第11話 西からの風が運んだもの

 入城した日、ジュールの部屋でシュトーレアは盛んにくしゃみをした。街道を来る時からひどかったけれど、都会というのはこんなにも汚れているものなのかと涙目で不満を漏らす妹にジュールは首をひねった。

 確かに街道には土埃もあるけれど、誰もが毎日普通に使っていて、シュトーレアのように苦情を訴えるものなどそうはいない。よほど相性の悪いものを吸い込んだのではと心配そうに覗き込めば、シュトーレアはすこぶるご機嫌斜めでじろりと兄を見返した。


『街道はいいとして……お兄さまの部屋、もうちょっと掃除していただきたいわ』

『いやいや、しているさ。してもらっている。そんなことを言ったら侍女のみなさに怒られるぞ』

『じゃあ、それは何?』


 シュトーレアの視線をジュールが辿れば、開け放たれた窓の下、うっすらと灰のようなものが見られた。ごくごく微かなものだ。普通なら気がつかないだろう。シュトーレアの目を持ってしての発見だ。それにしても、そんな些細なものでくしゃみが出るとは思えない。


『今日は朝から窓を開けていたし、風が強かったからな。たまたまだろう。土埃かなにかじゃないのか?』

『ううん、土ならわかるわ。それ、土なんかじゃないわ。だって臭いんですもの』

『臭い?』

『ええ、そう、臭いわ。とっても臭いの。私、いい匂いのする女の子たちに混じって暮らしているのよ。匂いには敏感なんですからね。その辺の地面の上で大いびきをかいて寝ていられるお兄さまとは違うの』

『わかった、わかった。おまえが敏感なのはわかったから、その匂いとやらについて教えてくれ。臭いってどんな風に』

『これは……元は腐っていたものね。今は乾燥しているからわかりづらいけど、ちょっと前まで腐っていたものよ。どろどろして、ねばねばして……そうね、川底に溜まっていたみたいな』

『川底!』


 ジュールはその言葉に跳ね起きた。すぐにオワインの執務室へと走る。手がかりになるものを見つけたかもしれない、先生たちも呼んでくれと叫べば、オワインはすぐに理解した。医療関係者、科学者たちとともにジュールの部屋まで来るようにと走り書きをしたため、部屋に控えていた文官の一人を直ちにグレンウッドの元へと向かわせる。

 そしてジュールとともに、広い回廊を全力で走った。すると部屋の入り口には、仁王立ちのシュトーレアがいた。


『止まって。落ち着いて。まだ入らないで』


 興奮した兄たちに少々呆れ顔をして見せたシュトーレアが、空気を動かさないようにそっと入室することと念を押す。彼らはこくこくと頷き、息を潜めて部屋に入った。ジュールが窓際に向かって顎をしゃくれば、かすかな残留物に気がついたオワインの眉がひそめられる。

 後ろから来たグレンウッドたちも同じように止められ、シュトーレア先導の元、ゆっくりと入ってきた。その後ろからエーディアスも顔を出し、どうやら主要なものたちは集まったようだ。

 科学者の一人が慎重に、それを手にした小さなガラス瓶の中に入れて蓋をする。みながようやく大きく息を吐き出した。


『臭いらしい』

「臭い?」


 ジュールの一言にオワインが思わず声を上げれば、エーディアスの通訳を経て他の者も怪訝な顔をする。


『ここへきてからシュトーレアがおかしいほどにくしゃみをするのだ。自然の中で生活する俺たちは、ちょっとした花粉や土埃くらいではそんな風にはならない。特にシュトーレアは浄化能力も格段に高い。それなのに……まるでいけないものを吸ったかのように……それもこれも、臭いその粉塵のせいらしい。そしてそれは、川底で腐っていた泥のようなものではないかと言うのだ』


 その言葉に集まったものたちが一斉に色めき立った。汚染物質は水の中から発見された。すでに溶け出していて、どこからきたものかわかっていなかったけれど、川底の泥という可能性は大いに考えられる。こんな少量で、聖獣さえも不快にさせる物質とは……明らかに普通ではないことは誰もが即座に理解できた。


「陛下、直ちに検査を始めます。水路から検出されたものの分析結果がありますから、もし同じものであれば、照らし合わせればすぐに答えは出ると思います。今しばらくお待ちください」


 ああ、と頷いたグレンウッドを残して一団が去れば、どっかりと彼は床に座り込んだ。


「大丈夫か? グレン」

「陛下?」


 すかさず大きなクッションを引き寄せてグレンウッドに手渡すエーディアス。礼を言いながらそれに座り直したグレンウッドは大きな息を吐き出した。


「間違いないと思う。空気感染だよ、オワイン。おまえの母上も、俺の父上も、空気中の物質にやられたのだ。二人とも寝室は、この部屋と同じように西向きだ。窓もどこよりも大きい。そしてずっと開け放したままだった……」

「川底にあったものが、何らかの経緯で乾燥し、風に乗ったということか……」

「多分な。風か……厄介だな」

「まだ決まったわけで」

「私もそう思います」


 オワインの言葉を遮るようにエーディアスが断定した。オワインが振り返れば、ジュールもシュトーレアも頷いている。


「確かに、検査の結果を待つ必要はある。けれど間違いないだろう。否定したい気持ちはわかる、相手が悪すぎるからな。けれどオワイン、もうそうも言っていられないぞ……」


 三人と二頭は揃って大きな息をついた。けれど落胆ではない。確かに明らかにされようとしていることはあまりにも手強いものだ。しかし一方でそれはチャンスを得たということ。今まで何一つ手元になかったのだ、大いなる進歩といってもいいだろう。やるしかないのだと、全員が腹を括った瞬間だった。

 数刻ののち、結果が報告された。予想通り、それは空気中に飛散した汚染物質だった。水から出たものと同じ反応。同じ金属。それが王都の風の中に、空気の中に混ざっている。


「やはりな。水だけではなかったか……。あんなにも徹底して水を浄化したにも関わらず、発症率がわずかしか下がらなかった理由はそこにあったのだな」

「はい、陛下。とりあえず、感冒が大流行した年に徹底させたような、外出時の布の着用を進めましょう。粉塵ですから効果は大きいと思います」

「ああ、うまい具合に気温も下がってきたから、窓もできる限り閉めても大丈夫だろう。さらに雪や雨が降ってくれれば、一段と助かるかもしれんな。あとはそれをいかに取り除くかか……。どこから広がっているか、それを調べなくては……」

『陛下、里にすぐ伝令を出してください。砦や里のあたりの空気を調べさせましょう。それに大河の水質も、もう一度徹底して調べる必要があるわ』

「しかしシュトーレア殿、上空の空気や大河の底となると、そう簡単には」


 エーディアスの通訳を聞いた科学者の一人が憂い顔を見せたけれど、シュトーレアは大胆不敵な笑みを浮かべた。


『なんのための私たち? それくらいなお安い御用よ』

『ああ、俺たちの中には、空を飛べるものも水に潜れるものもいる。俺も泳ぎは得意な方だ』

「ジュール! これは未知なる物質だ、危険すぎないか?」

『大丈夫だ、オワイン。だめだと思えばすぐに引き返す。俺たちの危険なものに対する感覚は優れている。心配するな』

『それに私たちは浄化の能力も持つわ。たとえ汚染物質の中に入ってしまったとしても、自分の周りだけなら、少しの間は問題ない』


 果たしてそんな負担を聖獣たちに強いていいのかと、いまだ及び腰のグレンウッドたちをよそに、兄妹二頭は意気揚々と計画を進め始めた。

 適任と思われる聖獣たちの名が次々と挙げられ、調査したい内容も書き出されいく。医療関係者や科学者たちは最初こそ戸惑っていたものの、シュトーレアの巧みな質問にどんどん引き込まれ、自分たちでは叶わなかった領域の調査に、身を乗り出して意見を出し始めた。


『国王さまと将軍さまは少しお休みするといいわ。里からのことは私とエーディアスが準備するから。ああ、お兄さまは別よ。頑張ってもらわないとね。その体なら大河の底も楽々でしょ? 都会暮らしで随分となまっていたでしょうから、ぴったりではなくて?』

『シュトーレア!』


 打ち合わせていることはいつになく緊迫した内容だ。けれどどんな時でもシュトーレアはユーモアを忘れない。絶妙なタイミングでエーディアスがそれを伝えれば、額を突き合わせていた誰もがたまらず吹き出した。

 張り詰めていた空気の中に大きな安堵が広がる。不安を取り除くことは簡単ではない。けれど少しでも支え合い、軽くしていくことはできるのだ。

 聖獣たちの王宮入りが、想像もしなかったような大きな力へと変わっていくのを誰もが感じずにはいられなかった。

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