第4話 悲しみの岩山に潜む怪異

 オワインは今度こそ絶句してしまった。大きく息を吐き出し、ようやく言葉を絞り出す。


「……それゆえこんな姿に。怖い思いをしたのだな。ああ、あなたが無事で本当によかった」

「エピステッラが助けてくれたのです」

「ああ、それはまさに妖精の魂が作り上げた蝶に違いない。森の王国ではオレンジで、ここではまだ白のはず。それにこの辺りでは一番高く飛ぶ、森へ降りるなどありえない」


 オワインの言葉にロディーヌは大きく頷いた。このような奇想天外な話、果たして信じてくれる人がいるだろうかと思っていたけれど、オワインはロディーヌの気持ちを深いところで汲み取ってくれている。心から彼女の話を信じてくれているのだと、ロディーヌにもよくわかった。

 

(本当に純粋で、何事にも真摯な方なのだわ……)


 ロディーヌは密かに嘆息する。


(こんなに素晴らしい方がいらっしゃるだなんて……)


「確かに、ここは今までの陰気な森とは違うと思ったのだ」

「あれです。あの野薔薇がこの地を浄化しているのです。あそこから綺麗な空気が流れ出していて……それに……」


 ロディーヌは野薔薇を振り返り、この岩山でのこと、青い翅に導かれて見た白昼夢のような不思議なあれこれも、オワインには知ってもらいたいと口を開いた。



 


 エピステッラを見送ったロディーヌは、岩山のそばの階段状になった石に腰を下ろした。辺りにはわずかながらも草や苔が生え、森の中のようなおどろおどろしい雰囲気はない。ロディーヌは安堵の息をつく。目の前の沈んだ灰色の岩山は脅威的ではあるけれど、それに襲われる心配はなさそうだ。

 泥の塊と化した靴をどうにか足から引き剥がす。それはもう、靴とは呼べそうにない代物だった。足もすっかり泥にまみれていたけれど、洗うための水などあるわけもない。仕方なくハンカチで拭うことにした。


 ポケットには二枚のハンカチが入っている。手前には故郷から持ってきたもの。元の輝きを失ってはいたけれど、どうにかまだ青を保っていた。その青を見てロディーヌの心は温かくなった。たとえ褪せていようとも、手元に青があるということはそれだけで嬉しいものなのだ。

 もしかして! と、ロディーヌは奥のものも取り出す。自治区で買った美しいレースのついたハンカチ。それはロディーヌの予想通り、いまだ美しい青のままだった。ロディーヌはそれを胸に押し当てて目を閉じた。水の音が聞こえ、体が満たされるような気がした。ロディーヌは新しいハンカチをそっとまたポケットにしまい、色褪せた方のハンカチで丁寧に足を拭き始めた。

 本当のところそれは、泥を伸ばすくらいにしか役だたなかったけれど、自分が青に包まれているという視覚効果は大きく、ロディーヌは清々しい気分になった。痛みや傷さえも消えていくかのようだと思ったのだ。


 けれど、拭き終えた足を岩山の苔の上にのせて乾かしていると、急に涙がこみ上げてきた。堰を切ったように溢れ出した涙を止めることができない。寂しさが後から後から押し寄せてくる。どうしたのだろう……最初は兄たちがいるだろうと思われる岩山に到着し、感極まって泣いているのかと思ったけれど、どうやらそうではないことにロディーヌは気がついた。


 悲しみだ。喜びではなく、悲しみがこの場を覆っているのだ。それは自分の悲しみだけではない。長い年月を経て、多くの悲しみがまるで澱のように沈みこんだのだ。それは呪いの力がうみ出したものだろう。その果てしなく蓄積されたものからじわじわと負の感情が滲み出し、近くにいるものの心の奥にあるものを、同調する何かを、引きずり出すのだ。

 悲しみが悲しみを引き寄せる。もうとっくに浄化されたはずのロディーヌの悲しみ。残されていたものはごくごくわずかなものだろう。しかしそれさえもが引きずり出されるとは……王子の絶望とも呼べる悲しみがいかに深かったのかをロディーヌは思い知らされた。


 ロディーヌは涙に曇る目で岩山を見上げた。何も生えていない岩肌は、人を寄せ付けない厳しさを感じさせた。ここに囚われた人たちの、孤独に支配された年月を思って胸が締め付けられるようだった。

 朽ちた古い剣の先のような色をした岩の館が、外界からの救いの手を拒絶し続けてきたことは明らかだ。その内でいかに恋い焦がれようとも、叶うことはなかっただろう。いつしかすべての想いが深い深い絶望へとつながり、呪い呪われ、闇の奥底へと落ちていく。その無念さは計り知れないと、ロディーヌは身震いした。


 その時、辺りに異質な音が響き渡った。岩山全体が笛のように鳴り響いているのか、意志を持った何かのように嘆き始めたのか、とにかくそれは、隠されてきた感情が一気に噴き出してきたかのようなおぞましい音だった。

 ひどく冷たく暗い世界の中で、孤独という何かが繰り返す荒い息、喉を割かれるような音。耳を塞ぎたくなるような悲鳴にも似た音に、ロディーヌの体は動かなくなってしまう。割れるように頭が痛い。がんがんと、脳内で鐘が打ち鳴らされているかのようだ。

 それは次第に全身を襲う鋭い痛みとなっていく。ロディーヌはもう座っていることもままならず、地面へと崩れ落ちた。


 悲しみとはこれほどのものなのだと今更ながらにその大きさと恐ろしさを思い知る。

 兄たちを失ってからのロディーヌもまた、絶望の暗闇に横たわったままだった。吹きすさぶ風の中でずっと一人きりだった。冷たい深海の底で、温めてくれる光もなかった。苦しくて苦しくて、心に空いた穴はどんどん大きくなり真空の宇宙のように彼女を飲み込んだのだ。

 ロディーヌは瞬く間に遠い日の思いに囚われた。目がかすみ、重くのしかかった悲しみが青空さえも曇らせるかのようだ。すべてが揺らいで消えて、またわき起こって……どこにいるのか、何をしているのか、何が本当で何が嘘なのか……。深い悲しみに塗りつぶされ再び抜け殻のようになっていく。


『ロディーヌ! ロディーヌ! 戻ってきて! 大丈夫よ!』


 青い水のような、青い風のような、驚くほど冷涼な何かを感じてロディーヌは我に返った。地面に触れている彼女の頬を何かがかすめていったのだ。

 体はまだ動かなかったけれど、心は力強く引き戻された。ロディーヌはじっと地面に伏せたまま、清らかな流れに集中する。恐ろしい音が少しずつ小さくなり、傷つき泣きじゃくる自分も遠ざかっていった。

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