第10話 赤いヴァナンドラの伝説3

 春が来て、夏が来て、秋になり、そしてまた冬が始まった。

 南の国である海の王国に雪は降らない。けれど、北の国である森の王国のその最果ては今日も雪と氷で覆われているだろう。聞こえてくる戦況は芳しくなかった。

 長い戦いに森の王国の人々は疲弊し、さらに厳しい季節になったことで苦戦を強いられている。凍てつく風が、容赦なく前線の人々を苛むのだと伝令は言った。身も凍るような風など想像でしかありえない王女にも、その痛みが伝わってくるかのようだった。


 その後も伝令はひっきりなしに王宮サロンに現れたけれど、日増しに戦いは激しさを増し、戦況は悪化の一途いちずをたどった。

 王女はついに伝令の話を聞くことができなくなり、一人王宮を飛び出した。何より早い伝令であっても、もう幾日も前の話なのだ。今いったい何が起こっているのか、本当のところはまったくわからない。見えない不安は大きくなる一方で、心を絡め取られるようでもあり、引きちぎられるようでもあった。


 けれどその終焉は突然やって来た。年が変わる前、北の大地が完全に凍りついたのだ。その上を吹く風が止むことはついになくなった。一寸先も見えないほどの猛吹雪、双方ともに、命あるものは支え合って自国側へと退いた。短い夏もあったはずのその土地は、冬に閉ざされた新しい領域へと姿を変えたのだ。永久凍土の出現だった。

 人々はその脅威に震え上がった。魔法を操る海の王国民でさえ、その圧倒的な力に絶句するしかなかった。人の愚かさを見かねた神の采配だという者もいた。大いなる自然の脅威を前に、人にできることなど何一つなかったのだ。

 数知れぬ戦死者を抱いたまま永遠に凍てつく大地によって、二つの国は引き離された。もう誰一人として、その地を渡れ者はないだろう。戦いは終わった。けれど二度と帰らぬ人たちの多くの死をもって。


 そして……第二王子の死も海の王国に伝えられた。彼もまた、氷と化した大地に捕らわれて戻らなかったのだ。

 明るく健やかな青年の死は、戦いなど知らない海の王国にも大きな影を落とした。人の命の儚さ、人の弱さと強さ。避けられない運命があったとしても、きっと人は最後の最後まで愛する誰かを守り抜きたいと思うだろう。そしてそれが戦いと呼ばれるならば、人の世とはあまりに悲しいもの。割り切れないものの存在が、この世界を狂わせる。


 王女にはすべてが信じられなかった。王子が出発した日と同じように、今日も花咲く海岸には何一つ変わったことはない。眩しいほどのヴァナンガラージュの花の輝き、裸足で駆け出したい陽気、波打ち際のしぶきに笑いさざめく恋人たち。遠い北の果てでの出来事はまるで夢物語のようだった。

 けれど、二人で歩いた浜に彼が帰ってくることはもうないのだ。あの温もりも笑顔をも、自分はすべて失ってしまったのだと思ったら、熱という熱がすべて、寄せてくる波の中に溶けていくようかのような感覚に王女は襲われた。

 いっそ夢なら良かったのにと王女はわらった。王子がこの王国にやってきたことも、二人が出会ったことも、恋をしたことも、みんな夢にしてしまいたかった。

 けれど、王女の胸に輝くヴァナンドラは残酷なまでに美しく、二人の日々は胸に鮮やかに浮き上がるばかりだ。王女には、涙のようなヴァナンドラが自分と同じく、その片割れに恋い焦がれ、求めて続けているように見えて仕方がなかった。


 それから幾日も幾日も、王女は一人で浜辺を歩いた。一番大きな河口でヴァナンドラ探しを楽しむ親子連れ、流木を嬉しそうに咥えて走る犬を伴って、ゆっくり静かに散歩を楽しむ老夫妻、海から帰って網を片付ける恋人にまとわりついて叱られる娘。そこには日々の営みがあって、誰もが幸せそうに見えた。

 もちろんすべての人の上に等しく死は訪れる。ここにいる人たちもみないつか、愛する人との別れの時を持つ。遅いか早いかの違いだけで、それは決して避けられないことなのだ。


 私のあの人は、約束も果たさずに行ってしまった……思い立ったらすぐに行動してしまうのは、彼のいいところでもあり悪いところでもある。それは自分も同じだ。同じだからわかってしまう。だからと言って、こんなに早く一人で行ってしまわなくても……。


 王女は人気のない小さな河口脇に座り込み、そっとその流れに手を浸した。海に注ぐ本流の脇で、いくつもの支流が複雑なラインを描いて海岸に張り巡らされている。

 いつもと変わらず美しい光景だった。王子と見た日をぼんやりと思い出しながら、王女はその水の冷たさを感じる。これは……永久凍土から流れてくる大河の流れの一つだ。

 はるか北から旅してきた水。自分が行ったことのない凍てつく北の大地を知っているその水が羨ましかった。水面に映る自分の顔が涙に濡れていることに気がついた王女は、手荒く水面をかき回した。


 ふと何かが手に触った。そのまま掴み取り引き上げれば、それはヴァナンドラだった。よくあることだ、特に驚くほどではない。ヴァナンドラは森と海に愛されたもの。河口付近で採取されることが多い。けれど、そのヴァナンドラには赤い糸が絡まっていたのだ。王女の目が大きく見開かれた。

 引きちぎれてもはや紐ではなく、数本の糸になっていたけれど、紛れもなくヴァナンドラを包むもの。赤い糸が、決して離れまいとするかのように石に絡まっていた。

 王女は気を失った。受け止めきれないほどの大きなものがさらに膨れ上がり、濁流となって押し寄せてくる。それは王女の身を砕くほどの力でのしかかった。悪夢に飲み込まれて砕け散るならそれでもいいと、王女は薄れ行く意識の中で思った。


 けれど世界はまだ王女を必要としていたようだ。ほどなくして意識を取り戻した王女は、今度こそ、絶対に覆せない事実を突きつけられた。もはやその未来に望むものは何もない。

 自分の命がまだこの世に残り、生きながらえていることに王女は唇を噛んだ。それでも、脈打つ胸の下から片割れを取り出し、恋い焦がれたもう一つに添わせた。大河を流れてきたそれは傷だらけで、元のようにぴたりとは添わなかった。

 それでも王女は思ったのだ。もしかしたら自分は幸せ者なのかもしれない。この大戦で多くの者が愛する相手を失った。何一つ、その手元に帰らなかった者さえいるのだ。せめて形見をと思っても、氷に閉ざされたその土地へはもう誰も行くことは叶わない。それを思えば、取り戻した片割れはまさに奇跡だろう。

 狂おしいほどに愛しい二つの輝きを、王女は胸に掻き抱いた。

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