。
「教えてください。お願いします。俺、知佳のためになにかしてやりたいんです。もしまた歩ける可能性があるのなら、なんとかしてやりたいんです!」
これだと思った。
以前知佳に言われたこと。
――足が動かない私のためになにができるか、その内容を辰馬自身で考えるの。
「龍山……お前そこまで…………はぁ、しょうがないか」
俺の心臓が六回脈動した後、中本先生の嬉しそうなため息が聞こえた。
「ありがとうございます!」
顔を上げると、面倒臭そうに首を回しながら、頬を緩めている中本先生の姿があった。
「知佳の秘密を明かすんだ。もしとちったら責任を取って私と結婚してもらうからな」
「自分で独身をネタにするようになったらいよいよ終わりですよ。猫飼いますか?」
「その言葉もういっぺん言ってみろ」
「すみません冗談ですごめんなさいビーカーを投げようとしないで!」
近くにあったビーカーを投げつけようとしてきた中本先生に、俺は全力で謝罪した。
この人と結婚できるのはきっと、相当なドM男子だろうなぁ……。
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