第9話 何よりも温かで安らかなるもの

 張り詰めた空気を遮ったのは、オワインの柔らかな声だった。


「ロディーヌ、靴はないが大丈夫か? さあ、こちらへおいで」


 彼はそう言うと、ロディーヌに向かって手を差し出した。ロディーヌはオワインに導かれ、ごつごつとした岩場ではなく、うっすらと草が生えた野薔薇の前の地面に座った。その清らかで優しい流れに触れれば、舞い上がっていた心が次第に落ち着き、自分が今向き合わなくてはいけないことを思い出す。


 己の指でもって門を開けるのだ。その先に待つものはまだわからない。一人であれば恐ろしく辛いことだったかもしれないけれど、オワインがいてくれるだけで信じられないほどの心強さをロディーヌは感じていた。大きな勇気をもらった気がした。

 この後一人になっても、何があっても、きっと乗り越えていけるはず。幾千万の人が暮らす世界の中でこれほど自分を理解してくれる人、心の底から温めてくれる人に巡り会えたことはきっと女神の采配。何不自由なく故郷で暮らしていれば、こんな喜びを知ることは叶わなかっただろう。ロディーヌは、改めてオワインとの出会いに感謝していた。

 そして、女神の色の足先を初めて晒した相手がオワインでよかったと心から思った。珍しい色をした娘のことをまたいつか、ふと思い出してくれる事があるかもしれない。それだけで十分だ。ロディーヌの心は静かに静かになっていった。


 そんなロディーヌの様子を見て、オワインは己の選択は間違っていなかったのだと安堵する。彼女を好きになれてよかったと心から思う。本当はそれだけではない。もっと先の喜びを知りたいという気持ちは有り余るほどにあった。けれど今の自分にはこれで十分なのだと、オワインもまたそう思った。


 二人は互いに迷いを断ち切り前を向こうとしていた。けれどジュールにはそれが甚だしく不満だった。

 二人のことが手に取るようにわかる。二人はよく似ている。彼らはともに、周りの人たちにかばってもらった歳月が長かったのだろう。それゆえに、選択を迫られる場面に出くわした時、自分の気持ちをねじ伏せてでも、大切にしたい相手を救いたいと考えるのだ。それが自分にできる最大で最善のことなのだと、そう考えている。それは素晴らしいことだと思う。簡単にできることではない。けれどそれでいいのか、ジュールは二人を見つめながらそう思っていた。


『オワイン、もっと素直になれ……。どうしてそう遠慮する。褒めているわけではないぞ。けなしているんだ! お前の人生はお前のもの。誰のものでもない。もっと自分の心に素直になれ、湧き上がる想いを聞いてやれ! ずっとずっと我慢ばかりして……。お前だってわがままくらい言っていいんだ。いや、頼むから言ってくれ!』


 何も欲しがらなかったオワインが初めて欲したもの。それが血の通う温かな人だったことがジュールには嬉しくて仕方がなかった。なのになのに、なぜだ! きっと言えば言うほど、オワインは意固地になるだろう。だからジュールは思念を飛ばさず遮断した。

 けれど心の中では、何かきっかけはないものだろうかと考えを巡らす。ジュールには予感めいたものがあった。ロディーヌはただ綺麗なだけの娘ではない。物語のような旅は想像を絶するものだったし、それ以上の何かを持っている。

 ジュールとてロディーヌの力になりたいと思う。彼女がずっと望んできたことを果たすための力になりたい。ジュールもまたオワインと同じように、この短時間のうちですっかりロディーヌを気に入ってしまっていたのだ。ジュールは故郷である聖獣の里のものに比べれば社交的だ、物おじもしない。けれどこんな風に心を許す相手に出会ったのはオワイン以来だった。

 

 事の成り行きをじっと観察するジュールの前で、オワインが優しくロディーヌに語りかけている。まずはロディーヌのために鍵を作る、今はそれに集中する方がいいだろうとジュールも思った。

 それは大概のことには驚かないジュールにとっても、突拍子もない願いだった。ロディーヌにここで出くわしたのが自分とオワインでよかった。ジュールはもたらされたこの偶然が、何かを呼び寄せるのを感じずにはいられなかった。


「ほんのわずかな間痛みを感じるかもしれないがそれは許してくれ。あなたはただ目をつぶって、静かに時が過ぎるのを待っているだけいい」


 小さく頷くロディーヌをオワインはそっと引き寄せた。その様子に思わずジュールの喉がなる。いい絵だと思ったのだ。二人が寄り添う感じがたまらなく良いものに思えた。二つの綺麗な波動が絡まりあって、より美しいものになることに、聖獣特有の細やかな感覚が反応するのだ。


『オワインもきっと感じているはずだ。ロディーヌはまちがいなくオワインの唯一無二。この優しい気に触れてもっと素直になってくれたら、何かが変わるかもしれない。真面目すぎて自分に厳しすぎて……ああ、本当におまえは大馬鹿野郎だ。大事な人の温もりがいかに大きなことか思い知ればいい。求めろオワイン! 欲しいと思え!』


 身も蓋もなく、ジュールはオワインを心の中でけなし続けた。けれどそれはジュールなりの賭けでもあった。人肌の温もりを求めないオワインに、その力を知ってもらいたいと思わずにはいられなかったのだ。ロディーヌの足先を掲げ持った時のオワインはすでにその片鱗を感じているはず。それこそが生きていることの醍醐味なのだとジュールは思っていた。


 そんなジュールの気迫が届いたのか、オワインは珍しく戸惑っていた。紳士的にロディーヌを引き寄せたまではよかった、けれどその温もりを感じ、閉じた瞼の上で黄金色の長い睫毛がふるふると揺れるのを見れば、心が激しく波打った。微かに震える小さな体が愛おしくてたまらない。オワインは思わずロディーヌを搔き抱いた。

 予期しなかったオワインの行動にロディーヌがぴくりと反応する。オワインははっと我に返り距離を取ろうとしたけれど、思いがけずロディーヌが身を預けてきた。その瞬間、それが目の前の恐怖からの逃避でもいいとオワインは思った。彼女が完全に安心するまで抱いていようと決めたのだ。

 それは彼女のためだけではない、己の中に膨れ上がる感情にも忠実だった。ロディーヌの温もりを柔らかさを、より近くでより長く感じていたい。オワインは自分の中にそんな劣情が潜んでいたことに驚いてしまったけれど、しかしそれは想像もしなかったような幸福感だった。


 忌まわしい森のほとりで、残酷な決断を前に、この後別れゆく自分たち……そこには幸せな要素はない。容赦ない運命の歯車は止まることなく回り続けるだろう。それでも今だけは暖かな光に包まれる時間であって欲しい。

 オワインはそう願いながら、自分の胸の中で目を閉じたままのロディーヌをさらに深く抱きしめた。そっとその名を呼び、その髪をくしけずり……それからその細くて小さな手を取った。


 華奢なロディーヌの薬指。もう二度とそこには戻ってこないもの。幾度となく剣を振り様々なものに立ち向かってきたオワインも、この小さくて柔らかなものを前に心が震えた。

 けれどロディーヌを怖がらせてはいけない。少しでも短時間で、できるだけ痛みを感じさせずにその願いを叶えてやらなければ。オワインは心を決め、きらめく短剣を見事な技で操って、ロディーヌの薬指を鮮やかに切り落とした。

 真っ赤な血が吹き出す。すぐにジュールがやってきて、その傷口を丁寧に舐め始める。ロディーヌは目を開き、オワインの腕の中でその様子をじっと見つめた。白い手の中に現れる指一本の空白。それは不思議な不思議な光景だった。やがて血は止まり、傷口は塞がった。オワインはようやく詰めていた息を吐き出した。


 ものの数秒のことで、流れた血もわずかなものだった。けれどその血は確かに野薔薇の根元に吸い込まれていった。妖精の姿をロディーヌに見せたその地面の中に、真っ赤な血は受け止められたのだ。そしてその一部始終を、大きな枝の奥から見つめていた可憐な花があったことに、誰も気がつかなかった。

 野薔薇の最後の一輪は、オワインの覚悟を、ロディーヌの勇気を、血の交わりを見たのだ。なくしたものは戻らないだろう、けれどすべてはいつか在るべき場所に還る。形から解放された時、その精神は再び結びつく。遠い日から誰もがそう願ってきた。黄金の美しいしべを揺らす花は、来るべき未来の何かを告げているかのようだった。


「ああ、ロディーヌ。すまない、あなたのドレスを汚してしまった」


 すっかり色が落ちてしまったドレスの上に数点の赤い染みが作られたのを見つけたオワインは、ロディーヌに謝りながらもその美しさに密かに驚いていた。小さなものだったけれど、オワインには美しい花のように見えた。

 それは、森の王国の冷涼な空の下にオワインの父が植えたヴァナンガラージュ。海の王国ではエピステッラがその色に染まる金色の花は、なぜかオワインの庭では赤になった。奇跡の花だと人は言った。約束の色だと母は泣いたのだ。その花が今、ロディーヌのドレスの上に咲く。

 指をなくした彼女にとって、その血の跡は忌まわしい記憶になるかもしれない。けれどオワインにはなぜか、その染みが真っ赤なヴァナンガラージュと同じように大切なものに思えてならなかった。残せてよかったとオワインは心の中で思ったのだ。


 ロディーヌはオワインの謝罪に首を振りながら、全く別のことを考えていた。この大きくて温かい胸の中にいる時間が少しでも長引けばいいのにと、そう思っていたのだ。これから一番大事なことをなさなければいけないのになんという身勝手、と心の中で己を叱ってはみたものの、その甘い感覚に抗うことなどできなかった。

 二人は言葉もなく抱き合ったままだった。人肌の温もりが素直にさせるのか、頑なだった心に誰かに甘えることの心地よさが響く。オワインもロディーヌも、今まで敢えて見ないふりをしてきた己の感情にいつになく従順だった。ロディーヌの流された血と失われた肉体が、それと引き換えに何かを与えてくれたのかもしれない。


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