第6話 花咲く森の受難

 ロディーヌはオワインにこの岩山で見たことの全てを話したつもりだ。けれどここには彼女たちに知らされていない時間がまだいくつも残されていた。神話の時代からの膨大な歴史は、その多くが忌まわしい狂気に支配されていたけれど、それでもその中にはこの森が生まれ出た時の美しさや、愛する者たちの別れゆく悲しみの物語もあるのだ。そんな語られることのない時間たちは、けれど今を理解するにはなくてはならないものだ。


 誰もいない岩山の午後。自分を見つめる小さな影があったことにロディーヌは気がつかなかった。野薔薇の株の一番奥に、最後の花がひっそりと咲いていたのだ。大きな葉に隠された小さな白い花は可憐な姿をしていた。その柔らかな黄金色のしべは輝く瞳のようで、それがじっとロディーヌを見つめていた。


 



 空の王国と海の王国の間に広がる一帯はどちらの国にも属さない、けれどどちらととも友好的で深い関係を結んでいる。そこはかつて、魔領域ではなく魔法領域と呼ばれていた。

 砂の女神が作り出した大地の上に、海の王国の魔力を引き継いだものたちが住む。特殊な力、想像を絶する姿、神話の時代から変わらぬ彼らは驚くほど多種多様だった。しかしその複雑な生態系は、彼らが隠遁者のような生活を好むことで明らかにはされていない。


 土地は女神の指先から尽きることなく流れ出す、白い砂からできていた。一見乾燥しているように見えてその実、水を豊富に含んでいたため、いつしかその上には広大な森が育まれた。

 木々の間には光を放つ純白の大岩が数多く見られ、ここが魔力に満ちた場所であることを示していた。そしてその岩がさらに隆起し、やがて広大な岩床が作られてはるか北へと続いたのだ。

 それが聖獣の里の始まりであり、その岩床が針葉樹の森と出合った地点で見上げるほどの崖として立ち上がり、そのまま長く、さらに北の果てへと向かうことになったものが、森の王国の鉱脈へと発展していくことになった。

 一方で南へと広がった森の中の岩場は、小さく細かく姿を変え、やがて海と出合って真っ白な浜となる。 

 

 いつの頃からだろうか、その大地の北部のいたるところに夜明けの空の色をした薔薇が咲くようになった。それは白い岩肌に色彩を与えるだけでなく、いつしかそこに溶け込んで、ほんのりと暖かい色合いを生み出したのだ。女神の白は、この一帯では淡い薔薇色へとその姿を変えていくことになる。

 そしてそこに住まうものたちもまた、花と同じ色の瞳を持つようになった。それは、自分たちもその美しい大地の一部であるという彼らの誇りにつながった。信仰こそ持たなかったけれど、彼らもまた、この地を生み出した砂の女神を慕っているのだ。


 そのうちの一種族、緑がかった栗色の巻き毛と薔薇色の瞳を持つ妖精たちは、小さいながらも清らかな泉があり、四季を通して様々な花が咲く穏やかで美しい森に住んでいた。

 彼らは翅を持たず、地面で暮らすものたちで、種子に働きかけ、緑を生み出す力を持っていた。それが健やかで豊かな森の成長を助けるのだ。彼らは花を愛でることを特に好み、日々、交配を助けその誕生に努力を惜しまなかった。


 妖精たちはまた、自分たちの瞳と同じ色をした薔薇を森の奥でたくさん育てていた。そしてそれを収穫し生活に役立てた。美しいものを取り入れることは、心の豊かさを育むことだと考えていたからだ。


 そこから採れる蜜は非常に甘く香り高く、乾燥させた花びらを湯に放てば息をのむような美しい色になった。誰もがお茶の時間を楽しみにしており、そこにはいつも明るい笑い声があった。

 ああ、この色はまるで夜明けの空のようではないか、と誰かが言った。植物と同じように早起きする妖精たちは、朝日が昇る前の空を見ることが一日の始まりだ。それが美しければ、その一日は満たされるものとなるだろうと信じていた。そんな空の色は薔薇と同じ色。薔薇色。妖精たちは夜明けの空の色をそう呼んで、その美しさを心から愛した。


 穏やかで美しい森の生活。しかしある日、大きな鳥が森の中の岩山に降り立ったのだ。


「なんだあれは!」

「カラスだ! 大ガラスだ……見たこともないほど大きいぞ……」

「それにしてもなんていう禍々しさ。あれはこの領域のものじゃない! みんな気をつけろ!」

「しっ! 静かに! 聞こえるよ。見つかったら厄介だ」


 尋常ならざる力を有するものを知っている妖精たちにも、その巨大な姿は桁外れたなにかだった。それも信じられないほど悪魔的なにか。

 妖精たちはただならぬ気配に怯え、気付かれないようにと息をひそめ、遠くからそっとそれを観察した。


 しばらくすると不思議なことがわかった。昼には大きな翼を持つ鳥は、夜には醜い人の形に戻るのだ。それも健やかなものではなかった。

 食いしばった歯の間から、苦渋の呻き声を上げて、男は眠れぬ夜に岩肌を穿ち続ける。飛び散った欠片は彼を傷つけ、流れ出た血が元は光り輝いていたであろう男の金色の髪を汚した。


 心優しい妖精たちは、悲しみに満ちたその大ガラスをできることならば救ってやりたいと思った。呪いが彼を苦しめていることは、まとう瘴気や集まりくる闇の欠片を見れば一目瞭然だったからだ。

 夜毎己の所業を嘆く男は、元は心根の真っすぐで清らかなるものだということも感じ取れた。きっと恐るべきことが男を襲ったのだ。なんという痛ましいことだろうか、どうすれば呪いを解いてやることができるだろうか、けれど、それは叶わなかった。


 彼らの上にも、予期せぬことが降りかかったからだ。大ガラスが到着して以来、西から強い風が吹き始め、降水量が極端に減った。朝夕の気温差が大きくなり、繊細な植物たちは葉を落としたり、蕾を腐らせたりしたのだ。

 不安をつのらせた妖精たちは、巻き上がった砂でぼんやりと煙る西の空を見上げた。そういえばしばらく砂の女神の翼の音を聞いていない。女神の指から溢れる白い砂によって出来上がる新しい岩を、森の中で見る事がなくなっていたことに気づく。

 それどころか、岩がぼろぼろと崩れ始め白さを失いくすみ始めていた。その最もたるものが、大ガラスの舞い降りた岩山だった。それは瞬く間に暗く沈んだ色へと変色し、植物は次々と枯れていった。

 何か得体の知れないものがこの領域を支配しようとしているのだと、妖精たちは身を寄せ合い引きこもった。そのため、哀れな男のことを気にしながらも、誰もがどうすることもできなかったのだ。


 さらに時を同じくして、怪しげなものたちが森の中に姿を現すようになった。次々と引き寄せられて来る何か。それは今まで見たこともないようなものたちだった。昼夜を問わず、耳を塞ぎたくなるような叫びが森にこだました。

 やがて気味の悪い霧が立ち込めるようになり、それらは森の草や木を枯らし、ついには妖精たちの花畑へと迫った。それは闇だ。ひどく深い闇。光をその奥深くに引きずり込もうとするもの。圧倒的な力の前になす術はなかった。


 美しいものを嫌う闇のものたちが、次々と妖精の花に襲いかかる。じわじわと黒い染みが増え、幾重もの柔らかな花弁を震わせていた薔薇たちは、やがて元の姿が思い出せないほどに醜く膨れ上がって裂けた。

 それは大きな口のようになり、そこから黒い液体がだらだらとこぼれ出る。辺りには凄まじい悪臭が立ち込めて、妖精たちはもはや花に近づくこともできない。

 彼らはついに決心した。もはやこの森に留まることはできないだろう。自分たちが愛した美しさは奪われたのだ。誰もが命の危機を感じていた。ぐずぐずしている暇はない。妖精たちは大切なものをまとめると西へと移動を開始した。


 こうして妖精たちが去り、残された花畑がむごたらしく姿を変える中で、森は荒れ果てるままだった。カラスの悪行は日増しに残忍さを増し、森には彼が攫い捨てたものたちや、彼の狂った心が呼び寄せたものたちが徘徊し、対峙して恐れあい、憎しみあい傷つけあった。

 焼かれ切られ踏みにじられ……、森もいつの頃から自分を守ることに必死になる。向かって来るものはすべておそろしい敵だ。それを拒み排除しようと森は荒れ狂った。


 一方で、おぞましい姿に成り果てた花が、香りを偽って弱きものを弄び始めた。犠牲者たちの恐怖に駆られた声に喜ぶ彼らには、妖精たちとの幸せな日々の記憶はもうなかった。

 暗い影を落とす木々の下、すべてのものが、己の吐く呪いの言葉の中でさらなるぬかるみにはまっていく。断末魔の叫びも悲しい泣き声も、ありとあらゆる負の感情が渦巻き、それはまさに世界の闇の縮図だった。

 王子の命が尽きた後、森に巣食う闇の力は一時的には弱まった。けれど、次なるカラスが舞い降り、負の連鎖はもはや止めようがなかった。

 

 ロディーヌが森に分け入った朝も、終わる事のない苦しみの中で、森は神経を張り詰め、花は生贄を求めて甘い毒を撒き散らし続けていたのだ。

 けれど岩山に生まれ出た野薔薇は、大切な友の言葉を胸に来るべき日を待っていた。花咲く季節に自分のそばで微笑んでくれるものはもういない。それでもその言葉が花を支え続けた。


 遠い日、真っ白で小さな花が咲いた時、青い蝶は言葉の限り並べて野薔薇を褒め称えた。それはお世辞などではない。心からの喜びだった。そして彼女は最後にこう言ったのだ。


「約束が果たされ、時が満ちれば、すべては元に戻るのです。それは同じ形かもしれないし、違う形かもしれない。けれどそれはかつてと同じ魂を持ち、新しい喜びで私たちを包むでしょう。残念ながら私の約束はもう果たされることはないけれど、あなたならきっと、それを作り見守ることができますよ。この白は気高く美しい。でもあなたにはもっと似合う色があるような気がするのです。いつかまた、あなたの上に新しい色がもたらされるのかもしれませんね。そのための約束が結ばれる日が楽しみです」


 その日から、野薔薇は運命の想い人たちを待ち続けている。苦難を乗り越えた者たちの上に奇跡を届けたいと、そう願い続けて孤独の地に根を張り枝を広げたのだ。

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