第2話 兄妹たちと故郷への道1

 摘み取り作業は午後いっぱいを予定していたけれど、思った以上に捗り、必要量の花を予定の時間の半分で収穫し終えることができた。そしてさらにそれをすぐにも出荷できるよう整えていく。どんな雨が来るのか予想もできない今、少しでも安心材料が増えるに越したことはなかったし、こんなにも美しい花をできれば一つたりとも無駄にはしたくないという一心からだった。


 摘み取りを終えた領民たちは疲れていたけれど、休んでいる暇はない。キャメオンの号令のもと、アドランを含めた力自慢の男たちが中心となって、次なる作業に取り掛かる。水路や道路を見て回り、必要な場所に土嚢の用意をするのだ。

 フォンティオール領は天空草の花のために、どこよりも水路が多く張り巡らされている。それらは細いものではあるけれど、やはり決壊すれば厄介なことになる。いざという時の備えが必要だ。

 さらに、各家々に必要な食料や燃料をと、各商店が在庫のすべてを広場に持ち出した。その傍らでリーディルが、災害時の伝達方法が細かく書かれたものを配り、質問に答えていく。


 大街道周りや数ある泉付近、低地に家のある者も多いことから、水没の危険を考慮して、領主館の大広間を解放する予定になっている。そのため領主館にも食料品や医療品をはじめ、多くの物が運び込まれた。

 もちろん家の場所に関係なく、心配な者は誰でもすぐに来ていいのだと言って、領主セオドアはみなを安心させる。

 どの領地でも準備は同じように進んでいて、常に連絡を取り合おうと伝達が走っている。王宮からも続々と支援物資が届く。王国が一つになって助け合い、この未知なる状況を乗り切ろうとしているのだ。


「十分に準備はできている。何か起きても、いつものようにみなで力を合わせれば、必ずや乗り越えられるはずだ。我々には女神さまがついていてくださる。我々は水の民だ。水は命であり、大いなる力。この雨はきっと、恵みの雨になるに違いない」


 セオドアの力強い言葉に、不安げだった領民たちの顔にもわずかではあるけれど安堵の色が広がる。むやみやたらと恐れいても仕方がない、あとは何事もなく雨が通り過ぎるのを待つだけだ。「雨が止んだら収穫祭をしようじゃないか!」とどこからともなく声が上がり、誰もがその楽しみを胸に気を引き締め直した。

 幸いなことに、南からまだ雨の連絡は入っていない。この様子だと夜のうちに降り出すこともないだろう。けれど明日の朝は早くから動きがあるかもしれない。休めるときには十分休むようにとセオドアが領民たちに声をかけ、みな一旦家路に着いた。


 翌朝、ロディーヌはいつも以上に早く目を覚ました。夜明け前だろうか。窓を開ければ、まだ暗い空はすっかり雲に覆われ、いつにない風が吹き始めていた。

 この雨は花たちをすべて流してしまうかもしれない……ロディーヌは、雨が来る前にもう一度、大好きな天空草の群生地に立ってその青を感じたいと思った。

 

 そっと領主館を抜け出せば、世界はぼんやりと白み始めていた。淡い水色にも灰色に見える空は、それをかき乱すかのように吹く風のせいで、張り詰めた何かを感じさせた。大きな何かが迫ってくる。ロディーヌは領主館裏の泉へ急いだ。

 そこにはあの春の日、兄たちを探す手がかりを求めて植えた天空草がある。聖域から運んで育てた三枚の花弁の天空草だ。今やそれはちょっとした群生地となっていた。花の色はどの種よりも濃く美しい青。ロディーヌの瞳と同じ色だ。

 

 望みを果たし、帰郷してすぐに駆けつけた時、それは見事に咲いていた。春先には小さな株であったものが、みな無事に育ち蕾を持ったのだ。ロディーヌがいない間、母がずっと世話をしてくれたのであろう。どれ一つ欠けることなく成長しているように見えた。母にも花たちにも、もちろん女神にも、ロディーヌは感謝の気持ちしかなかった。

 この花咲く地に再び戻ってこられた喜びが込み上げてきて、あふれる涙を止められない。けれど同時に、遠くなっていく冒険の日々が切なくて、その胸はいっぱいになったのだ。

 太陽のような瞳で自分を覗き込んだ大きくてたくましい人。けれど約束は、儚い夢となって、いつか遠くなるだろう。風に揺れる天空草の花のように、ロディーヌの心もまた揺れに揺れた。


 あの日から一年。ロディーヌは泉の岩陰にひざまずき、そっとその手を冷たい水の中に浸した。様々な想いが駆け抜けていく。ロディーヌは水に映った自分の顔を見つめながら、故郷への帰り道を思い返した。




 ポルカと別れたロディーヌたちが森に入った時、森の雰囲気はロディーヌが初めて岩山を目指した時とまるで違ったものになっていた。

 ねじくれた枝々はまっすぐに空を目指し、足元まで光が届いて柔らかな苔が芽生えている。小鳥の声もあちこちで聞こえ始め、脇を通っていった蜜蜂たちは、どこかに花が生まれたことを教えてくれた。悲しみに縛られ、内に巣食う闇に毒されていた森が息を吹き返したのだ。


「森は、生き物たちは、闇に虐げられ苦しんでいた上に、日々、ぼくたち大ガラスの飛来に怯えていた。長い間、どんなに辛かっただろう。許してほしい」


 アドランが瞳を伏せて呟けば、リーディルが切り株の苔をそっとなでて囁いた。


「ぼくたちにかかっていた呪いは、多くの人を苦しめてきた。この館でその苦しみが一層深くなり、世界のあちこちに漂う闇色の心を引き寄せた。憎しみや悲しみが森の上に注がれ、それがおぞましいものを生み出したんだ。自分もその一端だと思うと情けなかったし、悲しかったよ。でも森も、その間ずっと傷つけられ続けてきたんだな。よく頑張った、ありがとう」


 ロディーヌは自分が体験した森の狂気を思い出す。あんな恐ろしいものはないと思った。しかしそれは追い詰められたものの悲しい変化だったのだ。

 闇が消え去った今、すべてが新たな日々を歩み始めたのだと思うとロディーヌの心はじんわりと温かくなった。自分も同じように、暗闇の中から帰ってきたのだ。その喜びが手に取るように感じられる。


「みんなの言う通りだ。でも、もう大丈夫だから。きみたちを脅かすものはない。光をたくさん浴びて元気になっておくれ。美しい姿を一日も早く取り戻してほしい」


 キャメオンの言葉に、三つ子たちはいまだ痛ましい傷を持つ木肌にそっと触れ、目を閉じて心から祈った。

 心地よい風がどこからともなく吹いてきて、森が揺れさざめく。ああ、森が兄たちの想いを受け入れてくれているのだ、ロディーヌは思った。

 木漏れ日はさらなる輝きに満ち、水の音、鳥の声、羽音、小さな命の帰還がありとあらゆるところに感じられる。森が美しさを取り戻していく。ロディーヌは、ポルカたちエルフが愛した、魔領域の本来の姿を知ったような気がした。


 四人は生気にあふれた森の空気を吸いながら、柔らかな苔を踏みしめて歩いた。やがて小さな泉を見つければ、それは生まれ変わった森にふさわしい清らかな流れだった。

 ロディーヌは誘われるようにその水に向かった。もちろん三つ子たちも後に続く。彼らがためらうことなくその水を飲み、お互いに掛け合えば、水は彼らの中に深く染み込み、みなぎる力をわき起こした。

 自分たちは泉の王国の民だと自負する彼らも、それには大いに驚かされた。魔領域の水の美しさ。それはまさに砂の女神カロレイアの力なのだろう。世界はやはり深い場所でつながっているのだと四人は顔を見合わせて頷いた。


 それから兄妹は、ふんわりとした草の上に並んで座り、ポルカの作ってくれたサンドウィッチを食べた。岩山の中の空中庭園で、ポルカが丹念に育てたあげた様々な種類の野菜。そのすべてがぎっしりと詰め込まれた味は格別だった。

 四人は夢中で頬張りながら、彼の陽だまりのような笑顔を思い出す。赤い瞳は美しい情熱の色、愛の色。悪夢のような日々も、想ってくれる心一つで、尊い物語となっていくのだ。


 ポルカが語った遠い日の記憶と約束、ロディーヌに手渡された輝き、それらはいつかどこかで再び結びつく日が来るだろうか。

 青の中で育った彼らの中に灯された美しさはまだ小さなものではあったけれど、その輝きは至上の宝石のごとく、遠く未来をも照らすかのようだった。

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