第15話 届かなかった想いの果ての希望

 あの吟遊詩人がどこで何をしているのか、もう知る者もいない。けれど、闇の恐怖は詩人に限ったことではない。日々、世界には黒い想いが生まれでる。それは誰の胸の内にもあるからだ。魔の力は闇に潜んで時を待ち、王子にかけられた呪いが解かれなければきっと次なる犠牲者を呼び寄せるだろう。


 今、甘い毒によって黒くただれた王子の命は、孤独と絶望の業火ごうかに焼かれながら終わろうとしていた。待ち人を恋しく思いながら、待ち人を深く憎みながら、王子の心は目覚めたり濁ったり揺れに揺れていた。自分が求めているものが何なのか、どうしても掴めない。それでも心をよぎる風景が、言葉があるのだ。正気でいられる間、王子は散り散りになろうとする想いを必死で書き留めた。

 時にそれは真実で、時にそれは虚像だった。憎しみの言葉が増えれば、そこにはまた黒い闇が引き寄せられて王子を蝕んだ。それでも王子は心に浮かぶ言葉を求め続けた。何かが王子にささやきかける。それはとてつもなく大事なことなのだと王子は感じた。そして……その命の火が消えようとするとき、王子は見たのだ。


 風の強い日だった。心に巣食う闇をすべて吹き飛ばしてしまうかのような風の中で、夕闇とともに我が身を取り戻した王子は空を見上げていた。いつになく心が晴れていて穏やかだった。寂しい岩屋に美しい月の光が投げかけられた時、王子はそこによく知っているものを見たような気がした。


「笑っているのか? そこは月が輝く場所なのか?」


 自分を照らし出す月光の中で、王子は見えない何かに向かって手を伸ばした。大切な何かがそこにある。遠い日、常に月の美しさが自分の近くにはあったのだと王子は感じた。清らかな何かが頬を撫でていく。遠く水音を聞いたような気がした。懐かしさがこみ上げて胸が熱くなる。ああ、風が心の闇を吹き出していくようだと王子は思った。

 降り注ぐ光が王子を包み込めば、もうとっくに忘れていた温かさを思い出した。それは自分に寄り添ってくれる甘く芳しいもの……大切な大切なもの、この世界で一番美しいもの……。

 その時、一匹の蝶が窓辺に止まったのだ。その翅は金をちりばめた青い輝きをたたえていた。優しい羽ばたきの中、王子の閉ざされていた扉は開き、何かが次々と流れ出した。


 輝く陽光の下、青い花と戯れた幸せな日々。優しい微笑み、柔らかな温もり、ああ、それこそが自分が求めてやまないもの。王子は夢中でそれをかき抱こうとする。それなのに届かない、掴めないのだ。

 やがて目の前に燃え盛る火が現れた。繰り返して見てきたその光景は一体何を教えているのだろう。炎はいつになく邪悪で、王子は胸が苦しくなった。再び景色は歪み濁り始める。ばらばらになっていこうとするそれを王子は必死で手繰り寄せる。


 誰か力を、私に強さを。王子がそう願った時、青い翅がより一層、鮮やかに輝くのが見えた。小さな言葉を託されているような感覚だった。王子は最後の力を振り絞る。思い出せ、思い出せ、取り戻すんだ。そしてついに王子は掴んだ。

 青き翅の麗しい人を。その身をもって自分を助けようとした愛しい人を。いつだってお側にと、最後にその唇は紡いだのだ。それは叶わなかったけれど、黒く澱んだ心の奥に隠されてもなお、変わらず自分に向けられていた笑顔があったことを王子は知った。自分は決してひとりなどではなかったのだと王子は涙を流した。


 青い蝶は妖精の心。女神からの伝言。愛しい想い人を追ってはるか泉の王国から旅を続けてきたのだろう。か弱き翅で森を超え川を渡り、瘴気と戦いながら今ようやく辿りついたのだ。それなのに自分は待つことができなかった。その優しを忘れて世界を呪い続けた。王子は嗚咽をこらえることができなかった。

 滂沱の涙を流しながら、王子は詫び続ける。守れなかった約束は自分の力不足だ。弱い心につけ込まれてしまったせいなのだ。遅すぎるのはわかっている、それでも彼女のために、この呪いを解きたいと、薄れ行く意識の中で王子は思った。けれどもう時間が足りなかった。ああ、すべては無にすのか……それでも王子は諦めきれなかった。

 再び誰かがこの岩山に囚われた時、自分と同じようになってはいけない。思ってくれる人を信じて待ち続け、一緒に呪いを打破しなくては。王子の心に一つの言葉が浮かび上がった。それは遠き王国から青い蝶が運んできた女神の言葉だった。


「すべてを許し合え」


 それこそが、呪いを解く大切な言葉なのだ。約束を果たせなかった自分には意味をなさないものとなってしまったけれど、これを伝えなければいけないのだと王子は思った。震える腕に力を込め、最後の言葉を書き記し、岩の壁に作られた棚の奥へと押し込んだ。


 青い蝶は王子の姿を、その一部始終をじっと見つめていた。小さくなっていく命の炎はもうどうすることもできない。ようやく辿りついた清らかな想いは、けれど届かなかったのだ。ともに行くことを許されなかった。そこまで来ていた愛しいものの想いが、目の前で辿りつくことなく砕け散る。王子の伸ばした手が、大切な人に結びつくことなく地に落ちた時、その翼もまた、女神の待つ麗しい国に戻ることなく黒き灰となった。

 窓辺からそっと飛び立った青い蝶は、名残惜しげに何度も何度も王子の周りを回った。そして最後にその美しい翅を震わせながら王子の頬にそっと触れ、深い闇の中へと身を翻した。

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