第8話 熱き想いの行方

 一方ロディーヌは、家族ではない異性に足先を晒してしまったことに気づき、うろたえていた。けれど、その直後のオワインの行動に唖然とさせられて、そんな気持ちは一瞬で吹き飛んでしまう。

 オワインは物語の中の「騎士さま」のようにロディーヌの前にひざまずき、彼女の足先を手にとって、そっとその青に触れたのだ。

 ロディーヌは体の中を電流が駆け抜けたかと思った。胸は痛いほどに打ち震え、大きく息を吸い込んだまま、呼吸することも忘れてしまう。オワインの指先が燃えるように熱く感じるのはなぜだろう。それは羞恥だけではない、今まで経験したことのないような著しい興奮を覚え、ロディーヌは激しく戸惑ってしまった。


(わ、私、一体、なに……? どうして……? どうしたら?)


 ロディーヌは、生まれて初めてと言うくらいの猛烈な緊張を感じていた。赤くなっているのか青くなっているのか、とにかく体温も上がったり下がったりで、もう、どうしていいのかわからない。身動きすることもできず、声一つ出せない。まるで人形のように固まって、オワインになされるままだった。

 反対に胸の内は大騒ぎだ。もちろん冷静な自問自答などできるわけもなく、ただただわき上がる疑問の連続打。思わず何かを口走ってしまうのではないかとも思ったけれど、その唇からは息が漏れるだけで何の音にもならなかった。

 それでも、そのわずかな接触を無性に愛おしく思ったのは確かだ。理由など分からなかったけれど、そこには身を焦がさんばかりの熱があり、自分はそれを欲しているのだと感じる。ああ、このまま時が止まってしまえばどんなによいだろう。ロディーヌは不謹慎ながらもそう思ってしまった。

 ジュールはそんな二人とちらりと見て、またすぐに目を閉じた。その口元が幾分引き上げられて何だかとても楽しそうだ。


「ロディーヌ……これが女神の紋章。なんと美しい。あなたはやはり女神に愛されし者なのだな」


 つま先を宝物のようにそっと包み込んだまま、涙に濡れたロディーヌの顔をオワインが覗き込んだ。異性に対してそんな大胆な行動を今まで一度も取ったことがないと言うことに、オワインは気がついていなかった。この場においてはそうすることがあまりに自然で、そうせずにはいられなかったからだ。

 その足先の小さいこと、滑らかなこと。オワインは全身が痺れるような感覚を覚えた。重い長剣を何時間でも振り回せるはずの指先がわななかんばかりだった。

 ロディーヌが、天上の青のような聖なる色の瞳でオワインを見返せば、湧き上がってくる衝動は激しい渇きにも似て、彼は胸をかきむしりたくなった。その手を離せない、離したくない。ついで押し寄せてくる歓喜に、微笑みさえ浮かべてしまった。


「い、いえ……そんな、こと……」


 ロディーヌはどうにか声を絞り出した。震えていなかっただろうか、おかしくなかっただろうか。そう思いながらも、ロディーヌもまた、自分を見つめるオワインから目が離せなくなる。ロディーヌは、この時初めてオワインの瞳の色を知った。

 薄い茶色なのではと思っていた瞳は輝く金色だった。ロディーヌはその色に見入った。いや、魅入られた。それはまさに、今手渡したヴァナンドラと同じ美しさであり尊さだと感じたのだ。

 魔法に満ちた国である海の王国で採れる金色の美しい宝石ヴァナンドラ。それは古い海の王国の言葉で「海に愛されたもの」という意味だ。オワインの黒一色の中に輝く黄金色。そこにはきっと美しい物語が秘められているだろう。ロディーヌは、自分の青い足の爪などよりも、彼の瞳の色の方がずっとずっと美しいと思わずにはいられなかった。


「美しいのはオワインさまの瞳です」

「なっ!」

「すべてを包み込む太陽のような輝き、偽りのない宝石のような、そう、ヴァナンドラのような……」


 ロディーヌの言葉に、溶けんばかりの微笑みを浮かべていたオワインが一転、苦々しい表情を見せた。


「森の王国の者が金色の目など、おかしいだろう」


 けれどゆっくりと首を振ってロディーヌは言ったのだ。


「いいえ、ヴァナンドラは木々からこぼれ落ちたものが長く川の流れの中を旅し、やがて海にたどり着いてできたものだと聞きました。だから、この輝きの始まりは森なのです。ヴァナンドラは森の王国の方にもふさわしいものだと私は思います。森と海を、遠い何かを結びつける大きな力……こうして世界を旅していらっしゃるオワインさまにぴったりではないですか!」


 オワインは大きく目を見張った。返す言葉を見つけられなかった。ロディーヌは自分の抱えた悩みなど知るはずもないのだ。それなのに彼女の言葉はそれをものの見事に一掃した。オワインを長らく苦しめてきたものから解き放ったのだ! それが嘘偽りなく、その心から素直に発せられた感動であるということは疑う余地もなかった。


 ジュールが半眼でオワインを見上げ、ぐるぐると喉を鳴らした。その様子は「だろう? やっぱりだ。俺が思った通りだ」そう言わんばかりだった。

 誰よりも強いはずなのに、妙なところで繊細すぎるオワイン。自分に対しての評価が低すぎるこの若者に、黒豹はいつだって温かい言葉をかけ続けてきたのだ。

 そんな時、「ありがとう」と言ってオワインは笑ったけれど、それでもその心が完全に晴れることはないのをジュールは感じていた。自分では役不足だと知りつつも、悔しくて仕方がなかった。歯がゆかった。

 だからジュールは、オワインを包み込み癒し、心から愛してくれる誰かを長らく待ち望んでいたのだ。そして今、そこに一筋の光が投げかけられたのを感じずにはいられなかった。ジュールは平静を装いながら、二人の様子に意識を集中させた。


「ロディーヌ、あなたは……」


 けれどオワインはそれ以上続けられず、すっと目を伏せた。想いはもう喉元までせり上がってきていた。しかし大きな目的を前にするロディーヌにそれを打ち明け、彼女を困らせたくなかったのだ。

 ジュールが心配そうに見守る中、オワインは苦渋の決断をした。この想いは……今形にしてよいものではない。ではいつならいいのか、オワインにもそれは分からなかった。それでも今はその時ではない。

 オワインは、持てるすべての力を尽くして自分の気持ちをねじ伏せた。ジュールの大きなため息がオワインの中に響いたけれど、彼はそれを無視して自分に言い聞かせたのだ。


(ロディーヌは私が見つけた至上の宝石。彼女なら、こんな私を受け止めてくれるに違いない。私も命をかけて彼女を守ってみせると誓える。けれどそれはすべて、あまりに身勝手で一方的な思いだ。会って早々の私がこんなことを言えば、きっと彼女を煩わせてしまうだけ)


 一家にかけられた呪いに苦しみ、そこから立ち上がり、道を模索し、想像を絶する旅をしてきたロディーヌ。彼女にとっての幸せとは何であるかを考えた時、オワインは自分の中に沸き起こった衝動をそのまま口にしてよいとは思えなかった。

 時間など一つの尺度に過ぎない、長さなど問題ではなく、大切なのはその質なのではないか? ジュールが畳み掛けるように思念を送ってきたけれど、オワインは首を縦にふることはできなかった。


「いや、なんでもない……」


 そう呟いたオワインは、身を裂かれる思いでロディーヌの足から手を離し、そっと側の岩に戻した。彼女を見ることはできないままだった。

 ロディーヌは憂いを帯びたオワインの横顔をじっと見つめていた。離れていくその温もりが寂しくてため息が出そうになる。


(オワインさまは何を言いたかったのだろう……でも私も……)


 同じように、ロディーヌの中にもあふれんばかりの想いが渦巻いていて、彼女も必死でそれと戦っていたのだ。こんなにも温かいものに包まれたことがあっただろうか、こんなにも心安らげる場所など知らなかった。それだけは言葉にして伝えたいとロディーヌは思ったけれど、やはりぐっとそれを飲み込んだ。

 今それを言ってしまえば、きっと歯止めが効かなくなるだろう。胸の内にこみ上げてくるこの想いを、みんな吐き出さずにはいられなくなる。そうなれば、自分の弱い心は一人で歩く力を失ってしまう……そう思ったのだ。


 ゆるゆると首を振ったオワインが顔を上げた。ロディーヌはオワインから目を離せないままだった。二人はしばし言葉もなく見つめあう。どちらの胸の中にも激しく沸きたつものがある、けれどそれを知るのはジュールだけ。黒豹はその美しい薔薇色の瞳に言い知れぬ憂いの色を浮かべていた。

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