第14話 閉ざされた岩山の悲しみ

 太陽は沈み、深い闇が訪れようとしていた。森を超えはるか西へ、力の続く限りひたすら飛び続けた王子は、やがて誰もいない岩山に降り立った。もうこれ以上、翼を動かす事ができないほどに疲れ切っていた。岩山の中には自然とできた洞窟のような場所があり、王子はその隅に身を寄せて眠った。

 目覚めれば空腹を感じ、本能で動き始めた。岩山の周囲の森にいる小動物をその鋭い鉤爪で襲い、貪り食うのだ。食い、眠り、食い……ただそれだけの日々を幾日か過ごすうちに、王子の姿に異変が起こる。

 夜になれば人の姿に戻るようになったのだ。闇に包まれた洞窟で、王子は自分の五本の指先をじっと見つめた。なぜ自分がこのような岩山にいるのか、どうしても思い出せない、自分が誰かさえもわからないのだ。そして、昼間の意識はまったくと言っていいほどなかった。


 けれど、そのうち王子はおぼろげながらに鳥である時間があることに気がついた。人に戻ると言っても、どこかに鳥の特徴を残す異形だったからだ。何一つ確かなものはなかったけれど、王子はひしひしと自分がいかに残虐なことをしているかを感じるのだ。それはひどく王子を苦しめた。

 そんな風にして少しずつわかってきたものがありながらも、これまでのことはさっぱり思い出せない。自分の身に何が起こったのか、まるで霧がかかったかのように何一つ見えないのだ。ただ、時折心の中で何かが囁いた。ああ、これは呪いなのだと王子は思った。恐ろしい絶望感が王子を襲った。


 鳥の姿であればこの岩山から抜け出せるかもしれない。けれど鳥である昼間、王子の心は人のそれではなかった。そのようなことなど思い出しもしないのだ。そして暗闇とともに弱い人間に戻れば、険しい岩山は逃れることのできない牢となった。

 それでも、元の生活があるのなら、心ある誰かが助けに来てくれるかもしれないと、王子はわずかな望みを手繰り寄せた。そうでもしなければ狂ってしまいそうだった。この暗く寂しい世界に命果てるまで一人だなんて、どうして耐える事ができるだろうか。ああ、誰か……しかし、待てど暮らせど何も変わらなかった。誰もこなかったのだ。

 自分が降りられないように、この険しい岩山を登って来られる者などいないだろう。王子の失望は大きかった。そしてついに、この呪いは二度と解けることはないのだと感じた時、その悲しみは深い憎しみに変わった。呪われた自分と同じようにこの世界も呪われればいいのだと、王子は天に向かって叫んだのだ。王子の抱える闇は一層深まっていく。


 一方、王子が飛び去った後の王国では、あちこちでくすぶり続ける火を抑えるために、女神が夜通し美しい泉の水を降り注がせた。民もみな疲れ果てていたけれど、少しでも女神の力になりたいと水を運び続ける。老いも若きも、中には傷ついた者たちもいたけれど、誰もが心から女神を慕ってのことだった。

 その様子を見た女神が、そっとその手を彼らの上にかざせば、人々は互いに寄りかかるようにその場で眠りについた。女神は優しい微笑みをその顔に浮かべ、また空へと向き直る。青き水は王国中に慈雨となって振り続けた。やがて、うっすらと空が白み始める中、ようやくすべての火は消えたのだ。


 黒い焼け跡に立つ翼なき女神はその腕に妖精のむくろを抱いていた。火が消えたことを女神が認めれば、その時を共に待っていたのだろうか、骸は青い光となって消えた。彼女がもぎ取った一対の翅だけが、そこに残された。その翅をそっと手のひらにのせ、女神は最後の力を振り絞って優しく息を吹きかける。するとそれは青い蝶になった。


「心優しきものよ、人が愛する花に集い、真の愛の言葉を聞け。愛するゆえに怯え苦しむ者に勇気を与え、その想いを運ぶのだ。もうこれ以上、愚かで悲しい愛を繰り返すことのないよう」


 青い蝶はゆっくりと羽ばたいて、軽やかに舞い上がる。そして青が混じり始めた薔薇色の空へと消えた。見送った女神は、眠る者たちをもう一度見やると静かに頷き、聖域の泉の奥へと姿を消した。小さな呟きだけが、青く輝き始めた空に残された。


「最後は愛しき者のそばに。その迷える魂に寄り添うがいい。すべてを許しあい、共に行くがいい」




 それからどれくらいの時間が流れただろうか、王子にかけられた呪いは時折薄れ揺らぐことがあった。闇に染まっていたとはいえ一介の吟遊詩人。呪いはそこまで強いものではなかったからだ。発動した時、まるで吸い寄せられるかのように絡まっていった小さな魔性たちあっての呪縛だったのだ。

 もし女神の力が早々に戻っていたならば、その異変に気付くことができたかもしれない。さらなる呪いから哀れな王子を救うことができたかもしれない。けれど女神は深き泉の底から離れることはなく、その力の弱まった世界には黒き闇たちがはびこっていった。


 岩山の王子の苦しみに、世界の中で生まれた禍々しいものたちが次々と集まっていく。まるで甘い蜜に群がる虫のように引き寄せられるのだ。薄まりかけた闇はその度重ねられて邪悪さを増し、それゆえに王子の呪いは解けそうになりつつも解けることがなかった。

 けれどいつの頃からか、ゆらゆらと呪いが揺らめく合間、王子の心の中には風景が映し出されるようになった。それは真っ赤な西日、燃える蝶の翅、降りかかる黒い灰……。なんだこれは、どこだ、何が起こっている。もう少しで何かを思い出せそうなのに掴めない。王子はそのもどかしさにもがき苦しんだ。思い出の淵を目を凝らして覗き込んでも、それは混沌とするばかりだ。


「誰だ? そこに誰かいるのか? お願いだ、答えてくれ!」


 己のしたことを決して忘れてはいけないと女神は言った。けれど王子は約束を守れなかった。それは王子のせいではなかったけれど、しかしそれは譲れない、大切な条件だった。そのため救いの道は閉ざされたままなのだ。

 大切な約束を取り戻すきっかけはもう目と鼻の先にあるというのに、また一つまた一つと、王子の心に潜り込んだ闇が真実を虚言に包み、風景を歪ませた。王子はその晴れぬ霧のような悪夢の中を、血の涙を流しながら、呪いの言葉を重ねながら、一人彷徨い続けた。あの日王子の心に滴った闇は、こうして王子を覆い尽くしたのだ。希望の光ははるかに霞んでどこにも見えなかった。

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