第3話 時を超えた贈り物
ちろちろと雪解け水の音が聞こえる。城の雪囲いは全て取り払われた。植物たちの目覚め。萌え出ずる若草に包まれるようなルメリアーナの魔法の庭で、オワインの野薔薇も無事に春を迎えていた。
柔らかな日差しを浴びてさらに広がった枝、顔をのぞかせた新芽。ぎっしりとついた蕾たちは未だ緑の鎧に守られていたけれど、確実に膨らみを増している。庭に走り出たオワインは、その姿に深く安堵の息を吐き出した。
ロディーヌに会った日、それはもう初夏で、野薔薇の花は終わっていた。一般的な野薔薇は白で、噂に聞くエルフたちのかつての花は薔薇色だ。魔領域に咲いていたこの野薔薇は果たして何色の花を咲かせるのだろうか。どちらが咲いたとしても、ロディーヌにはきっと似合うだろうとオワインは思った。
誰かをこれほどまでに想ったことはなかった。その人がいるだけで、世界が色を変えることを思い知らされた。大事な人を失くすことの苦しみから逃れられたわけではない。けれどその人を忘れようとすることの愚かしさに気がついたのだ。大切なものは命ある限りそばに感じたいとオワインは思ったのだ。
「泉の王国……。もう花咲く季節だろう。きっと美しいだろうな。ロディーヌは家族でそんな花畑を散歩したりしているのだろうか……。どこかで野薔薇を見つけて、私のことを思い出してくれるだろうか……」
春遅い北の国の庭がようやく最初の一つを花開いた頃、帰城したオワインはまだ蕾のままの野薔薇の脇に座って、はるか遠い泉の王国へと続く大森林を眺めた。
泉の王国のどこへ行けばロディーヌに会えるのか。まったく当てはなかったけれど失望もしていなかった。この野薔薇がある限り、自分はきっとロディーヌの元へとたどり着けるだろうという不思議な自信があったのだ。根拠などなかったけれど、オワインにはそれがはっきりと感じられた。
ロディーヌが自分の瞳を美しいと言ってくれた時、オワインの胸は震えた。初めて自分であることを嬉しく思えたのだ。
振り返れば、それまでも多くの人がそう言ってくれていた。けれど素直にそれを受け止めることができなかった。その言葉が、喜びを伴ってこんな風に胸に響いたことはなかった。それほど自分はロディーヌに心を許していたのだとオワインは気づいた。
海の王国で教えられて、知りたいと望んだ愛の形、そんな相手。見つけたと思えたからこそ、ロディーヌの言葉がオワインの心の奥の奥に染み込み、決してぬぐい去れないと諦めていた黒い染みを溶かしたのだ。
抗うことなどできなかった。例えようもなく惹かれたのだ。あの日オワインは、初めて誰かに想われたいと願った。自分が想うように自分を想って欲しいと思ったのだ。
オワインは東の森の上に昇ってきた白銀の輝きを見つめる。その美しさは優しくて強い人を思い起こさせる。オワインの耳にロディーヌの囁きがよみがえる。
自分の瞳の色を、世界でたったひとつの真実の色だと言ってくれた人。遠い日、オワインの母は言った。あなたの瞳を美しいと言ってくれる人がきっといる。今その言葉をオワインは噛みしめる。そんな人を得ることができた喜びはたとえようもなかった。
「ああ、ロディーヌ。私のロディーヌ……」
オワインの唇が愛しい愛しいその人の名をそっと紡いだ。
翌日、オワインが出発のための準備ができたことを報告に登城したとき、自由自治区からの商人の一行がちょうど大広間に商品を運びこんでいた。美しい布が次々と広げられ、輝く宝石が並べられていく。
手招くエーディアスに近寄っていけば、グレンウッドのためのカフスとタイピンのセットを選びたいのだと言う。あなたの審美眼は間違いないものなのだから、自分は必要ないだろうと答えれば、それでは面白くないのだと口を尖らした。
「オワインさまだって、知らないものを食べたり、知らない場所に行ったり、そういうのは楽しいと思いますでしょ? グレンさまにはそういうことが少ないですから、贈り物くらいは驚かせたいのです」
そう言われればもっともである。では気軽に選んでみるかと、オワインはいつになく積極的に商品を眺める。
「ああ、そうだわ。じゃあ、私がオワインさまに選んであげましょうか? 泉の王国への出発、もうじきですよね。せっかく素敵な石がたくさんあるのですもの、ロディーヌさんにも選んであげましょうよ。きっと喜ぶわ」
「喜ぶだろうか……」
「ええ、もちろんですよ。みな綺麗なものが好きです。特に女性はね。高価なものでなくてもいいのです。お慕いする人からいただいたものは宝物。似合うと言ってくださればそれが一番になるのですから。私だってグレンさまから一番最初にいただいたネックレスは」
「グレンが?」
「ええ、そうですよ。選んでくださいました」
「そうか、グレンが……」
自分と同じように恋愛経験値が低く、女性に贈り物などしたこともないだろうと思っていたグレンウッドが、結婚前にちゃんとそのように気がきいたことをしたという事実に、オワインは軽い衝撃を覚えた。そしてそれはエーディアスが想像したように、オワインにいい意味での刺激を与えた。
「そうか、そうだな……母上も大事になさっていた。うん、私も選んでみよう。ロディーヌが好きそうなものを」
しかしふとオワインは顔を曇らせる。ロディーヌのなくしてしまった薬指を思いだしたのだ。婚姻指輪のための指。それをなくしたロディーヌに自分は何を贈るべきだろうか。自分としてはどの指に入れたところでいっこうにかまわないし、あってもなくても困らない。しかし女性はやはり気にするだろうか。そう思いながらオワインは、並ぶ指輪を睨むように見つめていた。
「オワインさま、いきなり指輪は……驚かせてしまいます。それよりは小さくて可愛らしくて、いつも身につけていたいようなものがよろしいかと」
「ああ、ああ、そうだな。けれどエーディアス、ロディーヌにはもう婚姻の指はないのだ……」
「ええ、存じております。けれどそれが何か? 好きなものを好きなところに飾れば良いではないですか。オワインさまは神のために婚姻を結ばれるのですか?」
「いや、そのようなことは……」
「でしたら、問題はありません。あなたさまがそんな風に揺れておいでになると、ロディーヌさんはきっと気にしてしまうでしょう。そんなものは関係ないのだと、微笑んで差し上げないと。それに、それであればなおさらのこと、婚姻指輪は特別なものとしてご用意したほうがいいでしょうから、今は別のもので」
「ああ、そうだな。いや、あ、エーディアス、私はその……まだ何も言われてはいないのだよ……」
「あら、そうでしたっけ? 大丈夫ですよ、オワインさま、指輪を贈る日はそう遠くはありません。今はしっかり石の下見でもしましょう」
「いや、その段階にもま」
けれどエーディアスはもうオワインの話を聞いていなかった。オワインが選んだグレンウッドへの贈り物を片手に、それに似合うだろう自分のものを探し出すことに夢中になっていたのだ。
その様子にオワインは苦笑しながらも、ずいぶんと胸中が軽くなったことに気づく。エーディアスの優しさに感謝しながら自分もと身を乗り出した。
並べられた宝石は王妃に似合うきらびやかなものが多く、それゆえにヴァナンドラの品揃えも揃っていた。その多くは非常に豪華な装飾で、王宮のサロンの燭台の下、燦然と輝いていた。
ついつい自分の瞳の色だからとこの石を見てしまったけれど、楚々としたロディーヌには他のものがよいだろうか。そう思って視線を移そうとした時、オワインの目は小さな雫型の美しいヴァナンドラを捉えた。
それはオワインの持つものと同じ形をしているように見えた。その大きさ、カットの仕方、思い出せば思い出すほどそっくりだった。はっとしたオワインはそれをつまみ上げ、まじまじと見た。
ロディーヌに手渡されたヴァナンドラは実は対の片方なのだと、帰国時に修理を頼みに出向いた工房で教えられた。鞘を作った職人が当時のことを色々と話してくれたのだ。それを聞いてオワインの中で何かがざわめいた。
「閣下、その石はここに戻さなくてもいいかもしれませんね。閣下には閣下のものがある。それを入れたほうがきっとよりこの鞘を閣下のものにするでしょう」
その言葉にオワインは頷き、ヴァナンドラと鞘を一旦持ち帰ったのだ。
「ああ、閣下。それは……実は半端ものでございます。形から見て、多分対になったものがあったのかと思われますが、今は一つなのです。たまたま仕入れたヴァランドラの大箱の中に混じっておりまして。どうすべきかと思いましたが、非常に美しくて手の込んだものでしたから、何かに役立てられるかと思い一緒に持って参ったのでございます。名のある職人が作ったものが、何かの拍子に紛れてしまったのかもしれません」
商人の言葉にオワインは息をのみ、もう一度その石を見つめた。オワインは知る由もなかったけれど、それはザイルフリードがかつて聞いたのと同じ言葉だった。
対だったのに一つになった石。それは……オワインの胸に奇妙な高まりがせり上がってくる。そうだとしたらこれは奇跡なのか。ロディーヌが砂漠から連れ戻してくれた父のヴァランドラが、ついにその片割れを見つけたのだ。大切な人に贈るのに、これ以上ふさわしいものはないだろうとオワインは思った。
エーディアスに向き直り、小声でこれは父の形見の一対かもしれないといえば彼女も顔色を変えた。誰もが、それはまさに時を超えて届けられたものなのだと思わずにはいられなかった。オワインは小さなヴァナンドラをそっと手の中に包み込んだ。
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