第5話 野薔薇と青い友

 地面すれすれに、青い光のような凜とした何かがあって、場を浄化し続けているのだ。その一筋の流れの下にある苔は心なしか他のものよりも輝いているように見える。

 ロディーヌはその源を確かめようと視線を上げた。光の道筋のようなそれを辿れば、それは岩山へと続いていた。そこには大きな門があって、その脇に緑の茂みがある。あの葉は……王国の森でもよく見た葉……そう、あれは野薔薇だ! 


 それはこの不毛の地において、信じられぬほどに美しい命の輝きだった。花は終わってしまったようだったけれど、さらなる若葉が芽生えて、そこには溢れるような生気があった。この瘴気の森とは真逆のもの。清らかで気高いもの。青く澄んだ美しい空気は、その根元から流れ出しているのだ。

 ロディーヌはまだ痺れている体で野薔薇の元へと這い進んだ。近づくごとにだんだんと息が吸えるようになり、恐ろしい音も聞こえなくなった。野薔薇の下にたどり着いたロディーヌは、そこには特別な何かがあるのだと感じた。


 その時、野薔薇の上にあの青いエピステッラが再び姿を現した。ロディーヌは自分の想像は間違っていなかったのだと確信した。青いエピステッラは泉の王国にあるべき姿。そう、目の前のそれは泉の王国へいくものではなく、泉の王国からきたものなのだ。

 そのエピステッラが吸い寄せられるように野薔薇の根元に舞い降り、そっとそこに横たわった。青い翅がかすかに揺れて光る。そしてふっと消えてしまった。ああ……これは遠い日の再現なのだ。ロディーヌはじっと目の前の野薔薇を見つめた。




 女神が最後の力で放った蝶は、吟遊詩人がかけた忘却の呪いの森を女神の力で超えたものの、追いかけてきた魔性との攻防は熾烈を極めた。大きな力を持つわけではない蝶は、輝きで黒きものたちを払い消すくらいしかすべを持たない。気の遠くなるような時間、彼女は光を放ち続けて闇と戦った。

 そんな戦いでは、気高き光を有するもの、太陽や月の力は大きな助けとなった。けれど良い天候ばかりが続くわけではない。暗く荒れた日や月の見えない夜は、礼拝堂や教会や祠などの美しい気を求めて逃げ込んだ。疲れ切った体には、少しでも癒され守られる場所が必要だったのだ。

 さらに小さな体では大きな気流には逆らえず、意図せず遠く北の森へ飛ばされたり、来た道を押し返されることもあった。王子の飛び去った西の彼方は、そこに見えているようで、けれどどこまでも遠かった。


 激しい嵐や強烈な寒さ、避けきれずに浴びてしまった穢れの力のために、美しい翅は痛み傷ついた。幾度となく地に落ち、死線を彷徨った。それでも王子に会いたい、想いを伝えたいという気持ちだけは揺らがなかった。

 その愛が、満身創痍の蝶を支えたのだ。長き旅の末に岩山へとたどり着き、とうとう愛しい王子の住まう館を見つけた日。たとえ姿は変わり果てても、近くに来られたことを彼女は心から喜んだ。それなのに、その青い命は薄れゆこうとしていた。


 ようやく降りた先も瘴気の森で、弱った蝶を容赦なく蝕んだからだ。彼女はわずかながらにも光の差す岩山の麓に身を寄せた。

 しかしそんなものは慰めだ。死を待つだけの日々だと弱っていく意識の中で嘆いた。ところが、その蝶を守らんとするかのように小さな芽が顔を出したのだ。

 

 野薔薇だった。それはかつてこの地に住んでいた妖精たちが残していった種。森を覆い尽くす怪異に畏れおののき、身を縮こませ発芽することなく時を過ごしていた種は、目の前の小さくて儚げなのに、強く輝く精神を持つものに目を覚まされる思いだった。

 蝶の上に双葉を広げた野薔薇は、まさに闇を払う一筋の光だった。たとえ魔窟のような場所であっても、この地をよく知る自分なら、遠くから来たであろうこの蝶を助けることができるかもしれない。いや、何としても助けたい。野薔薇はそう強く思ったのだ。それは、長く生きることの意味を忘れていた野薔薇にとって大きなものとなった。


 野薔薇は元は妖精の花であり、朝焼けの色をした大きな薔薇だ。けれど妖精たちが去ったあと、荒れ果てるばかりのこの土地で身を隠すためにその姿を変化させた。美しい色を捨て、咲く時期を限り、息を潜めて。そんな毎日に、薔薇は自分が自分でなくなるような苦しみを覚えた。

 こんなことをしてまで生き延びたいのか……そう思った途端、もうこれ以上発芽する気にはなれず、生きる気力を失って、ただただ土の中で惰眠をむさぼるばかりとなったのだ。もうこのまま土の一部になってしまえばいいのに。けれど妖精の花の種は簡単には腐ったりはしない。その並外れた力が、この時ばかりは歯がゆかった。


 けれど薔薇は出会った。残りわずかな命にも関わらず、燃えるような想いを掲げるものに。姿形を変えてでも、愛する者を守り生きたいと願うものに。目の前に落ちてきた蝶は汚れ痛み、みすぼらしいものだった。けれど、その身に残された青は、この世のものとは思えないほどに美しかったのだ。

 それは想いの力だ。その心、その精神、その生き様。青い蝶の発する美しさに息を飲んだ種は、己の意思で瞬く間に茂り、大きく安全な緑の家を彼女に提供した。もう魔力など消えてしまったかと思っていたけれど、その身の内に秘められたものは、遠い日からちっとも変わることはなかったのだ。姿などいかに変わろうとも、その本質は変わらないことを、自分であり続けられることを、野薔薇も身をもって教えられたと思った。

 消えゆく命そのものを助けることはできないけれど、その傷ついた体を少しでも癒せれば。野薔薇は清らかな気を緑の茂みの中に満たす。青い蝶はその中で労わられ癒され、少しずつ力を取り戻した。

 野薔薇は、青い蝶の語る愛の話を毎夜聞いた。異国の花たちのことを。世界の町のことを。海や大河や、まだ見ぬあれもこれをも。孤独で寂しかった夜はもう思い出せないほどに、その心は温かさに満たされたのだ。


「私もこんな姿になってしまった。妖精たちが愛してくれたあの薔薇にはもう戻れないだろう」


 そう言って寂しげに笑う野薔薇に蝶は微笑んだ。


「いいえ、あなたはその時の薔薇よりもずっと気高く美しいわ。私の翅を痛めないように、棘は一つも生まれなかった。こんな特別な花が他にあるでしょうか。いつかこの姿を、西に向かった妖精たちにも見せてあげたいわね。きっと彼らはあなたの強さと美しさを褒め称えるでしょう」



 再び飛べるようになった蝶は、夜の中の王子を幾度となく見て、約束がとうの昔に潰えてしまっていたことを知った。王子はすべてを忘れて日々嘆き悲しんでいたのだ。そしてその命も尽きようとしていた。

 彼女は大きな悲しみに打ちのめされた。けれど愛しい人に一目でも会えたことは、かけがえのないことだったと自分に言い聞かせる。それでも奇跡を思わずにはいられない。たとえ今約束が果たされなくても、次につながる何かになれば。……ああ、シャルレイアさま……。青い蝶は残された日々の中で、輝く月に祈りを捧げ続けた。


 大きく澄んだ美しい月の下、王子の混濁とした記憶に一筋の光が差し込んだ時、彼女は自分の持つ全ての力を注ぎ込んだ。美しい青の思い出を取り戻してもらうために、王子の前にその身を晒し、心の声で語りかけたのだ。

 そして王子は取り戻した。自分には愛する者がいたことを、そしてその者もまた、王子を心から愛していたことを。思う未来には届かなかったけれど、自分が到着したことを、そして彼を想い続けたことを、天空草の花の妖精は一番伝えたかった人に伝えることができたのだ。


 ああ、愛しい人よ。王子がようやく霧の晴れた心でその手を伸ばした時、彼女は心からの歓喜にうち震えた。けれど次の瞬間、彼は倒れ伏した。黒い闇に包まれ、彼女が求め続けた命は黒い灰となってしまったのだ。その温もりをもう、感じることはできない。王子の死を見届けた後、青い蝶の命の火もまた静かに消えた。

 美しい月光の中、失われた青の光。どんなに悔しかっただろうか。いつの日か、この二人を結びつけてやりたい。想いをつなぐ者を見つけてやりたい。野薔薇は蝶を抱きとめ、そう誓った。愛しき者を救いたいと、誰かがこの地にやってくるであろうその日まで、自分は諦めることなく生き続けようと誓ったのだ。




 ああ、この野薔薇は、妖精の想いを、王子の想いを、その内に抱えているのだとロディーヌは知った。狂気の森からロディーヌを導いてくれたエピステッラは、間違いなく天空草の花の妖精だったのだ。

 愛する人を迎えに行こう、そして共に行こう、その魂は今もなお、ここでさまよえる何かを救おうとしているのだ。青い蝶の残像の上にそっと手を重ねたロディーヌは静かに涙を流した。悲しみの涙ではない。愛することの強さや美しさのために流す涙だった。

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