第3章 沸き起こる青の清らかさ〜ロディーヌ
第1話 秘められた美しき水
「ロディーヌ……」
オワインは二の句が継げなかった。泉の王国はここからかなり離れた東の国。その距離を一人で歩いた女性の話など、いまだ聞いたことはなかった。さらにあの過酷な砂漠で女神との時間を持ったなど、どれもが想像をはるかに超える話だった。
ロディーヌがいかに勇敢であるか……謙虚でありながらも時に大胆でかつ聡明であることは、わずかな触れ合いの中でも気づいていたけれど、これほどまでだとは思いもしなかった。
もちろんロディーヌは全てを話したわけではない。細かなあれこれを説明すれば、一晩かかっても足りないだろう。兄たちに関すること、女神から教えられた過去と自分の使命など、重要な部分のみをかいつまんで説明したのだ。それでもそれはオワインの心を揺さぶって余りまるものがあった。
彼はロディーヌのドレスに視線を走らせた。彼女の言う通り、それはすっかり白になってしまっていたけれど、繊維の中に僅かに残った染料のせいだろうか、時折光の加減で青く輝く時があった。その微々たる色でさえこれほどとは、元は本当に美しい青だったのだろうと容易に想像できた。
それにしても、世界に名の知れる高等技術で染め上げられた色が、このように色褪せてしまうなど……この旅がどれほど辛く苦しいものであったかを物語っているとオワインは胸が苦しくなった。よくぞ無事にここまでたどり着いてくれたものだ。彼女が成し遂げたこの三ヶ月近くの旅はあまりにも驚きに満ちていて、オワインはただただ、この出会いに感謝しかなかった。
一方ロディーヌも、自分の話を黙って聞いてくれるオワインに心から感謝していた。彼が優しい目で自分を見、時折頷いてくれる様子に嬉しさが募っていく。他の誰に褒められたところでこれほど嬉しいとは思わないだろう。彼だから、彼だから……。
けれど、オワインの立ち振る舞いや受け答えは非常に洗練されていて、きっと本来は自分などが気安く近寄れないような身分の人なのではないだろうかと思うのだ。そう気づくと何だか悲しくなってしまい、思わず口を閉ざして俯いてしまった。そんなロディーヌにオワインは優しく微笑んで言った。
「ああ、すまない。あまりに壮大で胸が詰まってしまった。あなたという人は……。ロディーヌ、しかしついに秘密の糸口を掴んだのだな。そしてこの森に」
ロディーヌはこくりと頷いた。そして今朝からのことを再び話し始めた。
やがて朝日が昇り、まぶたの裏に広がる光がロディーヌをまどろみから引き上げた。ゆっくりと目を開き、ロディーヌは明るくなっていく空を見る。投げかけられる陽射しは柔らかで、身を焦がし目を射るような激しさはもはやなかった。知らず笑みが広がる。
再び目を閉じれば、包み込んでくれる黄金の光は心地よく、まるで温かい腕に抱きとめられているようだと思った。それは例えようもなく大きな安心感で、またまどろみに戻りたくなってしまいそうになる。
「ああ、お願い、もう少しこのまま……」
思わずそう呟いたロディーヌは、次の瞬間はっと気がついた。しまった、旅の途中だった。ロディーヌは誘惑を退けるかのように頭を振ると、苔の上から身を起こした。
「太陽の光、黄金の輝きって、こんなにも素敵なものだったのね」
名残惜しげに空を見やり、それから視線を移した。昨夜は気がつかなかったものが目の前に広がっている。
深い森。それはロディーヌの知っている泉の王国の若々しく美しい緑の森ではなく、空を覆い隠すようにうっそうと生い茂った恐ろしげな森だった。巨大な影のような、闇のような森。空の王国へ向かう途中で見たあの黒い森に違いない。
「いよいよだわ。それにしても……一体これは……」
木々はどれもこれも歪な形をしており、何の種であるか判別もできない。さらに、そんな姿が見えるのは手前のわずかな数本のみで、その奥はいくら目を凝らしても見ることはできななかった。黒い霧が立ち込めて行く手を塞いでいるかのようだ。ロディーヌは身の毛が逆立つような感覚におそわれた。見たこともないような禍々しい瘴気をはらんだ森を前にひるみそうになる。
しかしこの先に、女神に教えられた岩山があるのだ。どうしても避けては通れない道。ロディーヌは砂漠で見た物語を思い出し、勇気を奮い起こした。本当の旅、呪いを打ち破るための旅はここからなのだ。胸のロケットをぎゅうっと握りしめた。
ふと、森の前に小さな泉があることにロディーヌは気がついた。ずいぶんと暗く寂しい雰囲気で、泉と呼んでいいものかどうか迷ってしまいそうなものだったけれど、それでも苔むした岩の隙間から流れ出す水は汚れていないような気がした。
そっと近づけば、遠くから見たときにはどんよりとした水たまりのように見えていた泉は、思いの外澄んだものだった。水面に黒い岩が写り込んでいるせいで暗く影のように感じられたのだ。
よくよく見れば、腐りかけた落ち葉で覆われた泉の周りには色とりどりの石が配置されている。かつては、活気ある美しい場所だったのではと想像できた。
ここにはまだ太陽の光が届く。森を支配している黒い何ものかも容易には手を出せないのだろう。さらに泉には、この水を大事にしてきた者たちの力が残されているような気がした。それは大切なものを密かに守り続ける力だ。
「もしかしてこの泉は……。ああ、どうぞ私に力を貸してください」
ロディーヌは流れに手をさし出した。そして体に染み渡ってくるものに心から驚かされた。やはり泉は死んではいなかったのだ。それどころか、黒きものたちに悟られないよう、自らの質を極限にまで抑えた非常に知的なものだった。ああ、ここにもまた時を待ちわびるものがあるのだとロディーヌは確信した。
すべては女神たちの物語に通じているのかもしれない。兄たちの呪いが解ければ、この泉もまた美しさを取り戻すことができるだろうか。そうであってほしいと願わずにはいられなかった。
すくった水でのどを潤し顔と足を丁寧に洗えば、十二分に癒された。感謝の気持ちを伝えようともう一度流れに向き合えば、心なしか水の純度が上がったような気がした。少しでも思いが届いただろうかと嬉しくなる。良い水は体の深部から浄化を助けてくれる。自分の中に新しい力が満たされていくのを感じたロディーヌは、意を決すると暗い森へと進んだ。
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