第8章 輝ける黒の喜び〜オワイン
第1話 愛し愛される喜びとは
半年のつもりの旅は一年近くに伸びてしまった。けれど海の王国での時間は、オワインの予想をはるかに超えて彼に安らぎをもたらし、かけがえのないものとなった。初めて会う母の家族たちに温かく迎え入れられ、誰もかれもが涙を流しながらも笑いあい抱きしめあったとき、オワインは失った温もりを取り戻したと思った。
愛に包まれる喜びを噛み締めながら過ごした日々は、オワインの心の奥深くに隠されていた本来の柔らかさを呼び起こした。海の王国の情熱が、愛し愛されることの喜びを、生きることを謳歌することを、オワインに教えたのだ。
愛は双方からの想いで初めて本当の形になる。本当の力を得るのだ。それを必要ないと切り捨てた自分は、誰も愛さないと言っているのと同じことなのだとオワインは気づかされた。
半年余りの滞在を経て、名残惜しげに手を振り続ける海の王国の家族たちに送り出されたオワインは、帰るその道すがら、母ルメリアーナが残した言葉「自分だけに向けられた特別な愛」について思う。
あの頃は、そんなものは必要ないと思った、自分には縁のないものだと。けれど今、それが何であるのか、それが自分をどう変えていくのか、知りたいと思わずにはいられなかった。
家族に対する愛、友に対する愛、自然に、故郷に、芸術に……愛はこの世界に無数に存在する。何かを愛しむということは、気持ちの基本なのかもしれない。
実際オワインは、与えられることを考えることはなくても、自分が愛するということについてはいつだって自然に行っていた。愛にあふれていたのだ。
だからこそ、ジュールが、ガデスが、グレンウッドが、そんなオワインを心から理解してくれる人を、愛してくれる人を強く望んでしまうのだ。そうあるべきだと思うのだ。
一方で本人は、愛される者としての自分に自信が持てずにいた。愛する者を失うことを異様なほどに恐れていたということもあったけれど、屈折した思春期を送り、自分を殺して生きてきた年月が長すぎて、どうしても自分を卑下することから抜けだせなかったからだ。
それでも、グレンウッドの結婚や海の王国での時間が、オワインの中に新しい感情を芽生えさせた。誰かを愛したいと思う自分はその愛を望んでもいる。それでこそ満たされたものになるのだと、オワインはようやく素直に思えるようになったのだ。
しかしまた、そこでオワインは悩む。どうすればそんな特別なものを得られるのだろうかと、本気で考え込んでしまった。
「ジュール、特別な人というのはそんなに簡単に出会えるものなのだろうか。確かにおまえに出会った時は心が震えた。これだと思えた。しかし私たちの出会いは、父上たちが認め温めてくれたからこそ。ある日突然、降って湧いたものではないだろう?」
『いや、そういうことだってあるさ。いいか、オワイン、そういうことは考えてわかるものではないのだよ。決まった形などはない。今この瞬間にも起こるかもしれない』
「そういうものなのか……」
『そういうものだ。それが運命ならば、おまえが悩むまでもなくやってくるはずだ』
ジュールの言葉にため息をつくオワイン。けれどその数日後には出会ってしまったのだ。それはあまりにも鮮やかな瞬間だった。
陰気で不快な森を切り裂いて飛び出した先にあったものは、泥にまみれながらも輝く花のような存在だった。その出会いはオワインのすべてをあっという間に覆した。
少女から大人へ、今まさに移行しようとするその可憐な姿は、オワインの庇護欲をいたくそそり、彼は必死で理性をかき集め、紳士然とした態度を崩すまいと努めた。年上らしく迷える彼女を導こうと、すました表情をその端正な顔に貼りつけて、必死で自分の中に湧き上がる激情と戦ったのだ。
それなのに、ロディーヌの口からこぼれだす言葉は、オワインの予想をいい意味で軽々と裏切っていく。もはやどちらが年上なのか、オワインには分からなかった。一見か弱そうに見える花は、嵐の中でも折れぬしなやかさと強さを秘めていたのだ。
そんな一面にもオワインはひどく惹きつけられた。不甲斐ない自分の求める大きさを彼女は持っている。ありえないと思ってきたことを、いとも簡単に塗り替えられてしまうのは、もはや痛快としか言いようがなかった。唯一無二に巡り会うとはこのようなことを言うのかと思い知らされた。
生まれて初めて心の底から欲しいと思った。感情がほとばしり、考える暇なく想いは言葉となった。気がつけば「共にこないか」と囁いていた。
けれどあの日、失われた日々を取り戻したいと願ってきたロディーヌは、兄たちを救い出すことを、家族と静かに暮らすことを選んだのだ。
聡明な青い瞳には強い決意が宿っていたし、出会ったばかりの自分がたったの数刻で、彼女の心にどれだけ深くかかわれたというのかと問われれば、オワインはまったく自信がなかった。
それでもロディーヌは、オワインのことを慕っていると伝えてくれた。もう一度考える時間を持ってくれると約束してくれたのだ。
ただ、オワインは自分の立場を明かさなかった。それを言うことによって、彼女の本心を引き出せないような気がしたからだ。
(私が何者であるか言わずとも知れるだろう……。それを知った時、ロディーヌは何を思うだろうか。自分のした約束をどう思うだろうか。彼女にとってそれはいい方向には働かないかもしれないな……)
泉の王国に爵位制度はない。けれど国王を頂点に、古くからある領主たちの家が大きな力を持っている。そのため人々は、自分がどこに属するか、自然と線引きしているのだ。
それは貴賤とか上下とかという考え方ではなく、その人の人生において与えられた役目という、泉の王国ならではのものだ。女神シャルレイアに与えられし生き方立場は運命だ。それを受け止め果たすことによって、女神にその心を認められる。
ロディーヌの美しさは飛び抜けていたし、立ち振る舞いにも品があった。さらに色々と博識でもあったため、それなりの立場にある家の者ではないだろうかとオワインは思った。そうであって欲しいと思わずにはいられなかった。けれど冷静に考えれば、大領主の娘がたった一人で無謀な旅に出るなどあり得ないことだ。
しかし、もしロディーヌが町娘であれば、それこそ他国の王族に次ぐ家に嫁ぐなどということは考えもしないだろう。ああ、何も持っていないただの男だったらどんなに良かっただろうとオワインは唇を噛み締めた。けれど自分であることは捨てられない。グレンウッドとともに王国の礎となることはオワインの悲願なのだ。
オワインは、自分の身分を知った後のロディーヌが、約束を反故にすることなく、あの旅を成し遂げた大胆さを発揮して前向きになってくれることを祈るしかなかった。
それでも離れていれば不安はつきまとう。わずかな自信は揺らぎ、ともすれば粉々になってしまいそうだった。世界に名を馳せる大勇者も、美しい泉の娘の前では年相応の一青年でしかなかった。いや、あまりにもうぶで、年相応にも届いていなかったかもしれない。
そんなあれこれを聞いたガデスは大きな息を吐き出す。オワインの悩む気持ちはよくわかる。けれど人生には強引でわがままな瞬間だって存在していいのだとそう思ったのだ。それはガデスの亡き父アーデルベルトの生き方だ。タナーティアをいかに落としたか、父はいつも自慢げに話し、母はふてくされたふりをしながらも嬉しそうだった。
誰かに強く想われることは何よりも幸せなことなのだとガデスは思っている。そしてそれをオワインにも感じて欲しいと願っているのだ。だからこそ、自分も連れていけとガデスは迫った。
それは一種の賭けだったけれど、オワインはすんなりとそれを受け入れた。きっと心の奥ではそれを強く望んでいるのに、いつものごとくそれに蓋しているのだろう。つくづく肝心なところで押しが弱いとガデスは苦笑した。
「ここまで来たんだ。最後の最後で、踵を返して逃げ帰ることなど絶対あってはいけないことだよ。そのためにも私がついて行って見守らなければ。なあ、ジュール、おまえもそう思うだろう?」
野薔薇の株の前でまどろんでいた黒豹はちらりとガデスを見た。そして大きく喉を鳴らした。気があうじゃないか、ガデスは嬉しそうに笑った。春が来るのが待ち遠しかった。こんなにも心踊ることは久しぶりだった。一人長らく城にとどまり、冷酷無慈悲な家令の仮面をかぶり続けてきたオワインの乳兄弟は、大きく手足を伸ばし、はるか遠く泉の王国のある森の彼方を見やると、少年の日を彷彿とさせる不敵な笑みを浮かべた。
オワインは、旅の成果として持ち帰った内容が一段落したら、春先に少しだけ休暇がもらえないだろうかと申し出た。
グレンウッドはそれを心よく許し、その休暇に何をするのかとさらりと問いかける。心の中には、ついに来たかという湧き上がる思いがあったけれど、早まってオワインにへそを曲げられてはかなわない。エーディアスからもきつくそう言われていた。
あくまでも冷静に、何食わぬ顔をしてグレンウッドが促せば、とうとうオワインは打ち明けた。名しか知らぬ泉の王国の娘を捜しにいくのだと。そしてぽつぽつと、けれど素直に旅の途中の出来事を語り始める。ガデスに話して以来、大切な人には伝えておきたいという気持ちがオワインの中で強くなっていたのだ。
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