第2話 狂気の森の叫び

 しかし一歩足を踏み入れた途端、足元からただならぬ気配が這い上がってきて震え上がる。なんというおぞましさ、果たして命あるものの住める場所なのだろうかと、ロディーヌは恐る恐る辺りを見回した。

 頭上にはまるで汚れた大きな外套のような枝々が覆いかぶさり、陽の光を遮っていた。隙間からこぼれ落ちたわずかな薄明かりの中に、ぼんやりと木々の足元や岩や地面が浮かび上がって見える。

 そのどれもが恐ろしいほどに黒々としている。単なる色ではなく、黒い何かがうごめいているのだ。けれどそれが何であるか、ロディーヌにはじっと見る勇気はなかった。

 なぜなら、それらはみなロディーヌを見ていたからだ。ぎらぎらとした無数の目は、今にも飛びかかってきそうな狂気をはらんでいた。

 

それでも同時に、その中にかすかに揺らぐ悲しみのようなものも感じた。うごめくものたちの下で、元々ここにあったものたちが息をひそめている。怖がっているのだろうか、自分では敵ではないとロディーには伝えたかった。彼らが長い時間の中で何かにしいたげられ傷つけられ、今も苦しんでいるのは明らかだ。ロディーヌは近くにあった大きな木の枝にそっと触れようとした。

 途端、枝の脇から太い蔓が突然伸び上がり、その手を払い落とした。それは激しい拒絶だった。森の受けた苦しみは、彼女が考えるほど簡単なものではなかったのだ。その傷は深く、そこから毒に侵されていて、すでに何もかもが正気を失っている。闇に染まり、狂っていたのだ。

 

 己の中に投げ込まれた存在は、内側から自分たちを苦しめようとする異分子だと、今や森はロディーヌを敵とみなした。一斉に伸ばされた蔦には鋭い棘が生まれ、森は凶暴な牙をむき出したのだ。張り巡らせた枝を膨張させ、根を動かしてロディーヌに向かってくる。


「ひっ!」


 ロディーヌは声にならない悲鳴をあげた。それはあまりにおぞましい光景だった。

 膨らみすぎた幹は裂けて樹液を流し、地面をつき破った根は地にうごめくものに襲われ噛み砕かれる。ぶつかり合った枝同士が激しく互いを叩き合い、むしり取られた棘は身をよじって目の前にあるものに深くめり込んだ。

 それでも木々はロディーヌを追いかけてくる。自らを傷つけながらも次々と向かってくる。共食いの狂気だ。

 その時、ぬるりとした何かがロディーヌの頬をかすめた。触手! なんとも気味が悪い。それが、折れた枝から裂けた幹からどんどん出てくる。もはやそれは植物の姿ではなかった。今度こそ、ロディーヌは悲鳴をあげて走り出した。


 地面から突き出した何かに足を取られ、幾度となく転びながらも、とにかく逃げることに全力を傾ける。絡みつこうとする蔦や触手をちぎり捨てることはできなかった。すでに魔性と化していても、木々の癒しの力を知っているロディーヌには、この有様は大いなる悲しみにしか思えなかったからだ。彼らをこれ以上傷つけるわけにはいかないと思った。

 

 ロディーヌは走り続けた。胸は破裂せんばかりで足は激しくもつれ、今にも倒れそうだった。これまでかと思った時、少し開けた場所が見えた。わずかな隙間、森と森の間とでもいうべきか。その向こうにはまた、別の鬱蒼とした森が広がっているけれど、そこにだけは光が差し込んでいる。

 ロディーヌは力を振り絞ってそこへ走り込んだ。闇色の森は光の下には出られないはず。そしてその予想は的中した。追ってきた触手たちは光を感じると激しく震え、元の場所へと引き下がっていったのだ。


「助かった、の?」


 それでもじりじりと、ロディーヌは先へ進んだ。足は感覚を失い、立っていることもままならぬほどだったけれど、休んでなどいられない。大きく肩で息をしながら、震える体に鞭打って、なるべく日の当たる場所へと移動を続ける。

 空間の真ん中へたどり着いたロディーヌは、振り返ってしばらく森を凝視した。それ以上追ってくる様子はない。大きな安堵の息を吐き出しながらロディーヌはガクガクと膝を折った。あちこちに傷を作り、泥に汚れて散々な姿だった。

 背負っていたバッグもどこかに落としてしまったようだ。中にはまだ青をとどめているはずのドレスが入っていた。兄たちが故郷や自分たち家族を思い出してくれるように、そう思って持ってきたものだったから残念でならない。

 けれどまたあの蔦に追いかけられてはたまらない。あれは、ここまで逃げてこられたのが奇跡だと思えるほどの狂気だった。たとえ身一つにもなろうとも、ひどい怪我もせずに済んだことにまずは感謝するべきだろうとロディーヌは思った。


「これが、引き寄せられた魔の力……」


 癒しの力を持つ植物がここまで禍々しい何かに変わってしまうとは……よほどのことがあったに違いない。胸の痛みを感じずにはいられなかったけれど、今は兄たちがいるであろう岩山に向かうことが先決だ。ロディーヌはそう自分に言い聞かせて顔を上げた。


  その時、ふと甘い香りが漂ってきた。母が焼いてくれるお菓子のような甘い香り。しばらく口にしていない懐かしい香り。


「これ……」


 ロディーヌはその香りを幸せそうに吸い込んだ。途端、目眩を覚え、思わず地面に両手をついてしまう。けれどすぐに立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。

 香りは、さらに湿度の高さを感じさせるもう一つの森からだった。そこもまた、明らかに普通ではない怪しい気配に満ちている。それなのにロディーヌはためらいもなくそこに足を踏み入れた。さっきまでの記憶など、すっぽりと抜け落ちてしまったかのようだ。

 

 さらに粘って絡みついてくる空気。この森にも陽の光は微かにしか届かない。さっきの森とは違い、行く手を遮るものはなかったけれど、木々の間に漂っていた霧は一段とその暗さを増していた。

 足元はぬかるんだ道。ロディーヌの摩り切れ始めた靴の中に、気味の悪い色をした泥水がどんどん染み込んでいく。一足、また一足と濡れた靴は重くなっていった。それでもロディーヌは歩き続ける。目は虚ろで、まるで夢遊病者のようだ。


 しばらくすると沢の音が聞こえるようになった。こんな視界の悪い森の中ではどこに崖があってもわからない。用心しなければいけないというのに、ロディーヌは御構いなし。引き寄せられるかのように先へ先へと進んでいく。

 やがて、木々の間に黒い花が現れる。人の背丈ほどもある巨大な花が、辺り一面咲き乱れている。甘い香りはどうやらそこから流れてくるようだ。

 表情の抜け落ちた顔をしていたロディーヌが、突然うっすらと微笑んだ。立ち止まり、強くなったその香りを胸いっぱいに吸い込む。

 直後、体を折り曲げてごほごほと嫌な咳をした。それでもロディーヌはうっとりと近くの花に歩み寄り、顔を近づけてさらに香りを嗅ごうとする。愛おしくて仕方がないといった風に。けれどその花には、美しさなど皆無だった。

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