第9話 月光の森で愛しいあなたを想う
予定通り、夜までに泉の王国側へたどり着いた一行は満足だった。ここで少しゆっくりしようと互いをねぎらい、開けたところに座って、まずは簡単な食事をすることにした。
ほっとしたガデスはようやく自分の体が戦慄いていることに気がついた。ずいぶんと気を張っていたからわかっていなかったけれど、足も腕もぶるぶると震え力が入らない。初めて馬に乗った子どもみたいだと肩をすくめて苦笑する。
「いやいやよくやった。初日から聖獣に丸一日騎乗とか、普通ではありえないことだ。おまえは立派にやり遂げたんだよ、ガデス」
オワインが肩を叩けば、フレイヤードは労わるかのようにその足腰に額を擦り付ける。
『ああ、そうとも、さすがガデスだ。きっと思った以上に疲れているからな。とにかく今夜はよく休め』
ジュールがそう声をかけると、ガデスはぷいと頬を膨らませた。同じように一日を過ごしたと言うのに、まるで何事もなかったかのような彼らの様子に拗ねているのだ。
それは城では見せない姿だった。でもオワインはよく知っている。それは小さい頃の真のガデスの姿。いつだって力一杯で、その先を望んで、勝ち取る心意気にあふれている、負けず嫌いのガデス。
でも今日のそこには、自分が足手まといになっていなければいいのにと言う不安も見え隠れしていて、みなはそんなガデスをいじらしく思った。
「今日は慣らしだ。まずますだ。でも間違いない、帰る頃には楽々だ!」
ガデスがわざと大きな声で宣言すれば、『ほおぉ、それは楽しみだあ、万能の家令さまのお手並み拝見といこうか』とジュールが煽る。いつもの展開だ。しかしそれに対してフレイヤードはなんとも優しげな声でガデスに語りかけた。
『ああ、本当に楽しみだよ。ガデスは何事もそつなくこなすからなあ。しかし可愛いな。ガデス、いつもそうしていればいいのに。氷の家令は返上して、次からは情熱の家令でいこう』
珍しく真っ赤になるガデスを見て、くすくすとフレイヤードが笑い出し、オワインも常には見せない悪い顔をして顎を撫でた。こほんと咳をしたガデスは、それでも強がって「ああ、見ていろよ」と捨て台詞を吐いたものの、次の瞬間には「だめだ、もう立っていられない」とひっくり返った。そして自分も笑い出した。
気の置けない仲間とこんな風に軽口をたたき合って笑うのは士官学校を出て以来、オワインにとっても久しぶりのことだ。ガデスと一緒に来れてよかったとオワインは心から思った。
「さあ、たいしたものはないけれど、食事にしよう」
やはりこういう時にはガデスだ。さっきまで伸びていたというのに、さっと手際よく持参したものを並べていく。それは乾物を中心とした携帯食だったけれど、オワインには十分だった。ジュールたちは特に食事を取らずとも問題はないため、すでにまったりとくつろいでいる。
それに何と言っても泉の王国は水の豊富なところだ。少し歩けば小さなわき水を見つけることが出来る。冷たくて甘いその水を飲めば、疲れた体が癒されていくのをオワインもガデスも大いに感じた。
聖獣たちも、この神話の時代から尽きることのない泉の水には大いに反応した。直に飲みたいと体が求めるらしい。ジュールもフレイヤードも、喉を鳴らして満足げだった。
「すっかり夜だが、それでも美しいところだな。月光に照らし出されてなんと幻想的なことか。まるで精霊の国に迷い込んだようじゃないか」
ガレスは初めて訪れた泉の王国の想像以上の美しさと豊かさに感動していた。オワインもまた、以前見たよりもずっと美しいと感じる風景を前に、ついに大切な人に会いにきたのだという実感がこみ上げてくる。
柔らかな苔にしたたり落ちる水は森のあちこちで軽やかな音を生み、聴く者の気持ちを優しく温かく包み込んだ。こんな美しいものを、まだ多くの人が知らない。それはあまりにももったいなことだ。いつか、世界の多くの人にも、この美しい旋律を感じてもらいたいものだとオワインは思わずにはいられない。
と言って、それは闇雲に開発を進めるということではない。森を慈しみ、森と共存しながら、人が森に入る、そんなことができたらと思うのだ。そこで心から癒されることができたなら、どんなに素晴らしいだろう。他国だと言うのに、他人事とは思えない。その美しい未来図にオワインの胸は高鳴った。
ロディーヌを想ってこの地にいなければ、きっとこんなことを感じることもなかっただろうとオワインは気づいた。かつてこの森を通った時には、呑気にも昼寝をしてしまった自分に驚かされた。この王国の穏やかさと平和さに納得し、水の素晴らしさに感嘆の声をあげたものの、それだけだった。
人は人を想って初めて、自分を取り巻く美しさにより気がつけるようになるということだろうか。何かを慈しみ、愛でる、そのあまりにも甘美な時間は、人生の中になくてはならないものかもしれない。今更ながらに、自分に足りなかった何かを知らされているような気がして、オワインは思わず苦笑した。
そんな百面相を、ジュールは薄眼を開けてこっそり見ていた。ロディーヌと出会って以来、本当に表情が豊かになった。人らしくなったというか、押し込められていた素直さが目覚めたというか……本来の快活さを取り戻したオワインは輝いて見える。ジュールはそれが心底嬉しかった。
ジュールもまたロディーヌを気に入っている。目の前の形ではなく、魂の形を見てくれる人。本人はそんなことを一々考えて行動しているわけではないだろうけれど、いつだって彼女はものの本質を大事にする。
それはきっと、醜い鳥の姿になってしまった兄たちのことを、どんな時も愛していくのだと決めた彼女の強さが作り出したものなのだろうとジュールは考える。それは真の愛の力だ。そしてそれこそが、オワインをも救った。
人は、その行動に伴う理由や意味を知りたがる傾向にあるけれど、そんなものはどうでもいいとジュールたち聖獣は思っている。本能に勝るものはない。けれどオワインは人の世の中で、そうできずに苦しんできた。
そんな彼に、ただ純粋に感じ思うことの美しさを教えてくれたロディーヌとの時間は、ジュールにとっても特別なものとなった。自分も知らないうちに、人と自分たちの間に線引きをしていたことに気づかされたのだ。同時に、それを鮮やかに切り離されて心が震えた。
今、自分たちを取り囲むこの森や水の美しさを見れば、この王国がロディーヌという類い稀な娘を生んだのだということがよくわかる気がした。
それは自然の姿そのものだ。見返りなど求めない。あるがままの姿で相手と向き合い、何一つ惜しむことなく与え続ける。だからこそ、誰もがその前では素直になれる、自分でいられるのだ。
もしかしたらこの地は、まだまだ迷いの中にいる自分たち聖獣をも包み込んでくれるのではないだろうと、ふとそんなことをジュールは思った。なんだか幸せな気分だった。ジュールは旅の成功を心から願うと静かに目を閉じた。
ガデスはフレイヤードに寄り添ってすでに夢の中だ。静かな寝息を立て始めたジュールを横目に、オワインは静かに夜空を見上げた。
煌々と輝き始めた月に、心の奥の奥までも照らし出されるかのようだ。しかし隠すものは何もない。迷うことは何一つなかった。
「ロディーヌ」
女神の微笑みのような、透き通り清らかな月の光の中で、オワインは過ぎた一年に思いを馳せる。もうすぐ、ひと時たりとも忘れることのできなかったその温もりを感じられるのだと思うと、身も心も溶けるような喜びを覚えた。
ロディーヌと彼女の家族に、自分の真心を示すのみだとオワインは思った。自分にできることはそれだけだ。けれどそれが何よりのことなのだと感じる。
家族の絆はかけがえのないもの。苦しみの数年を超えてきたロディーヌたちにとって、もう二度と手放すことなど考えられないかもしれない。それでも伝えられずにはいられないのだ。ロディーヌはオワインにとっても、何ものにもかえがたい存在だと、嘘偽りのない心を届けたい。そしてそれこそが、深く固い絆を作り上げるものではないだろうか。オワインは、ロディーヌだけでなく、その家族とも一つになりたいと、そう望んでいる自分に気づいた。
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