第5話 何よりもあなたに似合う色
タナーティアがオワインの部屋を訪れたのはその翌日だった。
オワインたちが発つ日に、自分も海の王国へ行こうと思うのだと彼女は切り出したのだ。突然のことで戸惑うオワインに、ずっと前から考えていたことだし、行くと言ってもほんのひと時の里帰りだから心配ないと笑った。一度も海を見ることのなかったガデスの父、アーデルベルトの遺品とともに王国に戻り、海を見せたいのだとタナーティアは話す。
あの崩落事故の日から、彼女もオワインたちと同じように苦しんだ。けれど奔走する息子たちのために決して涙を見せず力になり続けてくれたのだ。そんな彼女が、オワインの母ルメリアーナが亡くなった時には、箍が外れたように泣いた。それは、オワインが物心ついてから初めて見る彼女の涙だったように思う。
「ああ、思う存分楽しんできてくれ。母上や私のために、あなたはこれ以上ないほど働いてくれた。十二分に休むべきだ。すっかり休暇が遅くなってしまって申し訳ない。アディに怒られてしまうな。しかし行き先が海の王国となるとガデスが拗ねそうだが、今回は泉の王国に一緒に行くからそれで許してもらおう。海の王国にはまたいつか必ず連れて行く。でもタナーティア。必ず帰ってきてくれ。ガデスと私のために、この森の王国にちゃんと戻ってくると約束してくれ」
オワインがタナーティアの手を取れば、母と同じ金色の目を持つかつての乳母は笑った。
「もちろんです。姫さまも私もあの日決めたのですよ。私たちはもうすっかり森の王国の人間なのです。帰るところはここしかありません。それよりも若さま。若さまこそ、しっかりなさってくださいましよ。必ず大切な方を連れて戻ってください。私はそちらの方が心配です。若さまはここぞというときに押しが弱いですから。まあ、ガデスも一緒ですし、きっとどうにかなると信じております。あの子の減らず口はいただけませんが、こういう時にはめっぽう力を発揮しますから。今回ばかりは多少暴走しても許すつもりです」
そう言って口角をくいっと上げたタナーティアには憂いなど微塵も感じられず、自信たっぷりのその顔はオワインが幼い時からよく知るものだった。
悪さをしてガデスと二人怒られた日々をオワインは懐かしく思い返す。華やかで美しい顔をしたこの乳母は、しかしガデスの母なのだ。優雅に微笑みながら、実に辛辣な言葉を容赦なく投げつける。そう、彼女は恐ろしいほどに毒舌家だった。
「タナーティアの大胆不敵さは海の王国でも有名だったのですよ。彼女でなければ私の侍女など務まらないと誰もが言うの。私の手綱を握れるのはタナーティアだけって。それはどう意味かしらね。褒め言葉なのかしら。彼女にとっての? 私にとっての? どちらにせよ、アディとは犬猿の仲のようでもありながらも似たもの同士で、とってもお似合いだったということよ」
ルメリアーナの言葉がオワインの中によみがえる。オワインは、乳母の久しぶりの毒舌に笑った。幼い日のように屈託なく、心の底から笑ったのだ。相変わらず酷い言われようだと苦情を言いつつも、自分を思ってくれるタナーティアの心が感じられて安心する。みながまた元のように明るさを取り戻しつつある。誰もの上に生きていく力がみなぎり始めたことがオワインには何よりも嬉しかった。
必ずロディーヌを連れて帰る。世界一強い乳母の命令には絶対に背けないと言えば、タナーティアは一層微笑みを深かめた。向き合う二人の金色の瞳は、揺れるヴァナンガラージュ、輝くヴァナンドラ。それは未来を照らし出す灯なのだ。
「あっ。若さま、それはもしや……」
オワインがタナーティアの視線を追えば、それはキャビネットに置かれたロディーヌの髪に注がれていた。太陽と月を合わせたような光の髪は、母から託された一番深い約束の赤のリボンで結ばれている。
「ああ、そうだ、約束の赤だ。母上にいただいた。私にはリボンの使い道など分からなかったけれど、これならば相応しいだろうと思って結んだのだ。母上も喜んでくださるといいのだが」
「もちろんでございます。ああ、なんと美しい。ロディーヌさんはきっと赤もよく似合われることでしょう」
オワインはそっとその艶やかな髪を撫でた。多くのものをなくしたけれど、約束の赤がそれをみな結びつけてくれるような気がした。今度こそ、自分が見つけた輝きを守り抜こうとオワインは心に誓った。
必要な荷物をまとめ終えたオワインが夕暮れの庭へと続く大きな扉を開けた時、向こうからジュールが走ってくるのが見えた。
そのしっぽが多いに揺れて何かを物語っている。珍しく声を送ってこないことに首を傾げていると、ジュールは一声鳴いてきびすを返した。
オワインははっとして走り出した。ここしばらくこんなに自力で駆けることがあっただろうか。気持ちが急いて、前のめりになって走る自分がおかしかったけれど、そうせずにはいられなかった。
庭の一番奥にたどり着いたオワインは、ジュールが静かに座るその横に、花開いた野薔薇が揺れているのを見た。
赤い花が、赤い花が咲いている。オワインは、何度も何度もそれを見た。形も香りも野薔薇そのものなのに、その花は白でも薔薇色でもなく赤だった。それも、うっすらと金粉を振りかけたかのような赤。それはまさに、母のヴァナンガラージュと同じ色。約束の色だったのだ。
オワインはあの日のことを思いだす。ロディーヌの血を吸い込んだあの地面に、この野薔薇の株はあった。これはロディーヌの血から生まれた花なのだ!
兄たちへの変わらぬ想い。紆余曲折の末に勝ち取った女神への想い。オワインに向けてくれたどこまでも正直で純粋な想い。
ロディーヌのそんな想いが作り上げた色……それが約束の色であったことに、オワインは感動以上に大きな安堵を感じた。全身の力が一気に抜け落ちた。もう何一つ心配などないのだと思ったのだ。ジュールの隣に座り込めば、同じような表情をさらけ出した黒豹と目が合い、大いに苦笑しあった。
『オワイン、俺はなんと言っていいのか分からなかったよ。これを奇跡と呼ばずなんと呼ぶ。ロディーヌは一体どれほど規格外なのだ』
「ジュール、私もだ。この気持ちをうまく言えそうにない。ただ、あの日の言葉は偽りないものだったのだと、彼女の気持ちを今まで以上に信じることができる。あとは私だな。この花色に恥じぬよう、真心をこめてロディーヌに求婚するつもりだ」
『ああ、しくじるなよ。黒の将軍さまの名に相応しい男気を見せてくれ。憂いなどすべて吹き飛ばし、さらってこようじゃないか』
「ジュール! またさらうだなんて。ロディーヌに頷いてもらうのだよ、微笑んでもらおう。私の気持ちを余すことなく伝えるだけだ」
遠い魔境の地で、彼らの想いが溶け込んだ血は大地に吸い込まれ、それを野薔薇が受け取った。王子の想いを、妖精の想いを、エルフたちの想いを……すべてを抱き締めて、野薔薇はあの日オワインを呼んだのだ。
そのつるを差し出し、ともに行こうと呼びかけた。異国の地で咲いて、この想いを伝えよう。そう野薔薇が決めたことを、オワインもジュールも感じることができた。
ロディーヌの青い髪が麗しの水で野薔薇の命をつなぎ、ルメリアーナのこの魔法の庭が慈しみ守り育てた。そしてここにもまた、命を受け継いだ赤が生まれた。約束の時が来たのだとオワインは思った。
『赤き花咲くとき、時は満ち、愛は生まれる』
王女の残した言葉、ルメリアーナが紡いだ言葉。赤がオワインに時を知らせている。想いを届けに行けと教えているのだ。オワインたちの目の前で、真っ赤な花は次々と咲いていく。あふれるような愛が世界を満たしていくようだった。
あの日、ロディーヌのドレスにも赤い花が咲いたことをオワインは思いだした。あの瞬間、自分たちはもう未来を指し示めされていたのだ。母のヴァナンガラージュのように見えた花は、この野薔薇だったのだとオワインは気づいた。赤い花が咲く日を待っていろと、それは彼に語りかけていたのだ。
オワインはあふれんばかりの花を見た。これで花冠を作る。白でも薔薇色でもなく、この赤でよかったと心から思った。それはタナーティアと見たあの日の髪とリボンそのものだ。きっと赤もよく似合うとタナーティも言ってくれた。
どこからともなく風が吹いてきて枝を揺らした。さあ、持っていきなさいと促されているかのようだ。オワインはその一枝を、あの日ロディーヌの指を切り取った短刀で、同じように鮮やかに切り落とした。
そしてその枝を手に東の森を振り帰れば、昇ってきた月は辺りを柔らかな白銀の光で包み込む。それはまるでロディーヌの微笑みのようだった。
「さあ、行くか。森を駆け抜けよう」
オワインはジュールの首筋をやさしく叩いた。
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