第11話 青の楽園の夜明け
「そろそろ森を抜けられそうだな。ガデス、よく頑張った」
「ありがとう。みなのお陰だ。フレイヤードの癒しの力にずいぶんと助けられた」
『どうってことはない、おまえの信頼が力を増幅させただけだ』
『その通りだ。ガデス、おまえとフレイヤードは最高のパートナー同士だと思うぞ』
白み始めた空の下、森の出口を目指して走り続けてきた二組は、周りの風景が変わったことに気がついた。木々の間隔は広くなり下草が増えている。彼らは速度を落として声を掛け合った。
『雨にはどうやら間に合ったらしいが……』
『ああ、空が……残念だ』
ジュールの呟きにフレイヤードも空を見上げる。泉の王国は世界の東。どこよりも朝焼けが美しいと言われている。そしてその色は、ジュールたち聖獣が愛する里の夕焼けと同じ色、薔薇色なのだ。
昨日の朝はまだ深い森の中で、頭上を覆う木々の向こうにかすかに垣間見ただけの空。それでもその色はジュールたちの胸をときめかすには十分な色合いだった。今日こそはと思っていたのに、とんだ番狂わせで空は分厚い雲に覆われている。
「まだ時間はある、来たばかりではないか。雨が上がればきっと、より一層美しい夜明けを拝めるというものさ」
ガデスがフレイヤードの顎下をくすぐり励ます傍で、オワインはじっと南の空を見つめていた。
朝焼けが見えないばかりではない。空には確実に、この季節にそぐわない雲が押し寄せてきている。その証拠に、いつもなら青さを増すだろう時間になったというのに、太陽が顔を出す気配はなかった。
ジュールたちが危惧する雨はもうすぐそこまで近づいてきている。人よりも研ぎ澄まされた五感を持つオワインにもそれはひしひしと感じられた。
一見、薄い水色に見える空は、荒れ狂う暗雲を、精霊たちの薄膜一枚で必死に押さえ込んでいるかのような危うさを秘めていた。風が強まれば、空にひだが寄るような模様が描かれ、なにやら言い知れぬ不気味さを感じさせる。
天空草の花は雨に弱い。濡れれば最後、その美しさは失われてしまうのだ。これからが最盛期の初夏。国中が大騒ぎであろうことはオワインには容易に想像できた。
ロディーヌ探しが一番の目的ではあるけれど、時と場合によっては自分たちも雨に備える住民たちの手助けをするべきだろうとオワインは考えた。先の災害時、泉の王国からは海の王国同様、豊富な物資が送られてきている。少しでもその恩に報いるべきだ。
『オワイン、それはその時だ。まだ深く悩むな。今はまず森を出よう。確かこの先は……』
「ああ、フォンティオール領だ。天空草の楽園。森を抜ければ、まずは野生の一大群生地だろう。十分注意して進まないといけないな」
泉の王国の聖地であるそれを踏みにじって走るわけにはいかない。青い花々は女神のものであり、民の命そのもの。天空草には出来うる限りの敬意を払わなければいけないと、オワインもガデスも小さい頃から聞かされて育っている。
その群生地はどれほどの大きさか。さすがにオワインもそこまでは正確に把握していなかったけれど、はるか昔から、吟遊詩人の唄に出てくるほどの楽園だ。見渡す限りの青い世界が広がっていても不思議ではないだろう。
雨の前に街道へ出たいと焦る気持ちもあったけれど、まだ時間はありそうだ。ジュールとオワインは顔を見合わせる。今後の行き先を検討する必要もあるし、しばしの休憩も必要だ。森を抜けたら一度休もうと彼らは決めた。
やがて、木々の向こうにちらちらと青が見え隠れし始めた。いよいよ森が終わるのだ。重苦しい空が覆いかぶさってきてはいたけれど、その色には憂いを吹き飛ばすかのような清らかさが感じられる。その青に吸い込まれるように、二頭はまっすぐ向かっていった。
青。青、青、青。一面の青。
足を止めた彼らの前にあったものは、まさしく地上の楽園だった。晴れた青空の下ならば、どちらが空であるかわからないだろうほどの青がそこには広がっていた。
花の時期に来たことのなかったオワインはその美しさに絶句した。並ぶガデスも無言でその光景を見つめている。ロージーの花咲く広大な荒野を知っている聖獣たちさえも、息を飲んだままだった。
「ああ、これだ……これこそがロディーヌの瞳の色なのだよ、ガデス」
振り返って、感極まった声を絞り出すオワインに、ガデスは優しい笑顔を見せた。ロディーヌの瞳は泉のようだと何度も繰り返していたオワイン、しかしそれ以上にぴったりものがあったとは。初めて見る野生の天空草の花は深く濃く鮮やかで、まさに彼女は花の精のようなのだろうとガデスは思った。
その群生地の中には大小の泉が点在する。透明な泉の青は空を写したものであり、天空草の花もまた同じ色。そう、泉の王国のすべてが天空の色なのだ。ガデスは、この地が今もなお、神話の世界のようだと語られることに深く納得がいった。
空と花と水が一つになった国。そしてそこに住まう人の瞳もそれと同じ。青の王国、何と美しい国だろう。その青は、今日のような曇り空の下でさえ圧倒的な美しさを誇る。いや、こんな日だからこそ、その鮮やかさは際立っているのかもしれない。誰もが無言のまま、しばし青の世界に酔いしれた。
やがて大きな吐息とともに、ガデスがフレイヤードの首を抱けば、互いの中の青が揺れてさらに広がるかのような感覚を一人と一頭は共有した。それはえも言われぬ美しさで、彼らは大いに喜びを噛みしめた。
その隣でオワインは揺れる花をじっと見つめたままだった。想いが入り乱れ、胸がいっぱいで、茫然自失といったところだろうか。ジュールがふっと微笑み、少し水を飲んで休もうと声をかける。
ちょっと先に泉があるのが見えたからだ。ジュールはフレイヤードを促して歩き始める。小さな花を踏まないように、二頭は十分注意しながら、その揺れる水面を目指してゆったりと進んだ。
水辺に近づくに連れて、群生地の様子がよりよく見えてきた。なだらかな起伏のある土地には細い水路が幾筋も走り、それが泉と泉を結んでいる。天空草の花々は、雨を必要としない代わりに、その豊富な水分を含む土壌によって育まれているのだ。
低くなっている斜面のむこうに、微かに薔薇色の筋が見えた。大街道だろう。世界のどこにおいても同じ色、見間違うことはない。それが思ったほど遠くないことにオワインたちはほっと胸をなでおろした。
これならここで少し長めに時間を取っても、雨が本降りになるまでにたどり着けるだろう。ジュールがそう言えばみなが賛同する。夜を徹して走り続けた彼らはさすがに疲れていた。しばしの休憩も、この美しい水があればより効果を増すに違いない。
静かな朝の中、目の前に姿を現した泉は複雑な形をしていた。周りは柔らかな苔と白い岩で囲まれている。朝露に濡れたなんとも美しいその泉を、隅の方からじっと観察していたオワインは、ふと岩陰に夢にまで見た人の姿を見つけた。
思わず声が出そうになった。口を押さえたまま、疲れゆえの幻かとオワインは何度も目をこすった。こんなところで、それもこんな早朝に出会うなど……。
しかし、その姿が搔き消えることはなかった。別れた日よりも幾分ほっそりとして大人びた横顔、美しい金色の髪は一層長くなり、本来の艶を取り戻して流れる光のようだ。長旅の末の彼女は薄汚れていながらも凛として美しかったけれど、今目の前で泉に手を浸す彼女は、その何倍も美しくてオワインは戸惑ってしまった。
夢の中でいつも赤い花の散ったドレスを着ていた想い人は、今日も同じドレスを身にまとっている。しかしその花はオワインが覚えている以上に鮮やかで、まるで母の庭に咲いた真っ赤な野薔薇のようだったのだ。
「ロディーヌ……」
もし一人であったならば、オワインはその場に立ちすくんで動けなかっただろう。けれどそこには彼のよきパートナーがいた。ジュールは、自分も大好きなロディーヌの姿を確認したあと、黙ったままのオワインの様子に喉をならして笑いながら、この黒を纏った美丈夫を悠々と、愛しき者のそばへ運んだ。
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