第10話 闇夜を切り裂く光

 翌朝、準備を終えたオワインとガレスがもう一度地図を見て方向を確かめているところにジュールが顔を出した。いつもの彼らしくない。黙ったままじっとオワインの目を見る。

 オワインは何やら悪い予感がした。この先に何か起こったのか? けれど進まないわけにはいかない、意を決して、どうしたのだと尋ねればジュールは静かに切り出した。


『雨だ。天気が変わりそうだ、オワイン』


 この時期、泉の王国に雨が降るなど聞いたことのなかったオワインは驚いた。ジュールも頷く。だからこそ、彼らはこの時期を選んだのだ。野宿をしても問題のない晴天続きが通常の季節、それなのに。


『明日の昼前くらい、いや、もっと早いかもしれない。どうも読めないのだ。フレイヤードと一緒に何度も確認したのだが、気流が乱れているせいだろうか……しかしこれだけはわかる。かなりの雨量だ。今の時点で感じられる雨雲の大きさ、重さだけでも半端ない。前面でこれだ。その後ろにどれほどのものがあるか……これは……普通の雨ではないぞ』

「信じられない。この時期に雨? 天空草の摘み取りがまだのこの時期に……いったい何が起きているのだ。森を抜けた先の北西部は主要栽培地だから、ちょっとした騒ぎになっているかもしれないな。しかし、天候の動きが読みにくいとなると、私たちもうかうかしていられないということか」

『ああ、まさかこんな事態になるとは予想もしなかった。ここへ来るまで何も感じなかったからな。巨大な雨雲が突然わき上がったとしか思えない。とにかく、なんとしてもこの雨は避けたい』


 落葉樹の森は昨日抜けてきた針葉樹の森よりも広大でより時間がかかる。最初の予定では、ガデスに負担をかけないよう休憩を多めにとって、明日の午後遅くに森を出るつもりだった。けれど、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなったということだ。

 雨は自分たちが思うよりも早くやってくるかもしれないし、降り始めればどうなるのか、まったく予想もできない。森を抜ける前に雨とぶつかってしまう可能性もある。聖獣には多少の雨など問題ないけれど、オワインたちにはそうはいかない。特にそんな経験が皆無のガデスのことをフレイヤードはいたく心配した。


 雨に打たれれば、それだけで疲れる。その上、速度を上げて走ればその風当たりは強く、濡れた体は冷えて急速に体力を奪われるだろう。距離か時間か、ぎりぎりのところでの駆け引きとなる。

 通り雨程度であればどこかで雨を避けて待つことも可能だが、今回の雨はどう考えても長引きそうで、待てば待つほど足場が悪くなっていくことも容易に想像できた。これは、少しでは早く森を抜け、泉の王国の大街道まで出るべきだとジュールもフレイヤードも思ったのだ。


『オワイン、ガデス、ここが踏ん張りどころだ。フレイヤードと話し合って決めたのだが、夜の間も走り続けようと思う。雨が来る前に森を出るのが一番だ。もちろん休憩はとる。だから少しの間、頑張ってくれるか?』


 申し訳なさそうに声を絞り出すジュールに、オワインは首を振った。謝る必要などどこにもない、それどころか、すべて乗っている二人のことを思ってのこと。

 もっとも負担を強いられるのはジュールたちだというのに、まったく聖獣というものは……オワインが振り向けばガデスも頷いている。自分たちには感じられない天候の変化をいち早く感じ取り、一番よい方法を提案してくれる聖獣たちに感謝しかなかった。

 雨に濡れて走るより、夜を徹して走る方がずっといいだろう。それでも、やはりそれ相応の覚悟が必要となってくる。ジュールと一緒に過酷な状況を幾度となくくぐり抜けてきたオワインにはある程度予想できたけれど、ガレスにとっては強行軍になるだろう。心配顔のオワインに、しかしガレスは笑って答えた。


「オワイン、私が望んで連れてきてもらったのだよ。普通ならもっと時間がかかるところをこんなにも短時間でこんなにも快適に運んでもらった。私に出来ることなら何でもするつもりだ。当たり前じゃないか。ほら、考えてみろ。夜の酒場に気の置けない友人たちと繰り出せば、誰もが朝日を見るまで眠らないじゃないか。あれと同じさ。何の問題もない」


 今やすっかり家令の仮面を外し、乳兄弟として振る舞うガレスの言葉にオワインは破顔した。道なき道をいく夜間走行を徹夜の遊びに例えるとか、何という破茶滅茶ぶりだろう。

 けれどオワインはよく知っていた。この幼馴染は一度決めたことは、決してあきらめずやり遂げるのだ。言い出したら絶対後にはひかない。そんな時はどうするか、そう、笑ってともに走りだすだけだ。小さい頃から二人はいつだってそうしてきたのだ。

 オワインはガレスの肩に手を置いて力強く頷いた。さあ、出発だ。まだ空は青く雨の気配はなかったけれど、聖獣たちが心配する雨は確実にやってくるだろう。いつどんな風に変わっていくかもわからない。オワインはガレスのために、少しでも早く街道に出られることを祈った。

 そうして彼らは森を抜けるべく走り始めたのだ。


 昼に一度、夕方に一度休みを取り、少し仮眠したあと、いよいよ本格的な夜の中へ聖獣たちは駆け出した。

 人の目には見えないも同然の闇の道。大きな樹々に阻まれ、頼りになるはずの月も足元までは照らし出せない。おぼろげな薄明かりの中で見る景色は昼間とは打って変わり、長く歪に伸びる影や引き込まれそうな暗がりは、心の弱いものなら震え上がるような不気味さだ。

 しかし二頭は恐れなど微塵も感じさせない。木々の間をすり抜け、暗闇を切り裂くように進む。己のパートナーを心から信頼し身を預ける二人もまた、何の憂いも感じることはなかった。


 途中、ふとひらけた場所に出た時、ガデスは目を見開いた。月光に浮かび上がる目の前のジュールが、例えようもなく美しかったからだ。

 その体は黒でありながら光を放ち、闇を従えて夜の中に君臨するかのようだ。それでいてその内に、そんな荒々しさとは真逆の、清らかな薔薇色を抱く様は、まるで神話の森に降り立つ神の御使いさながらだとあ思った。

 そして、その背にいるオワインもジュールに負けない美しさだった。はためくマントの下、強靭な肉体が見事な彫像のように浮かび上がるだけではなく、月光にも負けぬ金色の輝きを双眸に宿した横顔の凛々しいこと。ガデスにとって、小さい頃から見慣れているはずの幼馴染の美しさも、今ここで見ると別格だった。


 恐ろしいほどの速さで駆け抜けていくというのに、ガデスにはすべてが夢のように感じられた。感嘆の吐息を洩らし手元を見やれば、自分の乗る雪豹の美しさにも気づいた。

 フレイヤードの銀色の体毛が、月光のように輝いている。黒い斑点は、頭上を流れ行く雲にも似てなんとも美しい。光と闇のようなジュールとの対比は、ガデスに息をのむような鮮やかさを感じさせた。

 一方で自分はというと、特別なものは何一つ持っていなかったけれど、その髪の色に合わせて深い墨色のマントを羽織っている。それがフレイヤードの色合いと相まって、月光の下でなんとも言えず良い味わいを感じさせることにガデスは十分満足した。


「なかなかいい絵ではないか」


 思わず呟けば、笑い声がガデスの中に響いた。


『こんな場面でそんなことを思い描くなど、おまえはやはり相当な強者だな』


 フレイヤードの声は、耳元で轟々と音を立てる風切り音に遮られることなく届く。


『ガデス、本当に面白い。肝の座り方が半端ではないと思っていたが、この暗闇で美しさを堪能するとか、恐れ入る。それにな、ガデス。おまえもまた、語り継がれるにふさわしい美丈夫だと俺は思うぞ』


 どんな時も美しさを愛でることを忘れない。乗せて走るのにこれ以上の相手はいないと嬉しそうに言うフレイヤードに応えるように、ガデスは微笑みを浮かべてその首筋を叩く。

 オワインたちが心配した夜間走行も、まずは順調に始まったようだ。月に見守られるように、彼らは深い森を迷うことなく突き抜けていった。


 とはいえ長時間、暗闇の中を走り続けることはたやすいことではない。月光も届かない場所を行けば、互いの温もりだけが頼りだ。聖獣たちは乗せている二人を気遣い、時に歩を緩め、声を掛け合って進んだ。

 そしてそんな中での休憩は、必要最小限にとどめた。互いの顔がぼんやりとしか見えないような暗闇では、逆に疲れを感じ、意識が遠くなってもおかしくはないからだ。少し水を飲んだり体をほぐしたりしただけで、彼らはすぐに出発した。


 やがて、あたりの景色が少しずつ形になってきた。夜明けだ。長く辛い夜を乗り切ったのだ。オワインはジュールの首筋に優しく触れて、心からの感謝を伝えた。ガデスにもフレイヤードにも笑顔が戻る。彼らは互いを労い、明けていく空の下、さらに軽やかに速度を上げた。

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