第4章 結びつく青の強さ〜四兄妹
第1話 王子の岩山に残されていたもの
ロディーヌは、息をひそめながら慎重に歩を進めた。オワインやジュールとの穏やかな時間の中で忘れかけていたけれど、未だ自分は魔境にいるのだ。あの触手や毒の花を生み出した闇の力は、ここにも働いているはず。何がどこから出てくるかわからない、身を守るのは自分しかいないのだ、気を引き締め直さなければと自分に言い聞かせる。
岩山の中に作られたくぼみの中へそろそろと入っていけば、その先には長い螺旋階段が続いていた。人一人がどうにか通れるくらいの幅。ここで何かに出くわしたら一巻の終わりだろう。けれどそこを行くしかないのだ。
なるべく音を立てないよう、ロディーヌはそっと足を踏み出した。嫌な汗が背中を流れ、心臓は早鐘のように鳴っていた。採光の為だろうか、わずかに開けられた穴からの光を頼りに、恐怖と戦いながら上っていく。どこまで続いているのか、それは果てしないような気さえした。
もう無理だ、もう倒れそうだと感じた時、目の前が開けた。それは大きな空間だった。装飾さえあった。ただの洞窟だとばかり思っていたロディーヌはずいぶんと驚かされた。
荒く削られた岩肌は無骨なものだったけれど、高い天井とバルコニーを持つたくさんの窓がなんとも印象的だ。ただ窓は実際には開いておらず、形のみが削られていて光は入らない。けれど岩肌には所々隙間があるようで、そこからの光がぼんやりと空間を浮かび上がらせていた。
「これって、どこかで……ああ、そうだわ。確かここには大きなシャンデリアがあって、両脇には絵がかけてあって、奥は中庭へと繋がってて……うん、似てる……」
幼い日に見た王宮の大広間に似ていることにロディーヌは気がついた。薄れておぼろげになりながらも、王子の心の奥深くに隠されたものが、きっとこれを作らせたのだと思った。
天空草の花を増やしていく喜びに輝いていた頃の王子は幸せだったはず。愛しい妖精との時間や美しい祖国の風景。王宮は王子の大切な思い出が詰まった場所、かけがえのない宝物なのだ。
だから闇に覆い尽くされても、記憶を封印されても、それはそこにあり続けたのだろう。自分には何もないと、絶望の中で生きながらえる王子のそばに、本当はちゃんと残っていたのだ。あまりにも皮肉な話に、ロディーヌの胸は痛んだ。
この館は、人の姿に戻った王子が夜な夜な岩を打ち砕いて作ったものだ。気がつけば形になっていただろうそれらを前に、王子は揺れ動く残像を感じて苦しんだだろう。そこにあるだろうに見えないもの、手繰り寄せたくても手繰り寄せられないもの……。
けれどそれらは沈黙の中で、最後の最後まで王子を守っていたのだとロディーヌは感じる。だからここにいる間の王子は苦しみながらもきっと、どこかで癒されていたのではないだろうか……。
それなのに、狂気に染まった大ガラスである昼の王子は、この密かに神聖な場所に忌まわしいものを次々と持ち込んだようだ。壁のあちこちに作られた飾り棚としての小さなくぼみの中に、得体の知れないものが押し込められている様がそれを物語っていた。
ああ、と思わずロディーヌもため息を漏らす。それを見た夜の王子はきっと、思い出すことのできない昼間の所業を嘆き、悲しみを増したに違いない。
あまりにも多くの残骸は、王子だけの仕業ではないだろう。王子亡き後、この館の中で、絶望という名の人生を過ごしたものたちが幾人いただろう。ロディーヌは寒気を覚えた。
それがどれくらいの年月だったか、詰め込まれたものがかつて何であったか、到底知りたいとは思えなかった。そこから目を背け、ロディーヌは広間の先に続く廊下らしきものを目指した。
広間の床も同じように岩のままだったけれど、はだしのロディーヌは音を立てずに歩くことができた。思った以上に滑らかな床は、まるで今朝掃き清められたかのようだ。ロディーヌは違和感を覚えた。
おぞましいものは残されていたけれど、今ここには闇の気配がない? いや、それどころか何やらわずかではあるけれど、清々しい雰囲気すらあるような……。
それでもほとんど光が入らない場所はやはり居心地がいいとは思えない。少しでも明るいところに出ようと足早になったロディーヌは、廊下に出た途端、突然響いた音に飛び上がった。
それは何かが硬い床の上に落ちたような音だった。ロディーヌは口をとっさに押さえ、悲鳴が漏れるのを防いだ。ほっと胸をなでおろす。
音のした方へそっと視線を移せば、すぐ傍に細い通路があって、その先に動く人影のようなものを見つけた。誰かいる! ロディーヌは心臓をぎゅうと掴まれたような気がした。けれどもう引き返せない。ロディーヌには行くことしかできないのだ。
丁度そばにあった大きな飾り棚の影に、ロディーヌはさっと身を潜ませた。胸がどきどきと大きな音を立て、外にまで聞こえているのではないかと思われた。森で襲われた時の恐怖が蘇る。
けれど、オワインという大きな勇気が彼女を奮い立たせた。それとこの場に流れる空気も。この館の中にはやはり蠢く闇の気配が感じられないのだ。ホールのくぼみの物たちもすでに「過去」だった。おどろおどろしい何かがいつ飛び出してくるかと身構えていたけれど、森で感じたような粘りつく気味の悪さはどこにもないことに、ロディーヌは気がついていた。
落ち着け、落ち着け。そっと息を吸い込んだロディーヌは気持ちを静めて体勢を立て直す。聞き耳を立て、じっと様子を伺っていると、かちゃかちゃと音を立てて、誰かが積み重ねられた食器を運んでくるのがわかった。ロディーヌは大きく目を見張った。
「食器?」
聞こえてきた音が、聞き慣れたものだったことに驚かされたのだ。人の営みを思わせるそれは、闇やら悪意とは似ても似つかない。そこから結びつけられるのは楽しさや陽気さや温かさ。ロディーヌはなんだか肩の力が抜けるような気がした。
真相がわからないままにも、怖くない、そう思えたのだ。さらに、まっすぐにこちらに向かってくる足音も、ぱたぱたとなんだか可愛らしい。大丈夫、怖くない、ロディーヌは確信した。すると逆にわくわくしてしまった。そうそう、こんな風にじっと息をひそめていたっけ、とロディーヌは小さい頃のかくれんぼを思い出す。
軽い足音が目の前を通り過ぎた後、ロディーヌはそっと首を出し、深い影からは見えなかったその姿を見た。それは真っ白な帽子をかぶった小さな人だった。尖った耳がその帽子の下にのぞいていた。
「妖精? それにしてはちょっと大きいわ。でもなんだかとても優しそうな雰囲気」
すっかり恐ろしさはなくなり、ロディーヌはその人をつぶさに観察することにした。ロディーヌの前を通り過ぎた後、廊下をまっすぐに進んで奥の部屋に入ったようだ。ロディーヌはそっとその扉の影へと移動した。
つぶらな瞳と柔らかなカールの髪。小さな人はやはりちっとも怖そうには見えない。その人は食事の準備をしているようだった。
もしかしたら善良なふりをしているだけでいきなり姿を変えるかもしれない。そんなことも考えられなくはなかったけれど、きっとそれはないとロディーヌの本能が囁くのだ。これは味方だと何かが告げていた。
テーブルの向こうには開け放たれた大きな窓が三つあった。ここもまた天井の高い巨大な部屋だ。大ガラスはきっとこの窓から行き来するのだろう。窓枠には欠けた部分や削れた部分も多かったけれど、目立った汚れは付着していない。きっとこの人が手入れしているのだとロディーヌは思った。
部屋の真ん中には、古びてはいるものの、こちらもまたきちんと手入れされたテーブルがあって、そこに西日が降り注ぎ始めていた。
籠に盛られた果物、丁寧に置かれていく食器類、小さな花が添えられているゴブレットさえあった。それはここが恐ろしい岩山の、大ガラスの館だなどとは思えないほど、柔らかく温かい光景だった。
ロディーヌはそっと飾り棚まで戻り、小さな人の仕事が終わるのを待った。そして、小さい人がまた行きと同じように、軽い足を響かせて戻ってきた時、意を決して声をかけたのだ。
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