第9話 赤いヴァナンドラの伝説2

 成人前のひとときを自由に過ごすようにと、余暇を与えられた森の王国の第二王子は、世界を旅することを選んだ。とはいえ、行ける場所も時間も限られている。それでは一番遠く、憧れの地でもある海の王国へ行ってみようということになった。


 故郷が深い雪に閉ざされる季節だというのに、ここには黄金の光があふれ、きらめく波しぶきも美しい海岸線があった。海を見るのはこれが初めてだった。その大きさ、色、そして香りに音。すべてが王子を魅了した。

 けれどそれ以上に王子を虜にしたのは、自由奔放で光のような海の王国の末の王女だった。そしてそれは王女も同じ。漆黒の髪に黒氷石の瞳、美しい樹を想わせるしなやかな肉体の若者に、包まれかのような安心感を覚えたのだ。二人はこの浜で恋に落ちた。それは海の王国の花である黄金のヴァナンガラージュが咲き始めた頃だった。


 王女宮の庭に招かれ、他にも増して見事なヴァナンガラージュの花を愛でた王子は、光のような花を王女そのものだと思った。王女の可愛らしい耳元でそっとそう囁けば、彼女は頬を染めて微笑んだ。それは光さえもはるかに凌ぐ、神々しく麗しいものとして王子の中に刻まれた。

 穏やかな冬の午後、二人は真っ白な海岸を手をつないで歩きながら、ありとあらゆることを話した。好奇心旺盛で行動力があり、思うことをどんどん推し進める似た者同士。話題は尽きることなく、夢は無限にも思えるほどに広がっていく。

 世界のことを幼い頃から学んでいる王族とはいえ、当事者から直接何かを聞くことは少ない。けれど二人は互いを通してそれを可能にした。王子は海の王国の小さな砂粒の形まで、王女は森の王国のシダの木陰のキノコの傘の色まで。驚きと喜びをもって、二人は多くのものを分かち合ったのだ。そして、小さな世界にとらわれることなく、いつかこの広い海の向こうにある国々に一緒に行ってみようと約束した。


 その日二人は、海岸で美しいヴァナンドラを拾った。それは不思議な形をしていた。城の図書室で見たことがある形だと王子が言った。不思議そうに首をかしげる王女に、王子は自分の胸をたたいて見せた。これはここにあるもの。熱い血を送り続ける臓器の形だと。

 王女は驚いて、まじまじとその形を見ていたけれど、ふとそれをおしいただくと、ではここには血もいっぱい詰まっているけれど、想いも同じだけ詰まっているのねと微笑んだ。


 流れる血とは違い想いは目に見えない。けれどそうかもしれないと王子は思った。循環される血は周りくるたび想いに触れて、それを余すことなく全身に伝える。途切れることなくいつまでも伝え続けるのだ。人が全身全霊で誰かを愛するのはそういうことかもしれない、王子はそう感じた。

 気に入ったのであればネックレスにすればいい。そう言って王子は勧めたけれど、大きすぎるからと王女はそのままにした。


 ある日、二人が王宮に戻ると、険しい顔をした伝令が飛んできて、うやうやしく手紙を差し出した。読み始めると王子の顔色が変わった。行儀よく距離を保って待っていた王女は胸騒ぎを覚え、思わず王子に駆け寄ってその腕にすがりついた。読み終わった手紙をたたみ、重苦しい息を吐き出した王子は、眉を下げ困った風に王女の顔を覗き込んだ。

 ああ、彼は自分を困らせたくないのだと王女は感じた。けれど真実を知るべきなのだ。王女がそっと目で促せば、王子は静かに口を開いた。


 北の大地に他民族が侵入し被害が出ている。彼らは聞く耳を持たず、話し合いはあり得ないだろう。応戦することは当初憚はばかられたけれど、そのままにしておけば民が苦しむだけであり、王宮は重い腰を上げた。けれど、すぐに片付くであろうと思われた戦いは思わぬ展開となる。小競り合いかと思いきや、敵は続々と攻め寄せてきたのだ。もはや悠長なことは言ってはいられない。第二王子も直ちに戻って援軍に加わらなければならないだろう。


 王子に与えられた余暇はまだ半分も終わっていなかった。けれど王子はすぐに発つことを決めた。何も約束のないまま大切な人を置いていくのはためらわれたけれど、王子には国を背負うものとしてなすべきことがあった。

 そんな王子の決断に王女は異議を唱えなかった。彼の苦悩が痛いほどわかっていたからだ。彼女もまた彼の立場ならそうするだろうと思った。生まれ落ちた時から、それは自分たちに課せられたものなのだ。二人とも嫌という程それを教えられてきた、そして理解していた。けれど人を愛した時、想いはどのように変化していくのかということを、誰も教えてくれていなかった。


 王女は心の中で涙を流しながら海岸を歩いた。こんなにも泣きたくなる日が来るなんて……。どうしようもない想いはどちらも同じだろう。さらに彼はこの先に待つ厳しさと対峙しなければいけない。自分のように泣いている時間などありはしないのだ。そう思うと王女は涙を拭いて顔を上げた。王子に不安な顔を見せてはいけない。心配はいらないと、遠く離れていても自分たちは一つなのだと伝えなくてはいけない。

 王女は部屋に戻り、ヴァナンドラを取り出して眺めた。それから急ぎ城下に向かった。


 夕刻までに、北へ戻る王子のために足の速い船の整備が進められた。軍隊を持たない海の王国から人員を送ることはできない。けれど代わりにと豊富な物資を積み込んだ。食料品に医療品、思いつくものはあれもこれも全て用意された。

 王子はすでに海の王国の一員であるかのように、誰もが心を砕き準備を怠らなかった。王子はその厚意に深く感謝するばかりだった。

 もう出発だという時、息を切らした王女が甲板を駆け上がってきた。抱きとめた胸の中で、王子は二つになったヴァナンドラを見つける。ふっくらとした一つの臓器は今、二つの涙のしずくのようだった。そこにまるで張り巡らされた血管のように赤い紐がかけられていた。


 海の王国の赤は特別だ。それは海藻から出来た糸ルーフランをヴァナンガラージュの花で染めてできた色。黄金の花は、深い青緑の海の子どもたちに出合った時、まるで血潮のような色を生み出すのだ。それは、季節や使用量、海藻の種類など様々な要素によってその濃さを変えた。王子の前にあるものは目を見張るような赤だった。

 その糸を編んでできた紐が二つに割られたヴァナンドラを包み込む。王女は一つを王子に、もう一つを自分にかけた。心配はいらないからと言おうと思っていたのに、涙があふれそうで王女は言葉に詰まる。彼女は必死で笑顔を作った。帰ってきたら、もう一度私の名前を呼んでください。願いはそれだけです。涙をこらえてそう言うのが精一杯だった。


 去って行く船が闇の中に溶けてしまうまで、王女は一人見送った。黄色い輝きを放つエピステッラが大河の上に光の流れを作っていた。ああ、翅を持つものならどこまでも追いかけていけるのに……エピステッラ、想いを運ぶもの、どうか私たちの想いを、ずっとずっとつなぎとめて……。王女は一つになったヴァナンドラをきつく固く握りしめた。

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