第13話 呪いの言葉「愚か者は去れ」

 いまだ小さな火の手はあちこちで上がり、崩れ落ちる焼け跡に悲鳴は上がっていたけれど、狂気を感じさせる何かは去ったのだということを誰もが感じていた。立ち尽くす王子の前に女神シャルレイアが妖精を連れて降りてきた。

 その翼は赤い牙との戦いで見るも無残に焼かれ引き裂かれている。愚かな、と女神が口を開いた。


「なぜ問わぬ。心を込めて問えば、そこには真の答えがあったはず。すべてを拒絶して闇を呼び込むなど……そなたが欲しかったものとは何か?」


 遠い目をしたままの王子は答えなかった。女神の方を見ようともしなかったのだ。心優しく働き者だった王子の変わり様に妖精は驚きを隠せなかった。

 あの恐ろしい闇を引きつけたものが、王子の中にあったことに気づけなかった自分を妖精は心の内で嘆いた。耐え難き苦しみを思い、言い知れぬ痛みを感じた時、王子がぽつりと言葉をこぼした。


「行って欲しくなかったのだ。私と一緒にこの地にとどまって欲しかった。愛しているのだ」


 虚ろな目に一瞬力が戻り、王子はまっすぐに妖精を見た。妖精は雷に打たれたような衝撃を覚えた。王子を追い詰めたのが自分だと知ったのだ。

 妖精が翅を持つばかりに王子はこの先のことを憂い苦しんだ。蝶になってこの地を離れる選択を思い描いたのだ。妖精の胸は張り裂けんばかりだった。この人に寄り添いたいと思っていた自分がいたことは本当だ。なぜ早くそれを伝えられなかったのか。全ては王子の先走った勘違いから始まったものではあるけれど、それを招いたのは自分だ。

 けれど女神は無情にも言った。


「そうだとして、口聞けぬものを踏みにじり得るものがあるのか。そなたの愛など露ほどにも重さを持たぬわ。愛とは、愚かなものが簡単に口にしていいものではない」


 王子はがっくりと膝をつき、うなだれた。しかし謝罪の言葉はない。女神は王子をじっと見つめた。女神の顔は汚れ傷ついていたものの、美しさはそのままだ。けれどそこには人々のよく知る慈愛の表情はなかった。


「翅が悪いのだと、そう言いたいのか。そうか、それならこうすれば良い。この先蝶の美しい翅はみな、人の憎しみに当てられれば黒く焼け落ちるだろう」


 王子ははっとして顔を上げた。その目を大きく見開き、妖精の美しい青の翅を映して激しく首を振る。しかし女神は容赦なく言葉を紡いだ。


「暗く濁った闇のような己の心を恥じるがいい。愛しいものを守れぬかもしれない苦しみに。愚かな愚かな王子よ、そなたもまた、尽きぬ炎に焼かれ続けるのだ」


 女神が王子に向かって青い爪に彩られた白い指を振り上げた時、妖精がその身を投げ出した。


「シャルレイアさま、お待ちください。どうぞその罪は私に。心優しきこの方を苦しめたのは私です。花畑を壊滅させ、多くの仲間の命を失うことになったのは私のせいでございます。この恐ろしい出来事の罪をどうぞ私に。そうです、この翅がいけないのです。これが殿下を苦しめたのです。ですからどうぞ、私の翅でお許しくださいませ」


 そう言うと妖精は自らの翅をもぎ取った。それは妖精の死をも意味する。女神に手渡そうとその腕を伸ばしたまま、妖精は崩れ落ちた。その姿に王子が悲鳴をあげた。

 目が覚めたのだ。心が戻ってきた。王子は妖精に駆け寄った。しかしすべてはもう手遅れだった。無残な姿を晒す花畑の中でようやくすべてを知った王子は、愛するものを胸に抱き己の身をかきむしった。

 女神は悲しみをたたえた目で二人を見下ろした。地上の水と天の川を司る泉の女神シャルレイア。清らかな水や花は女神の力を示すもの。それがすべて干上がり濁って踏みにじられた。花や森はいまだくすぶり続け、女神の青き翼もまたそれゆえに端から灰になっていく。それは女神の心の中をも表しているかのようだった。


「そなたをこの世に引き戻したものに免じ、炎に焼かれ続けることだけは許そう。けれど愚か者は去れ。今すぐにこの地を去り、悔い改め、生きることが何かを考えるのだ。遥か遠く人里離れた場所で一人、そなたのために命を亡くしたものたちのことを想い続けて時を待て」


 女神は言葉を切って翅をなくした妖精の亡骸を見た。


「ああ、そなたの心に忍び込んだ闇が悔しくてならぬ。それに気がつかなかったのは我の落ち度。我もまた罪を、痛みを背負うべきなのだ。そなたに我の翼を与える。その身の内に巣食った闇が晴れる時、愛しきものがそなたを訪れ、翼は再びこの国に戻ろうぞ」


 王子は泣きはらした顔を上げ女神を見た。


「けれど良いか、その日まで決してすべてを忘れてはならぬ。己の犯した過ちを忘れてはならぬ。孤独を耐え抜き、愛しき者が訪れることを信じて待つのだ。疑いの心を持たず、ただまっすぐに想い続ける。それがそなたを、この世界を救う唯一の道ぞ」


 女神はそう言うと傷ついた自分の翼をもぎ取って、妖精を抱いたまま肩を震わせて泣く王子の上にはなった。ぼろぼろになった翼が王子を包み込み、その上に焼けた蝶たちの粉が降りかかれば、王子は一羽の醜い鳥となって舞い上がった。

 しかしその時、劫火ごうかを免れた森の木陰で、吟遊詩人はそのすべてを見ていたのだ。女神の下した罪滅ぼしの内容に舌打ちをした吟遊詩人は、飛びゆく鳥の姿となった王子の背に、さらなる悪魔の呪いを投げつけた。それは忘却の呪い。


「この森を超えるものは皆、己のなすべきことを忘れる。忘れるのだ。そうだ、忘れてしまえ、すべてを忘れて苦しむがいい。救われることはない! 未来永劫、お前に光はないのだ。誰も助けにはいかぬ。呪え、嘆け、約束の時などない。さあ、愚か者は去れ!」


 大きな惨劇が一度ひとたび起これば、世界のあらゆる場所からの黒い想いが引き寄せられる。それらは渦巻き膨れ上がり、あらぬ力を発揮する。惨劇が惨劇を呼ぶ背景にはそんな闇の形式があるのだ。今、荒れ狂う炎を抑えたことで終焉を迎えたように見えた闇との戦いもすべてではなかった。

 森の内側こそ女神の力に守られていたけれど、その先では闇が息を潜め虎視眈々と目を光らせていたのだ。世界の中に散らばる闇が再び一つになろうとしていた。この死闘に引き寄せられ、泉の王国に迫っていた黒きものたちが、鳥となった王子に目を向ける。

 放たれた呪いが発動する中、忌まわしき想いは次々と、森を超えていこうとする王子に絡みついた。愚か者は去れ、その言葉に託された女神の真の想いは今や完全に消え失せ、そこには吟遊詩人の呪いのみが残されたのだ。けれど、疲れ切っていた女神は気づくことができなかった。鳥になった王子はすべてを忘れ、はるか西を目指したのだ。

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