第10話 中本先生の悲哀

 放課後。


 俺は中本先生の監視のもと、理科室の掃除に精を出していた。


 事情を知っている知佳には先に帰るよう言ってある。


 ってか椅子に座ってないで中本先生も協力してくださいよ。足を組んでいるからつい太もも見ちゃって集中できないんですよ。


「ほらー、次は試験官の個数の確認だ。てきぱきやれよ」


 理科室の机に座って足を組んでいる中本先生は、ブラウスの胸元をパタパタさせている。ああもう真っ赤なブラが見えそうですねいや見えてますね健全な男子高校生には刺激が強すぎるのでやめてください独身貴族様!


「ってかこれ、もはや掃除じゃないですよね。面倒くさい片づけを生徒に押し付けてるだけですよね?」


 俺がそう愚痴ると「あ」に濁点がついたドスの効いた声で中本先生が唸った。


 おーこわ。


 そりゃ結婚できませんよね。


「ん? なにか言ったか龍山? 結婚できないって?」

「断じてなにも言っておりません」


 え?

 なんで心の中読まれたの?

 そういう能力でも持ってるの? 


「そうか……ならいい」


 眼鏡をくいと押し上げた中本先生は、ゆっくりと足を組み替える。なんかいまスカートの中が見えた気がしなくもないぞ! 太ももの間から見えた黒はただの影かなぁ。


「なぁ、龍山」

「はい?」


 いつにも増して真剣な声が聞こえてきたので、俺は試験官を数える手を止めて、中本先生の方を見た。


「お前、梓川と付き合ってるんだよな」

「え、ええ、まあ」


 とりあえずうなずく。


 なに?


 どういう風の吹き回し?


 中本先生みずから色恋沙汰の話題を振るなんて、今日は空から隕石でも落ちてくるの?


 異世界転生もできちゃったりする?


「そんなに怖がるな。高校生ごときがイチャコラしてムカつくからと言って、別にお前らの仲を引き裂こうとは……まあ、あんまり思ってないから」

「ちょっと思ってるんですね!」

「ははは、冗談だよ冗談」


 中本先生は腹を抱えて笑い始めたが、その声はなんの前触れもなく止まった。笑い声があったせいで、静寂がより際立つ。


「実はな、私と梓川は従姉妹なんだ」

「え?」


 突然の告白に、俺は目を見開いた。


「おいおい、そんなに驚くようなことか」


 中本先生は苦笑いを浮かべてから、ゆっくりと眼鏡を外した。その顔をよく見ると、少しだけ知佳に似ているような気がしなくもない。ってことは知佳のおっぱいも同じように成長するってことですか?


「私は梓川が――まあもう知佳でいいか。知佳と知佳の家族がどれだけ苦労してきたのかをよく知ってる」


 足が不自由な子を持った家庭なのだ。


 そりゃあ一般家庭よりも大変に決まっている。


「だから、龍山と知佳が付き合っていると聞いたとき、すごく嬉しかったんだ。知佳にも人並みの幸せがやってきたんだって。……あれ? 私にはその幸せが全然やってこないのに? そう考えるとやっぱりムカついてきたな」

「なんでそうなるんですか! せっかくいい話かと思ったのに!」

「いやー、他人の幸せは妬むものだと相場は決まっているからな」

「そんなこと言ってるから結婚できないんですよ!」

「じゃあ龍山が結婚してくれよ」


 中本先生が外した眼鏡を唇に押し当てながら迫ってくる。


 え、え、なにこれいったい!


 胸の谷間すごいんですけど!


 これが大人の魅力なんですね!


「おいおい本気で照れるなよ。冗談だ。生徒に迫るようになったらいよいよ終わりだからな。しかも知佳の彼氏なら尚更だ」


 眼鏡をかけながら中本先生は白い歯を見せる。


「やめてくださいよ。いたいけな高校生をいじめるの」

「ははははは。そのうちやめるさ」


 いやいやそのうちって。


「……で、どこまで話したかな…………あ、そうか」


 中本先生は表情を曇らせながら小さく息を吐いた。


「知佳にも人並みの幸せが……って話だったな」


 俺がうなずくと、中山先生は嘲るように笑いながら天井を見上げた。


 その首筋は細くて艶やかで、とても綺麗だった。


「大人になると時間の流れが身に染みて、けっこう痛いんだよ。青春も、恋も、時間も、人間関係も、夢も、気がついたら自分の中からなくなってる。落とした記憶なんてないのに」


 ああ、これが大人がよく言うセリフ、の具体的な中身なのか、と思う。


「そんなの虚しいと思わないか? だから若人たちには、そういうものを意識して使ってほしいと私は願っている。どれだけ意識して使ったとしても、みんなみんな終わった後に、あと少しだけその時間が続いてたらなって、思ってしまうものばかりだから」


 中本先生から漂う哀愁に、俺はただただ魅了されていた。この哀愁は、なにもかも過ぎ去ってしまった大人にしか出せないものだと思う。侘しい色香なんて言ったら、そんなに老けてないわ! とブチギレられてしまうだろうか。


「いつだって、いまという時間はんだ」


 中本先生はまだ二十八歳と一般的な価値観から考えれば若い、すごく若い――大事なことなので二度言いましたよ――が、それでもきっとその人生の中で、いろんなものが通り過ぎていくのを見つめてきて、いろんなものを諦めてきたのだろう。


「先生もまだまだ若いじゃないですか」


 慰めにならないと思いつつも、俺はそう言った。


「生徒に慰められるとはな。……って言われるまでもなく私は若いんだが?」


 鋭く睨まれる。


 やばい失言だったか。


 でも先生が自分から年寄りみたいなことを言ったんですよ!


「すみません。以後気をつけます」

「わかればよろしい。……まあ、若いといっても、君たちよりは若くないから、時間の流れはもっと残酷だ。甲子園で輝く球児や、若手俳優と呼ばれる人たち、昔から読んでる漫画の主人公なんかが自分より年下になっていることに気が付くのは、案外辛いものだ」


 儚げに笑った中本先生に、また年寄りみたいなこと言って……とツッコミかけてしまった。危ない危ない。それを言ってしまえば、きっと俺は理科室から生きて帰ることはできないだろう。


 俺は、代わりにこう言った。


「先生って意外と達観してますよね」

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