第6話 出発の朝と駆け抜ける二頭
タナーティアはロディーヌの旅にいたく触発されたらしく、世界をまだ見たことがないから、海の王国まで陸路を行くといってガデスたちを慌てさせた。
言い出したら聞かないたちであることは誰もがよく知っていたけれど、城をほとんど出たこともない女性の足で一番遠い場所へ向かうなど、どう考えても無理な話だ。馬車を用意したところで一体どれだけかかることやら。
手を替え品を替え、タナーティアの気を変えようと城中の者が試みたがらちがあかない。もうここは甘言ではなく正論です、と最後にはガデスが「母上、その足は舌と同じほどは機能いたしません」ときっぱり言い切って引導を渡した。
がつんと正論というより、致命傷を与える鋭い一撃……オワインは苦笑を抑えられない。息子のそんな発言に、まあ、とタナーティアは最初こそ拗ねたそぶりを見せたけれど、横を向いて肩を震わすオワインを見つけ、いつの間にか一緒になって笑い出した。
そんなタナーティアのために、大きくはないけれど十分に整えられた船が用意された。掲げられた真っ白な帆の脇には、森の王国の深い緑の国旗、蔦と黒い獅子が描かれたシルバドゥール家の紋章。
一侍女にこのような……と顔色を悪くしたタナーティアにオワインは首を振る。あなたは家族なのだよと微笑まれ、思わずあふれた涙を拭われ、タナーティアはオワインの気持ちをありがたく受け入れた。
ザイルフリードの貢献によって、森の王国の造船技術は素晴らしく向上していた。さすがに海の王国のように、その目的で形を変えられほどの数は持っていなかったけれど、それでもシルバドゥール領内には、どこよりも多くの優れた船がある。急な話であっても、タナーティアの船を用意するくらい訳もないことだった。
朝日の中で打ち寄せるしぶきが舟べりを輝かせる。タナーティアは優しい眼差しをそれに注いだ。その横顔は、初めて大型帆船に乗って北上してきた遠い日を思い出しているのかのようだった。オワインは小さくなった乳母を抱きしめた。タナーティアが金色の瞳を輝かせて笑う。
「若さま、見たこともないような素晴らしいお土産を期待していますよ、ガデス、しっかりね」
そう言うと、渡り桟橋の揺れなどまったく意に介さず、軽やかにドレスの裾を翻して颯爽と船に乗り込んだタナーティア。その姿はなんとも鮮やかで美しく、まさに活動的な海の王国の王女、ルメリアーナの第一侍女であると、誰も密かに心の中で舌を巻いた。
その帆が小さくなっていくのを見送ってから、オワインたちは出発した。
今日のために、彼らは綿密な計画を立てた。泉の王国に入ってからはさすがに行き当たりばったりになることも多いかもしれないけれど、森の王国側、最初の移動についてはできる限りの準備をしたのだ。まずはここで時間を稼ぐ。
領主と家令が揃って不在となると、大切な旅ではあるけれど、そうも長くはかけられない。ロディーヌの所在がわからないという不利を跳ね返すためにも賢明な策だろう。
けれどそれは常人では考えられない旅程だった。しかしオワインは無理難題を吹っかけているのではない。逆にガデスを思ってのことでもあった。
ガデスも神妙な顔でそれに応える。彼にとっては何から何まで初めての旅。できるかどうか、何をするべきか、考えたところで到底計り知れるものではない。これはもう、オワインにすべて任せるべきだと、賢い家令は早々に判断したのだ。
初日は陽のある限り全速力で森を行く。森の王国側を走りきるのだ。見た目よりも起伏があり、大きな木の根がむき出しの場所も多く、暗くなってからは走りづらくなる。少々強行軍ではあるけれど仕方がない。
それに、所狭しと育っている針葉樹林の森は、体を休めるという目的でも安全の面でも宿にするには適さない。かつて、実際に駆け抜けたジュールにはその辺りのことがよくわかっていた。だから、少しでも早く広葉樹林の森に入ることが旅を楽にする方法だろうと、みなで決めたのだ。
そうして出発した彼らは、昼に一度短い休息をとった他は、とにかく風のように駆け抜けた。何度も何度も地図を広げて割り出した最短ルート。黒々と雄々しい森の王国に広がる針葉樹林の森にも、夕刻に差し掛かる頃にはいつしかわずかばかりの柔らかな色が混じるようになった。自分たちを取り巻く世界に変化が現れたことはガデスにも感じられた。
「ああ、なんという色だ。柔らかで優しい、これが泉の王国の色なのか」
「ガデス、まだ口を閉じていろ、舌を噛むぞ。確かに優しい色が増えたが、まだまだこんなものではない」
やがてくっきりと樹の形が変わり、空がより多く見えるようになった。投げかけられる光も陰影の深いものではなく、騒めくような木漏れ日となり、あたりは一気に優しい若草色に包まれた。国境を超えたのだ。ガデスは思わずため息を洩らした。
ここから泉の王国の落葉樹の森が始まる。しかしまだ、なだらかな丘陵地帯が広がるのはその先で、先を急ぐことに変わりはない。森の王国と変わらない荒々しい道を、沈む夕日と競うかのようにオワインたちは駆け抜けていく。
のどかな風景ではあったけれど、これからが本番だ。森の王国の北ほどではないけれど、ここもまた途方もなく広大だった。今駆けてきた森のゆうに二倍以上はある手つかずの大森林地帯だ。
この場所は、神話の時代から何一つ変わっていないのかもしれない。そう考えると、この未知なる土地に不安を抱いてしまいがちだけれど、オワインは経験から知っている。
人が行き交うことがない辺境の地であっても、この森には旅人の命を脅かすような危険はない。穏やかなその樹々と同じように、ここでは草を食む小動物が主だからだ。野宿をすることは決定で、それゆえに少しでも早く泉の王国側へと入りたかったのだ。
「さすがにこちら側まではやって来なさそうだな。まあ、ジュールの速度にはついていけないだろうし、恐るるに足らずというところだが、あまり気持ちのいいものではないからな」
どうやら、オワインたち一行を遠巻きに追走する影があったようだ。森の王国の肉食獣、狩の専門家たち。それらを遠くなった針葉樹林とともに振り切ってきたというわけだ。ガデスは改めて自分が途方もない旅の途中なのだと実感した。
オワインはジュールの首を優しく叩いてその歩を緩めた。すぐ後ろから黒豹よりも一回り小さい雪豹に乗ったガレスが続く。
ずいぶんと様になってきたその様子にオワインは目を細めた。さすがにガデスだ、とこの幼馴染の器用さと大胆さに大いに満足すれば、ジュールもガデスを称えるかのように喉を鳴らした。
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